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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

欲求と矛盾と死

作者: 朝比奈 つなぎ

人は動的欲求と静的欲求があるように思う。


動的というのは食事や睡眠、運動なども含まれるだろう。

自己顕示欲というのも含まれるだろうか・・・。

私には分からないが多分含まれるのではないだろうか。

自己顕示欲とは簡単に言うと見てもらいたいと思う欲だ。自分の存在意義を忘れないようにするため人に備わっていると思う。孤独を耐えられなくする為に備わっていると思う。

求愛行動をするさいに動物は自分をアピールする。つまりは自己顕示だ。

だが元を考えると自己顕示欲は求愛など、つまりは注目を得て種を残そうという動的欲求からきたものともとれる。


だから逆に見方によっては静的欲求ともとれるかもしれない。


話を戻そう。動物は主に動的欲求を元に生きている。知力の少ないものなら尚そうだろう。

あくまで私が考えているに過ぎない他愛の無いものでしかない、だが私はそう考える。

世の中で言うバカとはいくつも種類があるが、人に対してのものだとすると少なくともバカという意味はだいたい絞られる。

バカとは他人より何か出来ない者に対して使われる事が多いだろう。


もちろん他にも使いどころはある。煽るために使うとか、軽い冗談のために使う。少し油断を見せ

る・・・というよりは少し抜けている人に使う事もあるだろう。

勉強は出来るのにたまに抜けている人に使う事がある。理由は勉強に関してだけの言葉ではないからだ。


だが他人より何か出来ない人でも、人ならば静的欲求もある。

人という時点で知能が他の生物より上回っているからだ。


もちろん例外もある。病気を患う人がいれば例外になるだろう。


静的欲求というのは知欲とか、他を思いやれる欲だと思う。

大雑把になってしまったが私の中で的を射ている話だ。

知欲は純粋にどれだけ学びたいかで変わってくる。


例えば勉強ができないと世の中生きていけないから学ぶ、では動的欲求に基づいた知欲でしかなくなる。

この世界で生きていて勉強している人は動的欲求で勉強している人が多いのではないだろうか。


純粋に学びたい純粋に知りたいという人は少ない筈だ。なぜなら学びたい事が必ずしも、お金になるとは限らないからだ。単純な答えだが世の中がそのように出来ているから仕方ないと思う。

いや、仕方ないなんて思いたくは無い。妥協するのは嫌いだ。だが自分は妥協をしてしまう。

少し話を戻す。金にならないと人は生きていけない。価値のあるものにお金が付与されるから必然と言えば必然だ。

しかし知欲は金になるものに惹かれるとは限らない。

ITを純粋に学びたいと思っている人は幸運だ。静的欲求が満たされ同時に動的欲求も満たされる。

しかし、心に少しでも動的欲求が満たされるためにITを学びたいと思ってしまうと静的欲求は満たされない。


もちろん人によって異なるだろうが、私の場合満たされない。自己嫌悪というのが先走り、純粋さが無くなることにより自分が嫌になるからだ。好きで学ぶんじゃない、生きていく為に学ぶでは自分が嫌になってしまうからだ。

自己嫌悪というのは静的欲求を満たすため人に備わっていると思う。



私小説なので今までもかなり変だったがもう少し踏む込んだ話をしよう。


人は生きるために食事をする。

動的に見ればなんら問題ない行動だが、静的に見れば問題だらけだ。

まず、最初に断っておく。

植物好きの方には悪いが植物へ私は情を向けられません。魚も同様だ。

なので米を食べてもなんとも思わないし、サラダを食べてもなんとも思わない。活け作りはたまに気分を害するが特になんとも思わない。人は同類の哺乳類に情がいき易いが離れている魚類などには情が行きにくいのかもしれない。ただ私がそのように出来ているだけかもしれないが、

