美しいと自負する腐った祈り:弐
ああ、そうか。
思い出は自我があるからこそ、記憶される簡単なものではない。思い出はデータとして、他者が存在していると体感し、現実に動き、自分の世界の中で機能していることを確かめる為に保存される、牢獄の囚人みたいなものだ。五感は体感したことのある喜怒哀楽のカテゴリ内で細分化され、感覚を事細かく保存している。類似した刺激を受けた際に、思い出は看守が囚人を眺めるように流れる。
「――旅は靴ずれな模様。同じ時間に共に血を流したお前は、私の親友となる模様。よろしく模様」
回数にして、五千二百八十五回、残影は繰り返された。無傷のダークエルフは蛾人間へ握手をしていた。
「いや、お前は無傷だし、なんでいきなり親友なんだよ。なあ?」
ぽつんと立っていた俺を、蛾人間は話しかけてくれた。
「…………」
「? お前、喋れないのか」
「ん。がちょんがちょん金属さんは喋れない模様? 私の言葉がわかるなら、手を上げてほしい模様」
どちらの手を上げればいいのだろうかわからなかったので、両腕を上げた。
「おお。俺たちの言葉がわかるらしいぞ」
「しゅごい模様。でもなんで両腕を上げた模様?」
「さあ……?」
ダークエルフは、まだ肌のない鋼鉄の顔をノックした。思考止めるうざったい音叉と同等の音がよっぽど気に入ったのか。関心した趣で、真剣に叩きはじめた。
「あはは」
「おい、やめてやれよ」
メインカメラを覗き込んだ彼女。
目いっぱいヴィジョンに映りこんで、優しく一回、こんと叩いた。
「流れない星みたいな音がする模様」
「星って、どんな音だよ……」
「けっこう重たくて儚い音。誰もが、くせになる好きな音模様」
「わからん」
「わからん模様? 澄んだ金属の音は、木の音と違ってあと腐れのない感じ。音の粒の綺麗さは、凛としていて憧れる模様」
「わからん。俺は木の音の方が好きかな」
「ああ、蛾人間は、きっと甘えんぼな模様」
「意味がわからん。お前も、叩かれるのが嫌だったら、何か言ったほうが……って、しゃべれないのか。嫌だったら右手を上げてみろ」
左手を上げた。
「おお。嫌いじゃない模様か。音楽は好き模様か? 好きだったら右手を上げる模様」
音楽のことはわからなかったので、左手をあげたままにした。
「むむ。好きじゃない模様?」
「どう見ても、音楽なんて聴きそうに無いじゃねえか」
「むーん。残念な模様。でも、これからよろしく親友模様」
「いや、親友じゃねえから。なあ?」
俺は蛾人間の顔を見合わせ、この場を後にしようとした。
「これから私はサボる模様。どうせ他の連中が働き蟻のように動いている模様。一緒にこい模様」
「いや、サボるってお前……」
「ああ、召喚されてすぐなのに、屋上までの道のりがわからない心配をしている模様?」
「いや、そうじゃなくて」
「ああ、そうか。召喚されてすぐなのに、この広い城の中、最前列のやつらは迷わずに、しかもどこに行ったのだろうか……みたいな、つっこみが欲しかった模様か」
「ああ、うん……。たしかにそうだけど……」
「それは洗脳される事を望んでいて、すでにそうあるべきと、各々が思ってしまったから模様」
「洗脳だなんて、大層だな。それは俺たちを召喚してくれて、魔王様は俺たちの親みたいなものだから従うのが当たり前だろう?」
「あはは、ワロス模様」
「ワロスって……」
「これは何百年前に流行った言葉、模様。つまり、いとおかし模様」
「何故それを知っているのか、という事はこの際だから置いておくぞ? 『いとおかし』は、なにか違う気がする」
「あっ、がちょんがちょん模様! 私を無視してどこかに行くな!」
「お前も、俺の言葉を無視してくれるな」
がちょんがちょんとは、俺の事か。
振り向いた時にはダークエルフは私の腕を引っ張っていた。
「えーと、あれだ。あれ模様。あれ、模様。仕事だるい模様」
「はじめからそう言えよ、ぐだぐだするなよ」
「ぐだぐだが好きな模様。もはや私は、弓になりたい模様」
「なんだよ、それ……」
彼女は必死に俺たちを両手で引き止めていた。
「なんというかこう、弓になったら大事にしてくれそうな模様。私、弓を大事にするし」
「いや、俺を弓で殴っただろうが」
「うるさい黙れ模様。弓は世界で一番美しい模様。私は、誰かのハートを射抜くお姫様みたいな存在になって、楽に暮らしたい模様!」
「お、おう……えーと、頑張って、魔王様の嫁か何かなればいいんじゃないかな。魔王様はいつも霧だし、性別があるのか謎だけど」
「霧は嫌だ、イケメンな実体欲しい模様! 弓系お姫様になりたい模様!」
「ただのぐーたらお姫様になりたいんだろ」
「おう、模様!」
「ドヤ顔すんな」
「…………」
「どうする、殺戮機械。サボるか?」
「きっと、あれ模様! このがちょんがちょん無口魔族は、私がえーと、夢を語ったから、一緒にサボりながら夢を語り合いたい模様」
「別にそんなことは無いと思っていたら、右手を上げろ」
俺は右手を上げた。
「ぐぬぬ……。あーもう、あれだ。夢くらい誰にもある模様! 蛾人間も、きっと何かある模様!」
