3話 生贄にされたあの子
ざっかざかと濡れた体を拭きながらエンジと話していると、奥の部屋から世話役だという女の人が布の載ったお盆を運んできた。
見た感じ服、かな。
一度奥に戻ってしまったけど、今度は食べ物が乗ったお盆をもってやってくる。
女の人はそれを置いて両手をつくと、深々と頭を下げてか細い声で言う。
めっちゃ震えてるんだけど何で、大丈夫?
「水神様には、あまりにもそ、粗末なものでございますが、濡れたままではご不快かと……」
「良かったの、着替えるといい。
ああ、ほれほれ、その実は美味ぞ。
わらわの知っているものより少々小さく萎れておるが、よくもまぁこの不作の中でかき集めたものよなぁ。
貰えるものは貰っておけハルよ」
と私のそばで浮いていたエンジは好き勝手喋っていたけど、女の人には見えてないし聞こえてもいないみたいだった。
「ありがとうございます」
着替えなんて持ってないし、エンジも言うことなのでありがたく着替えさせてもらうことにする。
私の知っている着物、というか浴衣とそう変わらないみたいだし。
着付けは女の人も手伝ってくれた。
淡い緑色の着物は外で見た村の人やこの女の人の来ている物に比べると綺麗で、ツギハギとかもない。
供物……として捧げられてたものなのかな。
丈は長くないから折り曲げずに、仕上げに細い帯をぐるぐると巻いて結んでもらう。
脱いだセーラーはとりあえず外で水だけ絞ってから畳んでリュックに詰め、靴もどうしようもないので靴下を突っ込んでその横に置く。
干せそうな場所ないしね。
エンジはいつの間にか盆の上で胡桃サイズの黄色い林檎のような実をかじっていた。
とりあえず。
「……えっと、聞いてもいいですか」
「なんなりと」
「私はこれからどうすればいいのでしょう?」
水神に間違われたままの私だけれど、もちろんただの人間なので。
着物受け取っといてどうかとは思うけどここで「人違いです!」って言っても多分さっきみたいに信じてくれないだろうし。
女の人はぽかんと顔を上げ、おそるおそる口を開いた。
「儀式の途中で雨を降らせて下さいましたが……用意した贄はまだ生きておりますので。
長老がじきに鬼人の血を持って参りますわ。
今しばしお待ちくださいませ」
「鬼人の、血?
待ってください、どういう」
「贄じゃと!?」
大声に下を見ると食べていた実を取り落としたエンジが目を見開いて女の人を見ていた。
女の人はひとりでに落ちて転がってきた実を不思議そうに拾って盆に戻したあと、嬉しそうな笑みを浮かべる。
ぶっちゃけお世辞にも顔色が良いとは言えないので怖い。
「ご存知の通り鬼人の血は万物の霊薬。
水神様のお力もかつての精彩を取り戻すことでございましょう。
それはもう、旱魃など二度と起こらぬほどに」
「鬼の子の血にそのような力は……何故そのようなことになっておる……?」
呆然とエンジが呟いた。
殺す、なんて物騒な……。
「その、鬼人って……どういう……?」
「水神様もご覧になられましたでしょう。
泉に供物と共に並べておりました娘にございますわ」
縛られていたあの女の子だ。
たった一人だけ赤い髪で、妙に浮いていたあの子が生贄なんだと泉での光景を思い返す。
え、あの子が鬼?
角なんて生えてないし鬼要素どこにあった!?
そんな、自分たちとそう姿の変わらない女の子を殺して、血を取るって言ってるの?