鳥類なんかにも情はいきやすい。


だから私の中で肉は植物や魚類と同じようにはいかない。

明確に調理前を想像すると虫唾が走る。

動的には問題ないのだ。考えなければなんともなく食べる。

しかし目の前のもの達を静的に考える、思いやると、生きていく為に仕方なく食べるという言い訳に嫌気がさしてくる。


鋭い刃物で今も喚き叫ぶ、生きている肉を容赦なく断つ。

切られた生き物の獣くささが一気に生臭さへ変わり呼吸を、生きるのを人が強制的に止めさせる。

溜まった鮮血は空気に短時間しか触れていなく、血と知らなければ「綺麗」と呟きそうなくらいの赤。

数秒前まで生き物だったのに、生きていなくなり「物」とされる瞬間。

材料とされる瞬間。

幾度と無くこの経験をし、慣れた手つきで色合いの悪い内臓を取り出していく人。

肉塊であってもまだ面影を残す生きていた頃の姿。

内側が開かれぽっかりと隙間が出来、骨と肉が密接に絡み合い、皮がついてるおかげで表情も窺える。

笑っているかもしれない、表情が窺える。いや動的欲求が強いものは顔に恐怖を浮かべているだろう。

次に腹を切り腕を切り、足を切り・・・返事の出来ない物は切られていく。

頭も切られる。

死後がどうなっているのか人は知らない。意識と言うのが何故存在するのか人は明確に知らない。

もし死後に意識があったら、動かぬ体を死んだ眼で呆然と眺め、最悪の気分だろう。

鮮やかに解体され店へ商品として並んだり料理として出される。

ほとんどの人は気にせず今日も食しただろう。人は知らない事で今日も呑気に生きている。


解体する人や畜産業をやっているひとが悪いと言うわけではない。

動的欲求と静的欲求が矛盾しているのが問題なのだ。


生きている限り矛盾はある、と思った人も多いのではないだろうか。

いままで例をいくつも挙げては、それと異なる答えを出してきた。

つまり見方を変えれば矛盾だ。


人が矛盾しないためには産まれてから人に会わないのが一番だろう。

理由は単純明快で人が異なる考えを持っている事が原因だからだ。

人は生きていく過程で必ず複数の意見を知る。そして学ぶから矛盾していくのだ。

自分一人だけの考えだけを持ち、人に遭わなければ矛盾などしない。

抽象的な答えなんて出てこない。

だけど産まれたときから親と言う存在は必ず存在する。親が遺伝子的に矛盾していたらどうなるの?

と聴かれると専門家でもない私は分からない。

また矛盾してしまうのだ。

人に会わなければいい、だけど遺伝子的に払拭できるの?

そう、矛盾している私の考え。・・・いや私は考えるというのを放棄してしまったのかもしれない。

他人の考えをあたかも自分のものにしているだけ。そうやって学んできた。

学校なんてその典型的なものだ。


ここで少し補足を入れるとすれば、動的欲求は本能的欲求とも言い換えられる気がする。

逆に静的欲求は理性的欲求だろうか。

知力が低ければ低いほど本能的欲求が増え、理性的欲求は減るだろう。理解しにくければこちらの方が分かりやすいかもしれない。


では続ける。

そもそも欲について私は、人が死なないように繋がれた命綱としか思っていない。

生きていかせるために繋げられた綱だ。死にたければ綱を断ち切ってもなんとも思わない

ある意味で精神力がなければいけない。

痛みや恐怖はそれを拒絶させるためのものだ。死ぬと痛いだろうから自ら命綱を断つヤツなんてそうそういない。

絶壁につるされたまま人は生まれてくる。

そして絶壁の向こうへ上るために頑張るのだ。


なにがあるのかも知らずに。


人は突き詰めれば、結局失うものの為に努力する。死後どうなるのか分からない以上は覆らない事実だ。

しかし人は欲が満たされると麻痺をする。

一時的かもしれない、死ぬまでかもしれないが麻痺して幸せを感じるのだ。

もう一度言うが人は突き詰めれば何も残らないものに努力する。欲という命綱から出される快楽で人は

麻痺させられる。

守るものが出来るかもしれない、好きな人が出来るかもしれない、合理的に見れば見合わない事だってやっていけるかもしれない。

私はそういう生きたいと思う人は素晴らしいと思う。

だが、私は時節自分のことを冷静に三人称視点で見てしまう事が多々だ。

おかしいことを言ってないか・・・もうおかしいことを書いているのですが今回はおいといて。

必ず調子に乗る前に冷静に自分を見つめ返す。この世の中はその方が楽に生きて行けるから。


しかし楽でも、楽しくはなかった。


合理的じゃないことをやってのける人を凄いと思う理由はこの辺りにある。

欲の無い超合理主義者がいるとすれば、私の考えでは既に生きていない。

欲を断ち切りどうせ失うものならと、すでに崖を落ちたあとのはずだ。

痛みや恐怖など無視して死んだ筈だ。欲が埋まらないと、ただぶら下がっている時間が過ぎるだけだから。どうせ死ぬならと思って死んだ筈だ。

逆に開き直りどうせ死ぬなら生きていこうと思うかもしれない。

また矛盾した。

人は生きるという中途半端なことをしている。

なにか残るわけでもないものにしがみついて努力する。合理的にみればマイナスしかないのにだ。


生きる理由も無く、死ぬ理由も無く人はなんとなく生きている。

生きるのに意味が無いから死のうと思っても痛みや恐怖が拒絶させる。

ある意味良く出来ている世界だ。

科学的に死後どうなるのかが証明されたとき、人は初めて真に生きていく理由が見つかるかもしれない。

逆に証明される事により生きていく意味がないと分かるかもしれない。




人は生きるということで矛盾し生き地獄のなかにいる。

死ぬ事を産まれた瞬間に拒まれ、生きる意味など知らず麻痺した感覚で時間を過ごす。

だから私は痛みと恐怖が消えるまで今日も生きている。

感覚なんてものを捨てられるように。

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