「ただ俺は、魔王様に従っているだけでいいよ。でも……しいて言うなら、勇者たちが使う蘇生魔法を絶対に阻止してえなあ」
「――ん。それは、なぜ模様?」
「なんかよくわかんねえけど、俺は蘇生魔法が嫌いなんだよ。だってよ。勇者たちだけ生き返るってずるいじゃねえか。もしかすると、俺にだって生き返って欲しい人が――」
「あはは」
「え。今、笑う所あったか?」
「うん! きっと、その悩んだ先に艶めかしい蛾人間の魂がある模様!」
「な、なんだそりゃ」
彼女は愛らしいうぶな顔だった。蛾人間の疑問に満ちた顔を見たとき、真剣みの溢れた顔に変わった。蛾人間はその真剣な顔つきに、これから何が始まるのかと黙った。初対面であった彼女は、曖昧な存在だったのに、その真剣な表情からは感情が読み取れず、不気味なくらいに礼儀正しく思えた。彼女は窓から空を指を差す。尖りのある折線を示したような、威厳ある姿だった。
「――ねえ、今の天気はどう見える模様?」
「良い天気だな」
「今は、そう見える模様。つまり曇りでも、それは天気が悪いと思っているだけになる模様。実際はそんなことない。いつも空は優しい模様」
「んん?」
蛾人間は更に首をかしげて、俺に何か言って欲しいように、こちらを向く。
俺は彼女の言っている意味はわからないし、言いたい事すらわからない。さらには声も出せない。
一体俺は、何をすればいい? ――黙って、この場所を立ち去るしかないじゃないか。
「お前ら、考えてみる模様。これが良い天気と言ったけれど、この窓から雲がひとつだけ見えるあれが大きくなって全てを包み込んだら、曇り空となる模様?」
「そりゃあ、曇り空だろ」
「わかった模様。あのひとりぼっちで空を歩く雲を、弓で落とす模様」
もう俺は、彼女に引き止められていない。
彼女は窓を閉めた状態のまま、片手に持っていた貧相な弓を構えた。
「お前、何がしたいんだよ」
「別にわからなくても構わない模様」
何をしたいのか、何を伝えたいのかわからない。
それなのに、彼女は俺たちを突き放すように言ったのだ。
「――私は、この世界で一番の弓の名手と設定されている。設定は構成され、沁みついてしまっている。それを思う存分、使ってやろうではないか。私にとっては、この世で矢で落とせないものなんてない模様。私がその証拠だ。弓は私を魅了し、心を射抜いた。雲でも落としてやる模様」
彼女は背中に背負った矢入れから、鉄の矢を一本だけ取り出した。握った右手は光る。そこから全身へ、狡猾さを模したような紫の魔力がうねってひろがる。短く真っ白な頭髪の毛先が、ふわりと浮かんだ。
喜んだあとの老人のような憂いで、紫色の魔力は誇らしげに廊下を染めた。この場を去ろうとしたが、ぴたりと足が止まる――はっきりと思ったことは、彼女の言動と行動を最後まで見守りたくなったことだけだった。
「――、――、――」
深い所から湧くような地響きと、繊細な音が混じった窓の破壊音は、崇高なものだった。弦の音色が聴覚を圧縮するよう、ぶっ刺さる。勢いよく放たれた矢は紫色のコントレールを轍として残しながらも四散した。鉄槌を土壁に打ち込む籠った響きが衝撃波として聞こえる。「――ふふん。今日も、いい天気模様」それは最強の弓兵という名にふさわしく、至極当然の鼻歌だった。彼女はいとも簡単に、雲をかき消したのだ。
これは城と空との。彼と彼女の。まさしく彼我の境界を砕いた、と比喩できる素晴らしいものだった。
「――やるじゃねえか! 俺にはこんなこと出来ねえ!」
「ううん。こんなの簡単な模様。蛾人間は、まだ自分を知らないだけ模様」
「なんだそれ。知っているよ、俺は俺くらい」
「むきー! 絶対に知らない、もっと信じろ模様!」
「もちろん信じているさ。自分以外は」
「ううーん、模様……」
「ははは。分かっているよ、俺は弱いんだ。だから自分を疑うしかない。つまりお前は寂しいんだろう? だから一緒にサボってやる。お前もこいよ、殺戮機械!」
蛾人間は、俺の手と彼女の手を引いて、走ろうとした。
「――もう、いい。やめてくれ、二人とも」
記憶が、黒く染まる。薄氷のような苦い想いが覆っている。
拳で割るように記憶を思い出したが、そのかわり澱むように何も見えなくなった。
脳回路に聖剣を守ること以外の行動は、プロテクトをされる前の記憶だ。
ひどい熱量を感じたが、ヴィジョンの温度計は変わらない。
なぜ、ダークエルフの言葉で、俺は足を止めたのだろうか。
おかしい。なにかはわからないが、なにかがおかしい。
どこかに矛盾が、ある気がする。隠されている。
なぜ私は、この記憶に自我を含めて、保持している?
これはダークエルフや蛾人間との記憶は、文系思考が存在しない時の出来事だ。
文系思考と理系思考は、同時に生まれないと思考が存在する意味に、辻褄が合わない。
俺は、人間、らしい?
俺は、魔族、らしい?
――どちらか、わからない。
なぜこれらを考えているのか、意味すらわからない。
俺は文系思考を見損なって、強制執行権を使い入れ替わっただけだ。
俺は聖剣のおかげで、プロテクトが解かれた、と思っていた?
それともはじめから、プロテクトはされていなかった?
