4話 赤髪赤眼のカサラギ
くわっくわっ、ぐわっ。
ちっちっちっ。
じーっ、じじーっ。
ひょろろろ。
蛙や虫、鳥みたいな鳴き声がする。
目が覚めると知らない場所でうつ伏せに転がっていた私は、ひとまず起き上がるために両手をついた。
グンと体を起こして、ぬかるむ泥の中からあたりの様子を見る。
雨は止んでいて、白い靄に覆われたおどろおどろしい木々からは仄明るい光が差し込んでいた。
沼地なのか、見える限り点々と小さな沼がある。
「っげほ、けほっ、……うえ」
口の中の違和感に咳き込んで吐き出す。
まっずぅ。
泥の味と、雨上がりの濃い土の臭いや変な臭いが混ざってあまり気分は良くないな。
口を濯ぎたいけど濁った沼の水を使う気には到底なれなかった。
何があったんだったっけ?
って、あの美少年のいた貴族っぽい部屋でも思ったなあ。
体感的にはついさっきなんだけどどれだけ経ったんだろ。
「……いっ、たぁ」
ぼんやりとしていた私を鈍い痛みが襲った。
ズキズキと痛む後頭部に手を当てると、感触に違和感を感じる。
なんかムズ痒いんだけど。
髪を梳いて目の前に持ってきた手のひらには乾いて剥がれた赤黒い物がべったりと付いていた。
「げ」
恐る恐る手のひらを鼻に近づけると、泥っぽさの中に鉄の臭いがする。
まさか、これ血?
ぎょっとしてもう一度後頭部に手を回して探ってみるけど、多少頭痛的な痛みはするものの怪我っぽいのは見つからない。
一応顔や体も確認する。
着物が泥と血で汚れている以外は怪我なんて一切無かった。
「な、にこれ……」
ぼんやりしていた頭がだんだんとはっきりとしてきた。
意識が途切れる前、そう、後ろから殴られたような衝撃を受けて──。
「ん、ぐ……っ」
かすれたうめき声にハッと我に返る。
声の元を探すと、すぐ隣の沼に下半身のほとんどを沈めた赤い髪の女の子が倒れ込んでいた。
もたもたと泥をかいて這うように沼から抜け出そうとしている。
「……いきて、る?」
小屋で村長に切り裂かれた女の子。
冷たくなって、血がいっぱい出てた。
助からないんじゃないかって、思って。
「はッ……、うーっ」
女の子は身をよじった。
手首を縛っていた縄は外されたのか、外れたのか分からないけど無くなっている。
私は泥に足を取られてよろめきながら立ち上がり、女の子に手を伸ばした。
突然現れた人影にびくりと震えて、がちがちと歯を鳴らしながら唸り声を上げて威嚇してくる。
長い前髪で表情は見えない。
そうだよね、怖いよね、ごめんね。
「ゔゔー……っ」
「沼から出すだけ、怖いことしないから」
少しでも安心させようと優しく声をかけると女の子は驚いたように私を見上げてきた。
前髪が流れて大きな赤い瞳が見える。
急に大人しくなった女の子に今がチャンスと脇の下にぐっと手を差し込んだ私は、歯を食いしばって少しずつ引き上げていく。
沼は水というか泥溜まりで粘りがめっちゃ強いし、気を抜くとすぐに足を取られて動けなくなってしまいそう。
途中からは女の子も協力してくれるようになって、全身が沼から出ると勢い余って私もろともにべちゃっと倒れ込んだ。
「うわっと、……大丈夫?」
体を起こした女の子は私と同じ泥まみれで、右頬から首、右半身にかけての着物は赤黒い色で染まっていた。
でもあれだけ出血があったのに女の子は平気そうな顔できょとんと私を見ている。
痛がってもないし、傷を気にする様子も全くないし……。
そんなはずない、よね。
だってザックリと鉈で切られるのを見たし、たくさん血が出て、死にかけてたよね。
いや、生きててよかったんだけどさ、こんなピンピンはしてなくない?
「ちょっとごめんね、痛かったら言って」
頬の固まった血を汚れの少なかった袖で拭いて、首から肩へと手を触れた。
女の子は一瞬震えただけで、私を凝視したまま大人しくしてくれている。
いい子だな~。
緊張する女の子に注意しつつ、汚れを綺麗に拭っていった。
結果、傷はひとつも見つからなかった。
私と同じで、あるのは出血の名残りだけ。
やばいね、超意味わかんない。
どういうことだろ。
実は昨日……多分昨日のあれは夢だったとか?
腕を組んで思い出す。
意識を失う直前に受けた後頭部への衝撃と激痛。
後ろにいたのは村長と神官。
鉈持っていたのは村長。
神官は武器らしい武器を持っているようには見えなかったし、素手でなんとかするような体格でも……なかったよね?