「鬼人は言葉も通じぬ人型の獣にございますれば。百害あって一利なし、というのが常識でございました。
ですが生き血を一滴含めば万病に効き、一口飲めば飢えを忘れ、浴びれば不死をもたらすと言うではありませんか。
幼体ですので量はありませぬが、無垢の娘の血となれば水神様にもご満足いただけましょう?」
饒舌になった女の人は両手を合わせ、鬼人の血がどれほど素晴らしいかを喋りつづける。
中世、そんなことを喜んでしていた貴族の女性がいたってテレビかなんかで見たけどさ。
けど目の前で起ころうとしているのは歴史上じゃなくて現在進行形のマジなやつだ。
ぞっとするし、嫌悪感がすごい。
「……だめだよ」
「水神様?」
喋ることを止めて怪訝そうな顔をする。
エンジはいつの間にか私の肩に乗ってきていた。
「わらわの声を聞き真の姿を見ゆる。
素質はありじゃ、しばし口を貸せ」
その固い声に返事をする間もなく、私の口は私の意志とは関係なく動き始める。
え、ちょっと、エンジさま?
「愚か者め」
唐突に変わった私の口調に女の人はびくりと肩を跳ねさせた。
「雨は降らせたであろう、贄の鬼の子は即刻放せ。
われら神は贄など決して求めぬ」
「ですがすでに……」
「わらわは神ぞ。
なにゆえ許しなく口を開くか」
「ひっ」
わ~、理不尽~。
エンジが発する威圧に、青白い顔色をさらに青くさせて後退っていく。
待って、これほんとにわたしの声?
めっちゃ冷たくて怖いんだけど。
堅いのは好まないとか言ってたのはどこいったのさ。
って待ってよ、すでにってもしかしてあの子、もう殺されてるんじゃ……。
──聞いてやろうか。
頭の中に直接声が響く。
肩に視線を向けるとエンジは頷いてみせた。
「贄はどこじゃ、答えよ」
「う、厩に……長老と神官が……」
「生きておるな」
「わかりま、せ」
「生きて、おるな?」
「ははいっ!」
──走れハル。
そうは言っても厩ってどこよ。
──わらわが導くゆえ、行け!
そばのリュックを引っ掴んで私は屋敷を飛び出した。
なんかの時はこれ投げよう!
少し弱まったけど相変わらず雨は降り続いてて、あたりは薄暗くなっていた。
エンジの言うとおりに家々の間を走り抜けていく。
途中、何人かの村人とすれ違って声をかけられたけど無視する。
髪にしがみついたエンジが視界の端で翼を指すのが見えた。
「そこじゃ、離れた小屋があるじゃろ」
村の隅、山際に小屋がある。
やっぱり扉はない。
中で人影が動くのを見て勢いのまま飛び込んだ瞬間、鼻を突いた異臭に反射的に足元に急ブレーキがかかる。
そして、それは起こった。
振り上げられた鉈が赤い髪の女の子に落ちる。
縛られて口を塞がれて、くぐもった悲鳴が聞こえた。
吊るされた女の子から、真下に置かれた壺に滴っていくのは……。
鉈から跳ねてきたのか、頬にかかった感触に思わず手を滑らせると生温くぬめった。
背筋が凍る。
私は持ってきたリュックを思いっきり投げつけた。
「やっ────やめなさいっ!」
村長はゆっくりと振り向くと鉈を下ろして、にこやかに微笑んだ。
にこやかに、だよ。
畑仕事をしていたらお隣さんに声をかけられた、というような顔。
「これは、これは水神エンジ。
血の香に待ちきれませなんだかな。
それでは──」
白い髭をまだらに染めた村長が言葉を止めると、男の人に合図する。
この人が、神官なんだろう。
薄ら笑いを浮かべて取り出した小さな器を、女の子の傷口に添えて首元を掴む手に力を込めた。
女の子は荒い息を吐くだけで意識があるのかも分からない。
黒く見える液体で満たされた器が私に向かって差し出される。
村長は腰を折って、恭しく続けた。
「鬼人の血にございます。
まずは失った力を回復させてくださいませ。
ああ、ご案じめされまするな、この鬼人の血、一滴の余すことなく全て水神様のものでございます」
体が強張ってしまって見ていることしか出来なかった私は、その言葉でカァッと一気に体温が上がった。
差し出された器を思いっ切り下に叩き落とす。
「いらないっ」
「ああっ!」
ガチャン!