いや、そんなことはない。聖剣を握る際に、反発していた記憶がある。
《――それは、私が反発したのだ。お前が反発したのでは無い。返せ。身体を返してくれ。それは全て、私の思い出なのだ。思考の奥底に私を隠さないでくれ》
俺の私の目が覚めたのか、俺が求めてしまったのか、文系思考の声が聴こえた。身体を動かすとは、こうまで思考を混濁するものなのだろうか。俺は私に言った。
俺の私よ、それは違うぞ。これは全て俺の俺だけの記憶だ。
お前はただ盗人のように共有しただけに過ぎない。
《違う。私は私という名の私であり、本体だ。お前はただの理性となりたい私の思考に過ぎない》
お前は何を言っている。――そうか、わかったぞ。聖剣に触れたとき、お前が生まれたんだ。
卑怯にも、俺の身体を乗っ取った。脳回路の指針、親として俺を洗脳し、閉じ込めたんだ。
わかるか。お前のせいだ。それが本物である私が強制執行権を得ている理由だ。
《違う。たしかに私は強制執行権を持ってはいないが、本体なのだ》
お前は、悩んでばかりで大事なことを簡潔にまとめて見ようとしないじゃないか。
そんなもの、俺ではない。面倒くさい。偽物だ。偽物だ。偽物だ。
《違う。違う。違う。面倒臭くはない。それはお前の思考の怠慢だ。すなわち、お前が偽物なのだ。私の身体を返してくれ。頼む。頼む。頼む。親友であるダークエルフを殺してしまった事を悔んでくれ。思考を超えた悲しみが何故、お前には分からないのだ。私は生者ではなく、何も感じることができないと思っていたのだ。しかし、こんな身体でも雅な生者の気持ちが分かるのだ。いいや、分かったのだ。分かってしまったのだ。故に私は、悔やまなければならないのだ。このままでは、娼婦を殺めてしまった私と同じ後悔の道を歩む。これは誰かのためでもない。私たちのためなのだ。なぜそれがわからない。頼む。頼む。もう、誰も殺さないでくれ》
黙れ。俺は俺で、私は私だが、私のために俺は進んでいる。私は俺のために存在するのだ。二重の層となって綺麗に進んでいるだろう。誰がどう見ても、後悔無く進んでいるではないか。誰しもつまらぬことで争っているではないか。そのために殺めることが必要なのだ。当たり前の事ではないか。善と悪、そんなものは存在しないとすでに知っているだろう。いがみ合う二つの勢力の間に、俺という新しい力を魅せる必要があるのだ。それが俺と私の、大事な欲望だろうが。
《やめろ。やめろ。やめろ。妖精は去ってしまった。この時間軸では既読済みの過去へ戻れないのだ。私の望みは、王になることではない。それはお前だけの欲望だ。私はただの他愛無い理想が欲しいのだ。今の私は、平穏に過ごすことを夢見ているのだ》
夢は欲望だ。理想など、寝て見るだけでいい。
俺は何が何でも王となる欲望を叶えたい。
《夢は理想だ。誰かを傷つける欲望など、寝て見るだけで良いではないか。私は何が何でも平穏を理想として叶えたいのだ。殺しなど必要ない》
お前は甘い。違う。間違っている。その甘さが現実と理想の違いとして、悩ませていたのだ。
この身体は俺が操作する。この身体は元々俺のものだ。
《私はこの暗闇で何を想えばいいのだ。たのむ、わかってくれ。お前は気がついているはずだ。なぜダークエルフの記憶が流れたのか。すべては繋がっているものなのだ。無駄なものなど一切ないのだ。過去の記憶は、生者であると証明する魔法だ。これは人形の私でも生者であるという、尊厳ある奇跡なのだ》
「……(=ω=)(黙れ。作られた世界に奇跡など存在しない。自分を想ってろ、糞野郎)」
俺の私の通信は遮断した。いつまでも俺はひとりだ。「…………」ダークエルフの死体はこちらを向いているがこれっぽっちも動かず、しゃべらなかった。真っ白な前髪が恥ずかしそうに顔を隠していた。「…………」まるで竹林の隙間。眼球の白く深い輝きが、光を呑み込む強さを醸し出していた。彼女の、束縛されているのか、解放されたのか、そういった心情の分からない表情は牢の柵越しで伺える囚人の無常観そのものだった。眼球の毛細血管の色味は凍ったままだ。街の景色と過ぎ去る人々は友人ではなく――ああ、やはり他者なのだとわかりきった時に合致し、冷静さに陳ずる寂寥の情。座っている自分が、彼女の墓標となったみたいだ。彼女は俺と同じく血がへばり付いて、褐色の肌は泥臭い。幼い身体のおかげか魔族の清い生者なのだと誇張、する。
「……(ฅ'ω'ฅ)(何故、死体を、風景を眺めただけで俺の私の思考が、流れる?)」
武具屋の前を通り過ぎた人間のNPCの数は、ちょうど四百ほどだった。
そのうち色鮮やかな元素属性の髪を持つ人間が一割。
残りは暗く濁った黒色に茶色、濁髪だった。
「……( ・ὢ・ )(俺はなぜ、文系思考と争うように考えているのだろうか)」
人間の特徴である頭髪。俺の髪色は、金色。俺は、勇者を騙すために人間の設定が必要だった。その中で必ず必要となるのは人間としての名前。俺にとって、名前は記号に過ぎなくてどうでも良かった。適当に魂の真名、ランスロット、と名乗ると決めていた。
「――君は、戦争孤児だったのかい?」
黒い外套の青年。俺に声をかけた男は、死体を手押し車に詰め込んだ濁髪の清掃屋だった。