見ていないから想像でしかないけれど、お年寄りとヒョロガリしかいなかったんだからやっぱ鉈で殴られたって考えた方が自然だと思う。
刃の部分で殴られたのかなあ、べったり血が付いてたもんな頭……。
頭にフルスイング斬撃とか無理だって、人間は耐えられない。
うん、やっぱ私はそこで一度死んでるわ。
すとんと納得してしまった。
同時に、夢だよね~夢でありますように、と思っていたのが全然夢じゃない現実だってことも。
──キミはキミが《主人公》である限り、失われることはない。
簡単に言えば死の概念がなくなるのさ。
痛みも苦しみもあるだろうが決して死なない。
キミがキミとして損なわれることはない──
説明不足美少年が言っていたことだ。
こうも冷静でいられるのは主人公だから、ってことか。
だってさぁ普通発狂くらいしそうじゃん、絶対するでしょ死んだんだぜ私。
そりゃ混乱するし取り乱すけど、落ち着いたらいつも通りだもん。
こんな自分、正直言ってすごく気持ち悪い。
損なわれないっていうか、絶対強化されてるじゃんメンタル。
……やめよ。
ひとまず置いておきたい。
っていうかなんで殺されるようなことになったのさ。
私、水神ってことになってたよね。
いや勘違いなんだけどさ、あっちはそう思ってたはずでしょ。
もしかして神じゃないってバレたとか?
あのタイミングで?
思い出せ私、なんか切っ掛けがあったはず。
んー………………?
そうだ確か、「水神様、貴女が言い始めたことじゃないか」のあたりだ。
やるじゃん、よく思い出した甲瀬春!
貴女が言い始めた……鬼人の血が霊薬だって言い出したのがエンジで、でもエンジ本人は知らないって…………。
実際に鬼人の血は効力があったから、否定したエンジを疑った?
あ、分かってきたかも。
村の人にしたら鬼人の血を飲むように勧めたのがエンジでその通りにしたのに、否定してきたから偽物だと判断した。
ということで?
……。
…………。
私、とばっちりじゃない?
頭痛くなってきた。
エンジにじゃなくて、よく分からないままに流された結果サックリ殺された私に。
主人公じゃなかったら生き返らずにそのまま、でしょ。
うわぁ……気を付けよう。
いくら生き返れるとしてもそう何度も死にたくないし。
後ろ頭をかくと、残っていた血の塊がぽろぽろと落ちてくる。
殺されて、村に死体を置いとく訳にもいかないからここに捨てられたってことかなあ……。
ゆっくりと周りを見渡しなおせば、なんとも人気のない陰気な森の沼地だことで。
言わば絶好の死体遺棄スポットじゃん、ねえ……?
「うぇ」
漂う変な臭いが何なのか分かってしまった。
見ちゃったけど気のせいだね、気のせいにしておこう!
沼のひとつから骨っぽいのが見える腕みたいなのが突き出してるなんて!
私は何も見てないよ。
……もうやだ本当に死体遺棄スポットだったとか。
ひとりで百面相している間、女の子は黙って私を見上げていた。
赤い瞳はきらきらとして、肌も意外に良い血色で、こうして、目の前で生きている。
手をそっとその頬に当てた。
「…………痛く、ない?」
「ない」
ふるふると首を横に振り、初めて意味のある言葉を発した。
喋れたのね。
「肩とか……違和感無い?」
「ない」
頬に当てた手を少女の手首に移して摩る。
「手首もずっと縛られてたでしょ」
「うん、痛くない」
「ほんとうに?」
「ない」
「よかっ、た……」
自由になった手首からも縛られていた痕は消えていた。
けろりとした姿に目が潤んだけど、気付かれないように拭った。
良かったぁ、生きててくれて。
私の気持ちを知らずに、つり目がちの赤い瞳を輝かせた女の子は口を開いた。
「ことば……」
「……え?」
「なんで、それ喋る?
それ、カサラギたちの、鬼族の言葉。
人族、鬼族の言葉喋らない……知らない、知ろうとしない。
鬼族と獣、扱うの同じ」
「はい?」
予想外の言葉に、さっきまでぐるぐると考えていたことがもろもろ吹き飛んで行った。
ちょっと待って、私は今まで日本語しか喋った覚えないんだけど……?
鬼族って、エンジの言ってた鬼の子や、村人の言う鬼人と意味的には同じでいいのかな、いいんだよね。
でもやっぱ鬼と言われても目の前の子はどこからどう見ても人間に見える。
真っ赤な髪と目というところはややファンタジックだとしても、角とか牙とか無いしどのあたりが鬼なのか全く分からない。
「普通に喋ってるだけなんだけど」
「人族と話し合う、里長も出来なかった。
昔、諦めた」
「ええと、今喋ってるのは鬼族の言葉?」
「そう。
カサラギ、人族の言葉聞けるだけ、喋れない」
なるほど。
私にはこの子の話している言葉も村の人の言葉も日本語にしか聞こえない。
固有名詞以外違和感とか無かったし。
これも主人公だからだったりする?
