ヒカリの糸
自殺は蜘蛛の糸を断ち切るハサミなのだ。と、誰かが言っていた。
上を見上げると黒い大きな雲が広がっている。地面は、熱した鉄板のように赤くなり、カゲロウが揺らゆらと上がっていた。地面なんてものは存在せずに、熱せられ真っ赤になった鉄板だけが続いている。
聞こえてくるのは断末魔に近い叫び声。肌が焦げるほどの熱が下から襲ってくる。死体を燃やした時の、腐ったような酸っぱい臭いが鼻に突く。
「あれ、新しい子だ」
声が聞こえてきた方に視線を向けると、ツボがあった。中身は溶岩なのか、赤く鈍い光が目につく。そこには、一七、八の少女が風呂につかるように入っている。
「新しい子が来るなんて久しぶりぃ。ここに居るってことは、自殺しちゃったかー。ここは地獄なんだよ」
少女が、はにかんだように笑顔で言ってくる。
「そうなんですか」
周りを見る。衣類を身に着けていない男女が、生まれた時の姿で彷徨っている。
ある男は、鬼のような角が生えた生き物に、溶岩で熱した刻印を押し付けられる。ある女は、両足を付け根の部分から引きチギられ、蝶の羽のように血と内臓がぶちまけている。
どこを見ても似たような惨劇が広がっている。
なのに、誰も死んでない。上半身だけで這いつくばっている女も、両目をくり抜かれた男も、生きていることが不可能に見える者も、みんな声にならない阿鼻叫喚を上げている。
「なるほど地獄ですか。私はどこへ行けばいいのでしょうか?」
気づけば、足の皮膚はタダれ落ち、皮は向けはがれ、中身の肉を赤く熱していく。鉄板には私の足跡が、零れ落ちた血で残っていた。
「どこもないよ。終わりのない、地獄が続いているだけだもん」
少女は、ずっと笑顔で話しかけてくる。ニコニコして可愛い女の子、と言った具合か。
周りの人たちは苦しんでいるのに……おかしな子だ。
「苦しんでいる人もいるようですが、アナタみたいに平気そうな人もいる。違いでも?」
少女は、人差し指を、かしげた頬に当てながら「うーん」と悩み始める。
「私はもう死んじゃってるから、かな。死んだ者には痛みがないの。痛がっている人はまだ、生き返る可能性があるの」
生き返る? 地獄なのに?
「糸がくるんだよ。近いうちに。鬼たちがそれで騒いでる」
「糸って……クモの糸ですか?」
「うん。それを登るの」
少女が、溶岩を水のように浴びる。浴びた皮膚は焼けてだれて、再生され、綺麗な肌が生まれてくる。
「糸を上った先には何があるんですか?」
「輪廻転生かなー。よくは知らないけれど、ここの苦しみからは解放される。一度、地獄に来たものは二度と太陽はみれないものだからぁ」
私は、そうなんですか。と呟き、歩みを続けようとするが、足が鉄板からはがれない。覗き込むと、私の足は鉄板に焼かれ続けたために、血と肉塊が混ざったグチャグチャのものに捉われていた。
なんかもんじゃ焼きみたい。だと思った。
見上げた空は、私なんて気にしていないかのように暗雲が広がり、夜に見る海のように暗く不気味だ。
「あれ、私歩けなくなっちゃいました……でも、歩いてもここに終わりがないなら、歩く意味なんてないですよね。なら、ここでクモの糸がくるのを私も待ってみようかなと思います」
「歩くのが疲れたぁ?」
「いえ、進むことに疲れました。ここで停滞して沈黙を選んでも、終わりはないんですよね。だって私はもう死んでいて、ここは地獄ですから」
私は少女にニッコリとほほ笑んだ。
「なんで、自殺したの?」
なんで?
どうして私は、自殺したんだろう。学校がいやだったから? 親の束縛から逃げたかったから?
たぶん、きっと。
「私はハサミが欲しかったんです。すべてを断ち切るハサミです。親も友人も、家も環境も、私自身さえも断ち切るハサミが」
少女は、ただ「そう」とだけ呟いた。
「おおォォ! 糸だ! 糸が来た! これで、これで! ゴブゥうェ」
遠くから聞こえてきた悲鳴にも似た声に振り返る。
暗く大きな空から、一筋だけ光がさしていた。光は、まるで地獄を両断するような一本の雷にも見える。
「やめて! やめてくれ!」
先ほどの声の主だろうか。鬼に掴まれ、四肢を真っ赤なノコギリで切り付けられている。
「あれが糸?」
「うん。クモの糸だよ」
クモの糸と言われた光を見る。鉄板の上で苦しんでいた人々が、我先にと、光のもとに駆け出す。その後に残るのは、鉄板についた足跡の血痕だ。それがいくつも視界に入ってきて、光に続く赤い絨毯のように思えた。
私は光の糸をみたまま、少女に話しかける。
「掴めませんね。物体ではなくて光ですか」
「そうでもないよ。聖者は掴めないけど、死者には光が掴めるの。「光あれ。夜明けの光を、死者によって神に聞け」って言うのかな?」
少女が何を言っているのか分からないが、どうやら、あの光は掴めるらしい。
「行こうか?」
「え?」
唐突に少女が、ツボから体を出した。その体は、ドロドロに溶けているところから修復されていき、すぐに綺麗なきめ細やかな肌になっていく。
「ここにいても楽しくないもん。私は死んじゃってるけど、人間だよ。人間は楽しいことが好きなの。それに、私にどこへ行けばいいか聞いたよね」
「はい」
少女は、光に向かって歩き始める。
「答えがあるじゃん」
少女が、光の糸を指さす。その横顔は、この暗い地獄でもクモの光を浴びてキラキラしている。
「ここじゃない何処かだよ。天国かもしれないし、未来かもしれない。とにかく、行こう。誰か曰く、行けば分かるさ若者よ」
少女が笑う。その笑顔に引き寄せられたように、私は足を進め――られなかった。