「――ああ、そうだ。俺を残して、親は死んだ」
「ずっとひとりで?」
「? なぜ俺の名前を聞かず、話を進めるようとする?」
「それは名前よりも、気になることがあるからさ。君は、戦争孤児なのかい?」
「ああ、ひとりで生きてきた。ずっと、ひとりで。これからも」
「君は嘘が上手いね。名前は?」
自然と目を細めたのが、自分でもわかった。
男は、にへらと眉をくねらせて、殴りたくなる笑顔で言った。
「わかりやすいね。君は人間らしいよ。名前はなんと言うんだい?」
「気にならなかったのではないのか?」
「気が変わったよ。君は子供の魔族を殺した。だから僕は忌まわしく思っている。魔族でも、子供なんだよ?」
「何が言いたい?」
「殺すことしかできないのならば、せめて祈るべきだよ。死者へ祈らないことが、生意気な子供の特権だとしてもね。誰にも祈らない子供は、理想論を並べるだけの嘘つきだから」
「…………」
「ん。何かあるかい?」
「祈る、とは。神にか?」
「そうさ」
「俺に魔法は使えない。祈りなんて、魔法を使う為の手段だろう?」
「神に祈りが通じる彩髪なのに、君はすごいね。祈らないんだ」
「嫌味か」
「嫌味ですらないな。これは忠告さ。もう、魔族も人間も殺してくれるな。君が人間でありたいならば」
「俺は、人間だ。人間にしか見えないだろう」
「そう思うがいいさ。辛い仕事は、もう増やさないでくれ」
「…………」
「で。君の名前は?」
「誰が言うものか。俺に名前など無い」
「見たまま子供らしいね、君は」
「お前はどうなんだ。茶化すとは大人がやることとは思えない」
「あはは、私は『子供』だよ?」
「不愉快だ。俺の前から消えてくれ」
「あはは、嫌だね。僕は君を殴りたいから話しかけたのだから」
「――なぜ?」
「簡単なことさ。君が、僕の彼女にあげたはずのワインを持っているからさ」
「……関係ないだろう。ただの嫉妬で話しかけないでくれ」
「いいや、もはや嫉妬では無いよ。彼女は君のものなのだろう? もう僕のものではないのだから、嫉妬なんてするはずが無い。感情が突き抜けて、もどかしくないのさ。君を、自分の為に殺したいだけだよ。ダークエルフを殺した君と同じだ。これはしょうがないことなのさ」
「黙れ。俺に、敵うとでも?」
「敵わないだろうね。だからお願いをしているんだ。殺しはしないから、殴らせてくださいってね」
カタカタカタカタカタカタカタ
カタカタカタカタカタカタカタ
カタカタカタカタカタカタカタ
カタカタカタカタカタカタカタ
カタカタカタカタカタカタカタ
苦笑するしかなかった。
こいつは、なんて馬鹿で正直な生き物なのだろうか。
「ほら、殴っていいぞ」
俺は右頬を差しだして一発殴られた後に、左頬を差しだして蹴りを入れられた。
痛覚が無いのが救いか、いくらでも殴られてよかった。
「気は済んだか」
「済むわけがない」
「正直なやつだな。俺を見かけたら、また殴りにこい」
「君は、ただの馬鹿だね。次は、そうだなあ。よく洗ったナイフで知識の果実みたいに、顔面を綺麗に剥いていいかい?」
「馬鹿はお前だ、拳でこい。そっちの方が何度も楽しめるぞ」
俺は苦笑し、清掃屋はひいひいと腹を抱えて笑った。
「ねえ、君の名前は何て言うんだい?」
「俺に名前は無い。それにあったとしても言うつもりはない。俺の名を知っても、お前は心に留めてくれるきっかけになりゃあしない。名前はお前にとって、ただの発声記号だろう?」
「そうかな。音以上の何か――、ああ。そうだ、思い余って友人になれる気がするよ」
「それは無いな」
「ひい。ひい。ひい。あはは。でも名前が無いだなんて、神さまみたいだね」
「神さまに名前はあるものだろう?」
「ないよ。神さまに名前なんてないよ」
「なぜ?」
「神さまは、神さま。それが名前じゃないか」
「…………」
「ねえ、僕の名前は聞かないの?」
「――ああ、そうだな。是非、聞かせてくれ」
「僕の名前は」
行動の理。感情は、嫌らしく囲う現在状況と、過去の経験が掛け合わせた結果で――種族らしい本質が、肌から飛び立つように誇張できるからこそ、生きていると、人間は感じる。万物が作り物であるように、この世界が方程式で作られている限り、人工物に過ぎない。人間の感情が前向きであるのは、未来に希望を持ったまま、明日がある事を知り得ているからだ。この男は、未来を考えていない自暴自棄にしか思えない。男はとてつもない寂しさだけで俺に話しかけている、ただの狂人だった。
「…………お前の名前は覚えておく」
「ありがとう。じゃあ僕は行くよ。また殴らせておくれよ」
「ああ……」
この男は、きっと不安でしょうがなかったのだろう。
良かれと思い、娼婦に贈った愛あるプレゼントを、俺は大事にしていたのだから。
「…………」
それでも俺は、重いモノでも無いのに酒瓶を守るよう片手で抱いていた。これも復讐、俺という名の種族の独立のため。壅塞空間が描いたもっとも面白いとする脚本の筋書きのためだった。
「…………」
ガウェインという名を聞いた時に、もう一度殴られてやりたかった。
アイツは一部の人々に忌み嫌われ、さらには一生理解されず、尊く地獄へ陥った魂だった。