中に入っていた血はこぼれて、傾斜が付いているのか外へ向かって流れていく。
私は血が足に触れる前に女の子に駆け寄ったから村長たちの反応は知らない。
小さな体から血が絶え間なく壷の中に落ちて、止まる気がしない。
とにかくおろそうと思ったけど、ロープはきつく結ばれてるし、どうしたらいいのこれ!?
「まかせよ、鬼の子を支えておれ」
エンジが天井に飛んでいく。
何をしたのか、ブチッという音がして女の子の重みが全身にかかった。
「な、どうやって……」
神官が後ろで呟いた。
女の子を地面に横たえて傷口を手で覆うけどそんなんじゃどうにもならない。
首の傷は深そうで、私がここに来る前にやられたのか肩も大きく裂けていた。
濃い血の臭いに咽てクラッとする。
ザアザアと、弱まっていたはずの雨が再び強まってきた、と意識の遠くで思った。
まるで砂嵐みたいな雨の音は耳から頭の中をかき回して、何も考えられなくなっていく。
と、横髪が引っ張られた。
ギギギと音がしそうなほど硬い首を回してそっちに視線を向けると、怒りの目をしたエンジがいた。
その向こうには村長と神官がいる。
「……水神様、待ちきれぬのは分かりまするが、われらの立場もお考え下さい」
「人の子よ、わらわを愚弄するか。
わらわがいつ贄を望んだ?
鬼の子の血が霊薬などと、どこの愚か者が言い出した!
答えい!」
これはエンジが私の口を使って言っているセリフ。
村長はなんでもないように、かつ困惑したように言った。
「何をおっしゃいます水神様。
貴女様が言い始めたことではございませぬか」
「なん、じゃと?」
「覚えておりませぬのか?
三年前、原因の分からぬ奇病に侵された村の者はみな貴女様のお声を聞きました。
『鬼の子の血を飲め、さすればたちまち病は快癒し、強靭な肉体が手に入ろう』……。
お言葉通りに鬼人を捕らえ仕留めた我らは、病人に血を飲ませたのです。
すると何ということでありましょうか。
腐りゆく四肢も、失われた五感も、全て取り戻したのです!
我が妻も、息子も、孫もみな、元より丈夫となりました。
旱魃に飢えながらも今日まで生きながらえることが出来たのは、ひとえに鬼人の血の効力にございます」
「わらわは、わらわは、そのようなこと言うた覚えなどないわ……っ」
私の口を使うことを忘れるほど怒りに震えるエンジは頭を振ってよろめく。
バランスを崩して私の肩から落ちたあと、力なく羽ばたいて宙に浮かんだ。
そうだ、リュック。
投げつけたリュックの存在を思い出して探すと近くに落ちていた。
すかさず手を突っ込んで出てきたのはハンドタオル、ではなく、大判のバスタオル。
こんなの入れた覚えないけどいいやナイスッ!
女の子の傷口に押し当てて……こういう傷だとどこをどうすればいいの?
腕とか足なら授業でやった気がするけどこんなの想定してないし!
女の子はぐったりと動かず、心なしか冷たくなってきたように思う。
死ぬ、死んでしまう?
サァっと血の気が引いていく。
震える喉に言葉をつっかえそうになりながら、女の子に声をかけた。
「しなっ、死なないで、ねぇ!」
「水神様……?」
「長老、水神様は……いえ、この小娘もしや──」
血はどうしても止まらなくて、タオルももうキャパオーバーしてる。
体全体が心臓になったみたいにどくどくとする。
呼吸がうまく出来なくて、目の前のか細い女の子の姿がブレて記憶の向こうの誰かと重なって見えた。
手離さなければよかった。
何で離しちゃったの?
どんどん遠くなって、真っ赤な花が咲いた。
この子の手は離さない。
この子は死なせない。
あの時とは違うんだから……あの時って?
ザアザア降りの川の欄干で──
思い出した、わからない、思い出せない、違う、思い出したくない、あの子は誰?
血が止まらない、手離さないから、お願い、あなたは死なないで──!
「ああっ、後ろじゃ!」
エンジが叫ぶ。
ほぼ同時に受けた後頭部への衝撃と激痛を最後に、私の意識は途切れてしまった。