てかそれ以外理由が思いつかない。
「鬼族、少しだけ人族の言葉分かる。
捕まると殺される、だから人族とは話さない。
隠れて、話すの聞いて、気付かれないうち逃げる。
分かった言葉みんなに伝える、生きるため。
カサラギ、ずっと人族に捕まってたから、もう少し分かるようになった。
小さいから血少ない、育つまで飼う。
長く歩いて、売られた。
神の贄にするから」
少女が断片的に話す生い立ちに言葉がすぐ出ない。
澄んだ瞳でじっと見つめられる。
「泉から出てきた、見た。
おまえ、水の神?」
「……ううん、紛らわしいことになってたけどさ、違うんだよね」
「なら神子?」
「それも違って、人間なんだ」
「人族、鬼族の言葉知らない。
嘘だめ、ヨガメノキミが許さない」
「ヨガメ……何て?」
「ヨガメノキミ。
嘘許さない。悪許さない、善の神」
「ええと……」
「神違う、神子違う、鬼族の言葉知る、でも鬼族違う。
黒の髪と目、人族の色。なら、何?」
問い詰める視線が痛い。
けれど、敵意というか疑問と好奇心が詰まっているように見える。
「……人間だよ。
その、ヨガメノキミっていうのに誓ってもいい。
あなたに嘘はつかない。
私は神でも神子でもなくて……けどちょっと変なことに巻き込まれてる、人間」
贄にされて殺され……かけたんだよねピンピンしてるけど。
人間的には十分致死量だと思うんだけど、鬼族は丈夫だったりするのかな。
人間と言うものに良い感情は持ってないんだろうし、あんまり言い張って傷付けたくないけど嘘もつきたくない。
私の言葉を聞くと、驚きと喜び半々くらいの表情で言った。
「人族が、鬼族の言葉で、鬼族の神に誓った、本当に?
言葉通じる人族、鬼族の神呼ぶ人族、初めて!
信じられない!」
周りに花が咲くような笑顔に陰気な沼地が雰囲気的に明るくなったような気がする。
かっわいいなあこの子。
「カサラギ、おまえを信じるぞ。
嫌な気配しない不思議な人族だ」
信じてくれたのは良いんだけども、そんな簡単に信じちゃっていいのか心配になるよ。
そりゃあもちろん危害加えるようなことはしないけどさ。
ぴょんぴょんと跳ねて、そんなに衝撃的だったのかな。
「えっと、ありがとう……って言っていいのかな。
ああそういえば、あなたの名前は何て言うの?
私は甲瀬春って言うんだけど」
「カサラギ。
ハナキの里のカサラギだ。
コウセハル、変な名前」
「甲瀬は名字だから春って呼んで」
「ミョージ?」
ミョウジって何だ人族の言葉か、と疑問符を浮かべるカサラギに思い知らされる。
言葉は通じているけど、私はこの世界のことを全く知らないんだ。
エンジが話していたことだっていまいち飲み込めないままだし。
なんとなくつかめているのは、
・神が実在して世界的に影響も与えているらしいということ。
・人間と鬼族の仲はよろしくないどころか言葉が通じず、一方的に生贄にするような間柄。
・村や服装を見た感じでは大昔の日本みたいな雰囲気。
・神様自体は生贄望んでない。
……そんなところ?
文化とかタブーとか当然のように何も知らないぞ。
まずいな、このままだとまた死ぬ羽目になりそう。
「ハル、聞きたいことある」
「なぁに?」
カサラギは顎を反らして首に手を当てた。
さっき私が傷を探したところだ。
傷があったはずの皮膚を撫でた指先を見ているけれど、拭いそこねたカスくらいしかつかない。
「カサラギ、人族に殺された。
それ分かってる、クラヨの御殿まで行ったから。
でも、クラガミノキミに追い返された。
呼ばれてる、言ってた。
だから生きてる、けど、傷無くなるのおかしい。
もう痛くない、なんで?」
ヨガメノキミに続いて新しい固有名詞が……神様だよねってことしか分からないや。
っていうかカサラギも殺されたって自覚してるの?
やっぱ鬼族でもダメなやつだった?
いくら生きてきた世界観が違うとはいえさ、まだ幼い女の子がなんでこんなに落ち着いていられるの。
……ん?
待って、私が生き返ったのは分かるよ。
主人公だからそういう風になってんでしょ。
カサラギはなんで生き返ったの?
「クラヨで、ハルの声聞こえた。
死なないでって言ってた。
カサラギを呼び戻したの、ハル?」
聞こえてたんだ、と私の口から溢れる。
「……うん、言った、けど」
クラガミノキミに追い返されたから、と言うなら生き返り自体はこの世界じゃ有り得る事なのかもしれない。
きらきらとしたカサラギの期待の視線を浴びて、
「呼び戻したかって聞かれると、それは違うと思うな……」
「ハルの声聞こえたのに?」
「それとこれとは違くない?」
二人して首を傾げる。
沈黙に、何かの虫や蛙みたいな鳴き声が不気味に響いた。
「とりあえずさ、ここから出よっか。
綺麗な水探そう」