今のアイツは自分らしい答えを出している。前世と同じく派手に死ぬだろう。
「…………」
車輪の音はもう聴こえないが、姿は見えた。親友の死体を白い布で覆い隠して、アイツはふらふら去っていく。決して振り向かず、俺に背中を魅せつけて。
頬が裂けた。
俺は怒っていない。泣いてもいない。俺は、笑っている。俺はアイツが振り向いたときの為に、手を振りやすいかと思ったのだ。だが振り返る気配は無く、きい、きい、きい、と、孤独に車を引き続けた。車輪が雪にとられても、焦点の合わないぎらぎらとした瞳のままで前を向いているのだろう。――死体が跳ねて、心に一筋の光が垂れた。
カタカタカタカタカタカタカタ
カタカタカタカタカタカタカタ
カタカタカタカタカタカタカタ
カタカタカタカタカタカタカタ
カタカタカタカタカタカタカタ
文系思考の私ならば、きっと動けなかっただろう。
声を出せなかっただろう。どうだ、俺はすごいだろう。
カタカタカタカタカタカタカタ
カタカタカタカタカタカタカタ
カタカタカタカタカタカタカタ
カタカタカタカタカタカタカタ
カタカタカタカタカタカタカタ
きっと俺の私は、悩んだ末にそのまま殺すだろう。わかるか。
俺は何も言わず殴られるという、人間らしい最善な行動をしたのだ。
わかるか。俺の私は、最善を知らないポンコツなんだ。わかるか。
カタカタカタカタカタカタカタ
カタカタカタカタカタカタカタ
カタカタカタカタカタカタカタ
カタカタカタカタカタカタカタ
カタカタカタカタカタカタカタ
身体は軋んで、顔面がうずき、ちらめく感覚。みなぎり、滾るとはまた違う。手足の筋肉にはない間違った流動が眉を垂らし、頬を縫い、瞼を沈ませる。俺は一体、どんな顔をしているのだろうかと気になったが確認する術はない。だが、人間らしいに決まっている。表情なんて関係ないのだ。今の俺は人間の行動を取っているのだから。――魔法使いが肩を叩いて、俺は振り向いた。
「子供でも、魔族だもの。しょうがないよ」
彼女の表情は内側に悲哀が差し込んでいた。
その物静かな水溜りのようなため息の中で、俺を置き去りにした。
これは悲しいなんてものじゃない。俺は笑っているのだ。
「――ねえ、君の名前は?」
「…………俺の、名前…………」
なあ、俺は上手く動いているか。
人間というものを人間でない俺でも、表現できているか。
「俺は」
人間に見えているか。わかるか。
お前らを騙すために、俺は人間をしているよな。
「――俺に、名前は必要ない。だから『お前』で良い」
「そんなこと出来ないわ。本名を知られたくないの?」
カタカタカタカタカタカタカタ
カタカタカタカタカタカタカタ
カタカタカタカタカタカタカタ
カタカタカタカタカタカタカタ
カタカタカタカタカタカタカタ
「そうではない。必要が無いと、心からそう思っているだけだ」
「なぜ? 君は、今までなんと呼ばれて生きてきたの?」
「…………」
「君は、勇者の仲間になりたかったのよね。この魔弓のおかげで、ようやく夢を掴んだのよ?」
彼女は、俺の足元で転がっていた親友の魔弓を手にした。
夢を理想とし物々交換、まるで等価交換しているとでもいいたいのか。
欲望と夢が、同じ価値なわけがない。
高価な欲望が、安価な理想と交換できるはずがないだろう。
これは嘘なんだよ。お前らを騙すための嘘なんだよ、糞野郎。
「私は、君を名前で呼びたいの」
「…………」
カタカタカタカタカタカタカタ
カタカタカタカタカタカタカタ
カタカタカタカタカタカタカタ
カタカタカタカタカタカタカタ
カタカタカタカタカタカタカタ
「――ガウェイン。そう……、呼んで欲しい」
「ええ、よろしくね。ガウェイン」
俺はアイツの名を名乗った。前世の真名を見出したNPC。空間とは固着できず、俺と同じく円卓の騎士だった、英雄の魂を。とても滑稽だった。ランスロットの魂でガウェインの名を背負うなんて、ふざけている。だがこれが、人間に俺は人間なのだと騙すための最善な方法であり、美しい願い。祈りなのだ。
「私は、○○○○よ。さあ、いきましょう」
魔法使いの彼女は、自分が勇者によって、名前を自在に付けられる仕様だと思っていない。言語化出来ず、雑音混じりの空っぽの名前を告げた。
「ただの『魔法使い』。俺はそう呼ばせてもらう」
「冷たいね」
俺の演算する回路の音に心臓の鼓動が、とくん、と一回混じってすぐ消えた。
幻聴だろうか。自身までも騙して、本当に人間となっている気がした。
『――人間の身体は世界で一番美しいものだから』
娼婦の憧れが、記憶の片隅で聞こえた。唇を指で触れて、空を見上げた。
空はよくわからない色をしていたが、鬱陶しい青色にしか思えなかった。
『――大人は子供を殺せない』
うっとしい青色の父親の言葉が強く響いた。
子供を大事にしているその言葉から、ヴィジョンは大人ではないダークエルフの姿に切り替わった。
『霧は嫌だ、イケメンな実体欲しい模様! 弓系お姫様になりたい模様!』
俺は魔法使いの肩に触れた。
魔弓の、紫色の魔力は生きているように嫌らしい。
「どうしたの? さあ行きましょう?」
「…………待て」
「ああ。ようやく仲間になれて、ほっとしているのでしょう? 今、ようやく笑ってくれたのだから」
「…………いや」
硫酸の瓶を、眺めた。
「ねえ、そのお酒は――」
俺は殺戮衝動を止めることが出来ないのだと、確かめたかった。
俺が笑っていると見えたのなら、楽しんでいるはずだろう。
片手に持った瓶を――身体を、動かす。俺は今、人間に見えているのだろうか。
子供の父親――初恋の娼婦――親友のダークエルフ――三人の死に顔が視界ヴィジョンの背景に写り込み――《魔法使いの頭をかち割る》――《瓶を捨てる》――選択肢が背景を隠すが悩むまでも無く、瓶を振り上げていた。
瓶の影に覆われた魔法使いの表情は、振り下ろす速度についてはこれず、固まったままだった。俺はもう一つの、第三の選択肢を選んだ。《魔法使いから信頼を得る》。
「――目を開けろ。俺たちの敵だ、魔法使い」
魔弓に向けて瓶を振るった。瓶の中身を警戒したのだろうか。
魔弓から褐色の手が何本も飛び出し、俺の腕をこれ以上、動かないように止めた。
「こ、これ……」
ぼすん。硫酸の瓶と魔弓は同じように雪上に落ちてめり込むが、弓を飲み込もうした雪だけは、体温を喰ったのか優しく溶けていった。
「――すまない。勇者の仲間にはなれそうにないようだ。魔弓は渡せない。ダークエルフは、生きている」
けらけらと魔弓から笑い声がした。弓がダークエルフを模造してゆく様は禍々しい。
ぬ、ぬ、ぬ、ぬ、ぬ、ぬぬ、ぬ
ぬぬぬぬぬぬ、ぬぬ、ぬぬぬぬ
ぬ、ぬぬ、ぬぬ、ぬぬぬぬ、ぬ
ぬぬぬ、ぬぬぬぬ、ぬぬぬぬぬ
ぬ、ぬぬぬ、ぬぬぬぬぬ、ぬぬ
沸騰する水のように泡が浮き出して弾けず膨らみ、肉塊となる。褐色の骨、臓器の表面が波紋でなびき、固まった。紫色の魔力が皮膚として内臓を隠すが、ぼんやりと透けて隠しきれてはいない。幼い女の身体を粘土のように形成した魔弓は、首をサイロ住宅よりも高く伸ばして笑った。
「ずっと弓のままでいたかったのだけれど、乱暴で、しかも哀しそう顔するから出てきたよー。えへへ。私は、夢、そのものなんだ。夢って、見ているだけで元気にしてくれるからね。夢そのものである私を見てくれたら、もしかしたら元気になってくれるかなあって」
魔法使いは言った。
「狂ってる」
「まあね。夢に溺れること自体、狂っているからね。弓は道具だから、命がない。でも、魔弓に取り込まれ道具となってしまった私でも、命も感情も残っていたんだ。私は愛した弓にようやくなれた。だからね、幸せなんだよ。君は夢を持っていない、何も起こらない現実しか持っていないつまらない大人ってことだ。私のような子供を大人は大事にしないと駄目だよ。楽しい未来が無くなるよ? だからどうかそのままでいてね。私のために生きて死ね」
魔法使いは頭上に詠唱サークルを展開し、詠唱に入った。それでも魔弓は、瞳孔しかない目で俺を睨んだ。哀しいのがどうにもやりきれなかったのか、ゆっくりと呟く。
「語尾に『模様』とつけて、とりあえずキャラ付けという法則は面倒臭いね、糞みたい。この糞ゲーNPCの洗脳設定を作った貧乏作家とディレクターは、形つけられた性格を上手く引き出していなくて死ねばいいと思う。これと合わせて、私は、ただなんとなく今のお前が気に食わないんだ。だから私の拳を喰らおうか。矢よりも痛く、制御が効かない我儘を精一杯伝えたい」
魔弓は残影スキルで俺の背後を取っていた。はっとし、振り向いた時には遅い。俺は頬を殴られて吹き飛んだ。身体は、住宅の壁一枚をくの字のまま突き抜けた。――ご丁寧に、視界ヴィジョンに身体の見取り図が表示され、アラートが鳴る。しかし、損傷はなし。ダメージ値はたった、三。俺の残りのHPは九十九万九千九百九十七。身体にまとわりついた土ぼこりを払った。「あは。あははは」つい笑ってしまったのは、粉塵がまとわりついて血しぶきを隠したことが嬉しかったのかもしれない。適当に払い終わると、白銀の鎧はぎらりと瞬いた。落ちてくる瓦礫の下敷きにならないよう、拳で砕き、歩く。外へ出た時の魔法使いの顔つきには笑えた。先ほどの通行人と同じく呆然としていたので「気にするな」と、手土産のように言葉を置いた。魔弓は何故待っていてくれたのか、追撃をしない理由は知る由もない。ふたたび、魔弓の前に立った。「効かねえよ。もっと力を込めてみろ」「お前なんかに心を込める理由は無い。飽きるまで、遊んでやるよ。蛾人間の時みたいに」
カタカタカタカタカタカタカタ
カタカタカタカタカタカタカタ
カタカタカタカタカタカタカタ
カタカタカタカタカタカタカタ
カタカタカタカタカタカタカタ
「上等」壅塞空間が歪み、白くなって砕けた。戦闘フェーズに意向するエンカウントの演出は無駄に思えた。見たところ街並みは変わっていないが、ゲーム側のBGMが脳回路に流れて、気持ちを高揚させようすることに嫌気が差す。これはすべて、ゲームだと知らない文系思考には感じることができないものだったくだらない楽曲だ。
熱気で髪が散り、視界の照度が上がった。魔法使いの炎魔法が、魔弓を包み込む。魔弓のステータスをヴィジョンに写して、殲滅対象としてターゲットとする。与えたダメージは、二千ほど。魔弓の残りHPは、八八万四千三百八十九。弱点は、雷。魔法使いのHPは四千三百九十八。後列に回れと指示しようとしたが、彼女は自分から距離を取った。魔弓は、自らの一部を触手に変えて、戸惑い逃げる通行人を難なく捕まえ、貪るとHPが回復した。「ちょっ……!?」「俺に世話をかけるな」やけを起こしそうになった魔法使いの腕を掴み、引き止める。一瞬、目を背けた彼女は震えていたが――キィィィイイィィイイン。頭上の詠唱サークルが魔力を高速で研ぎはじめ、深紅の火花が散りつづけた。「お願い、離して!!」「落ち着け」――絶叫。混乱。絶望。辺りの住民は悲鳴の残響と共に消えていった。
「――ごちそうさま。というか、私よりも君の方が狂っているよ。女性器を持つ私が思うに、狂っているってね、親友との縁をあからさま見えるように切るやつのことだからね。蛾人間は強がっていたけれど、彼は優しい。きっと私よりも悲しんでいるよ」
「俺はお前のように、好き勝手にやってはいない」
「生きているだけで好き勝手にするものでしょ。それに、私が好き勝手に出来たのは、君や蛾人間のおかげ。ひとりでは好き勝手出来ない。私の立ち位置を理解出来ていないようなら、それでいいよ。君は、ひとりで何をしようとしているの?」
「さあな」
「私はシンゲン・タケダの魂とわかっているけれど、君は理系? 文系? 今の君は、どちらの思考が強く働いているのかな。理系思考と文系思考は混じらないと、自身の輪廻の中で最大に称えられた魂の名を知ることはできない。そういった常識に囚われているんだよ、此処は」
「…………」
「ん、どうしたのかなあ?」
俺の思考は二つに分かれている。
理系思考であるにも関わらず、ランスロットの魂だと、知っていた。なぜ?
「――君は、私と同じく召喚された特別なNPCだ。悩んでいるようなら、君はまだ混ざりあってはいない未完成の思考のようだ。英雄の魂は止まらない速度で悩むからね。忠告するよ。君は私を殺すと絶対に後悔する。もちろん私もだ。でも私は君を殺すよ、腹が立つから。それが私にとって最善では無く、最高だからね」
彼女は《Rhein》を唱えた。魔弓の背丈よりも高く、サイロよりも遥か彼方に、もうひとつの太陽が現れた。掛け声と共に、球体の炎から熱線が数本放たれるが、ダメージ数値は五千ほどだった。
「――ああ、自分の名前を知らない悲しい雑魚か。一般市民の魂のようだね」
「何をさっきからわけのわからないことを。私の名前は○○○○、ちゃんとした名前があるわ」
「あはは、言語化出来ていないよ。あのね。君と同じ壅塞空間と同化しちゃったNPC同士でなきゃ、名前の共有は出来ないよ、雑魚だもん。ここにいる私と、えーとガウェインだっけ。私たちには、君の名前はただの雑音にしか聞こえていないよ?」
「魔法使い、こいつは頭がイカれているだけだ。話を聞くな!」
「ひどいなー、私は親友だったよね。そもそも君は魔族だ」
「え……?」
「――騙されるな、俺は人間だ。魔族であるかどうかは影を見ればわかるだろう!」
「ふぅーん、君は嘘ばっかりの人生を歩むんだね。辛いなあ」
魔法使いは言った。
「ガウェイン。私の事を『魔法使い』ではなくて、きちんと私の名前を言ってみて。それですべてが分かるから」
「ぷっ……あはは! そんなの言えるわけが無い模様!」
「さっき自己紹介をしたよね? 私の名前を言うだけよ。ねえ、ガウェイン」
「…………」
目的のためについた手段が、汚らしく忌まわしい嘘、となってたまるか。
「ねえ。本当に私の名前が、君には聞こえないの? 私は○○○○って名前よ。もしかして、本当に魔族なの?」
ブラックアウト。戦闘終了の演出が壅塞空間を覆って、住宅が一部壊れた街のマップに切り替わった。
「あはは! 面白すぎて、怒りが一気に冷めた模様! これが、嘘をついた罰模様! 私は汚いやつは嫌い模様。自分の汚さを知るといいよ」
――魔弓は屋根に転がり消えかけていた時のよう、うっすらと透明になり機械語に弾けて地面へ溶けた。
「…………」
嘘の罪と、その罰。俺は正しき罰を受けなければならないのだろうか。「――、――、――」いっそのこそ、彼女の首を――。「俺は……」魔弓の気配が消えたことを確認した魔法使いは腹を抱えて、俺の肩をぽんぽんと叩いて大笑いした。
「え……?」
「馬鹿ね、もう済んだわよ? あんたも魔弓も、頭でっかちで不器用なお馬鹿さん。私は君が嘘つきでも正直者でも、人間でも魔族でも、つまるところ不細工な白兎だったとしても、どうだっていいの」
「そ、それは、どういう……」
「なによ。さっきは『気にするな』って格好つけたくせに、慌てちゃってさ。私の名前は○○○○って、思いきり答えを言っているのに、言わないのだから。君は人間なのにさ」
「…………」
「あー、ごめんなさい。あのね? 魔弓は私よりも強いことは明白だったのね。もしかすると、私が魔弓に殺されてしまう未来があったかもしれない。だから私は、戦いに関係ない一言加えた時の可能性を信じて実行しただけ。それが君と魔弓の関係だったってこと。君も魔弓も動揺せず、戦いの空気が変わらなければ死に物狂いで頑張るかな、と思っていたわ」
「……何を考えている? 意図が見えない」
「私は、強い君に出会えたことを炎の女神に感謝しているわ。幸運を、ありがとう」
「…………」
「ごめんね。私は、何が何でも死ぬわけにはいかないの。だってそうでしょう? 愛する人がいるのだから」
彼女は何も知らずに深紅の髪を風に遊ばれ、目を細めた。しかし風には負けず、地面の雪が純白で眩しくても可愛らしい笑顔を簡単に作ってみせた。
「――それは勇者のことか?」
「もちろん。私は、血塗れの怪しい君を誰がなんと言おうとギルドへ歓迎するわ。だって貴方は、私よりも強いのだから使えるじゃない。君が裏切ろうが、闇討ちしようが、絶対に大丈夫。勇者さまの方が強いからね」
彼女の愛は壅塞空間に固着されたNPCのただの設定なのだと知った時、一体どんな顔をするのだろうか。
「…………お前、馬鹿だな」
勇者は弱い。あいつの魔法は俺には、もう効かない。もう一度、上半身と下半身に分けてやろうか。ああ……もし、俺が彼女の大事な勇者を壊したら、彼女は俺にどんな顔をするのだろう。笑うのか。泣くのか。怒るのか。それともすべてが混じり、熟れて腐った顔になるのだろうか。
「馬鹿でけっこう! 私は、偉い人の気持ちなんてわからない一般市民ですから。誰でも考えるもの。安っぽくて至極当然の、思想。水を、蒸気や氷に変えても使うものは使う。仲間の始まりなんてさ、疑いに走ることが普通よ。みんなみんな、生きるために何かと戦っている生者なのだから」
「生者……」
「ええ、君も私も何が何でもしっかりと生きている人間よ。男女の違いがあっても、大事なものはそこじゃない。人間として生きている。それだけでいい。そこに違いなんてあってたまるものですか。――ああ、でもこれだけは言わせてね。偉い人を支えているのは、民よ。まるで……。『パンが無い時はケーキを食べればいいじゃない』なんて言ってしまった世間知らずの昔の私みたいね、ガウェインは」
《hallelujah》彼女の瞳から赤色の文字列が浮かんだが、すぐ消えた。
「お前……」
「んん? あれ……? そんな言葉、言ったことあったかしら……うーん、まあいっか。さあ行きましょう。私たちのギルドへ!」
「お、おい!?」
彼女は、雪上の沈んだ酒瓶を思い出したように拾った。
「これは、君がギルドへ入った祝杯にしましょう。みんな喜ぶわ」
「……祝杯のする気が失せた。それは、馬の小便だ。白ワインはくだらないくらいに、小便と似ているだろう?」
「汚っ!? 楽しませようと悪戯をしたの? ……ったく、いらないわよ!」
なあ、俺の私よ。いいよな、これでいいよな。
復讐できるチャンスは、まだまだあるよな。
俺は人間を殺して、魔族も殺して、みんなみんな殺して、王になれるよな。
回路に刻まれている脚本通りに、ルチルの願い通りにやり遂げることができるよな。
アーサー王のように気高い英雄になれるよな。俺の私よ、わかるか。なあ、わかるか。
――なあ、わかってくれるか。
カタ………………カタ…………
…………カタ………………カタ
カタ………………カタ…………
…………カタ………………カタ
脳回路の駆動音が遠い。文系思考の声は俺に返答はしなかった。そのかわりと言っていいものか、心臓の鼓動が連続して幽かに聴こえた。心臓なんてないのに、聴こえてしまう鼓動がわからなくて、逃げるように空を見上げた。ほんの少しの清々しい気持ちが、すうと重なって、青色とも白色とも決めることができない雲の隙間からは、春でない冬を感じた。雨も、雪も、降ってはいない空だ。曇り空は、晴れているものとして問題はない。曇りは光を弱めるために存在しているだけで、何不自由はないし、邪魔なものではない。そういった些細なことに気がついた視界、もはや形態覚は、誰かの舌でぺろりと鼻下をくすぐるくらいに不快であり、言語覚が狂っている。ありうべからざるすべて、あってはならないような理由も糞もない恍惚感に欲望が足されてしまい、漏れている。鼓動の振動は、針葉樹の葉が雪を落とし、跳ねたあとに似ている。ふるり、ふるりと、淫らに震える針葉樹の葉。したたる水滴は栗の花のように白色で、欲望として垂れていた。押しなべて、首が連動を始める。俺が私のかわりに成さねばならない。首を、狭い空から遠ざけるために、うつむかせる。しかし、地面は見ない。まっすぐ、まっすぐ、前を向いた。
hallelujah
奥底に眠るランスロットの魂が――彼女の瞳で燃えた文字列が――白銀の胸部を、臓器があるのか無いのかわからない内臓の暗がりを締め上げた。――なぜ俺は、ランスロットと知っていたのだろうか。これは壅塞空間が、俺がランスロットでありたいがために魅せている幻想なのだろうか。足を止めていたが、魔法使いは屈託のない笑顔で「ガウェイン」と手招きをした。ざくり、と雪を踏みつぶして、俺は歩く。
真っすぐ伸びた魔法使いの足跡は、ダークエルフの死体を運んだ車輪の轍と真逆の方向だった。体温がない俺たちは背中合わせで、さようなら。
「――すまない。ここから、遠いのか」
「すぐそこよ。そんなことよりもいくら出せる?」
「……?」
「貴方と魔弓の関係のことを掘り下げたくなければ、私に金をよこせと言っているのよ」
彼女は、なにひとつ表情を変えず、笑顔のままで言った。




