覇道の幕開け
そして渦めいた。ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる、とオノマトペが実体化し浮遊したまま消えた。私の身体が玉となり、赤、青、黄色に気安く千切れて分かれていた。視認できる透明の立方体が、私である青い球体から、すうと湧いてきて、色彩の玉をすべて囲った。何千何百何十回も、ころころころころころころころころと四方を周回し、しばらくすると回転は止まり、三つの玉が中心でかちりとぶつかった。そのまま粘り、まざる。うねり、そびえて、白銀の身体が形成された。既読済みの過去へ飛んだ私の自我――私には、時間の形が円でも螺旋でもなくて、天へ立てかけているはしごの直線としか思えない。
「――、――、――」
ちくたく、ちくたく、ちくたく、ちくたく。私は、今の心境を声として響かそうとした。しかし言語は直線となり、振り子で揺れて、規則正しく時を刻んでいた。時間概念の片隅に、動きや発声する価値を見出すことはなく、世界を形成する最中の空間は、静聴する場であった。私の願望の先。振り子の先。人生の終焉。おもりを飾った振り子の先っぽは、私にとって死でない気が、した。
視界ヴィジョンが、娼婦の顔を映した。彼女はとても醜くて、私は空を見上げた。天井は、手の届きそうな距離となっていた。ランプの熱にやられたのか、蛾が床に落ちている。私は毛布を落として蛾を隠した。
「なあ、私は」
巡りはしない春夏秋冬。冬しかない、この世界。過去の私は、雪にかじかんで娼婦を抱きしめた。今はどうだ。
「――、――、――窮屈な私は、君に恋をしたのだ」
もちろん娼婦は、私の言葉に答えない。
となりの部屋から、楽しそうな喘ぎ声が聴こえてくる。
「――、――、――ああ、これだ。わかる、か?」
握っていた聖剣を、娼婦の胸から引き抜いた。
声帯も、引き抜き終えた触覚すらも、聴覚へ。穴からしたたる血液は力を窄ませ、弾けてゆれた。
娼婦は私に抱かれるよう寄りかかるが、死ぬ手前であり、もはや、ただ過ぎるものでしかない。
「――子供は、やさしいね。ばか」
娼婦は私の唇を歯でつまむよう奪い、無様に倒れた。
私はひとりだから、抱き止めはしない。
かたかたかたかたかたかたかた
かたかたかたかたかたかたかた
かたかたかたかたかたかたかた
かたかたかたかたかたかたかた
かたかたかたかたかたかたかた
かたかたかたかたかたかたかた
男女の喘ぎ声が、下品な笑い声に変わる。刃に滴る血液はシーツに滲む。部屋がどんどん狭くなる。私は、本当にひとりとなる。ランプが消えて、木製の壁や天井が黒くなる。部屋はもっと狭くなる。扉の隙間がぼんやりと青白く光った。些細な広さを思い出して、もっともっと狭くなる。ぴいん、ぴいん、と、羽音が弄ぶ。――また人間を殺したの。君は馬鹿で悲しいね。妖精は、粉をまき散らしながら、娼婦の瞼を優しく閉じた。
ねえ、君は恋を知っている?
知っていた。私は、娼婦に恋をした。
君にとって、恋とは人殺しなのね。
私は……
恋は、どうしようもなく愉快で、唐突なの。
笑みが溢れる単純な喜劇から始まるものだと、信じてみせるものなの。
恋はたくさんあるのね。馬鹿な君の恋を聞かせてくれて、ありがとう。
ああ、ああ。
もう、寂しくない?
寂しく、ない。私は魔族でも、人間でもない。
人形と同じく存在するものとして、簡単な生命でしかなかった。
それでも、恋をしたのだ。心はあったのだ。
そ。よかった。
世界は恋で堕落する。私は人間でもない。魔族でもない。
だから、分かるのだ。だから、教えてやりたいのだ。
殺してしまえば、私の思い通りに終結する。
心に残るが、単純なことだった。
そうね。でも、普通はありえないわ。
だから、殺すということは楽でしょう。逃げるみたいに。
楽ではない、逃げてはいない。
私は、既読済みの過去とやらにわざわざ戻ってきて未来を変えたではないか。
そ。私に、会ったのね。だとすれば知っているでしょう。人殺しは、嫌いよ。
私も、嫌いだ。嫌いに決まっているではないか!
私の根本にあるものは、誰かに分かってもらいたいという気持ちだった!
彼女は、私と同じ高貴な魂を持っていた!
だから、だから! 殺すしかなかったのだ!
そっか。私は、何も言わない。君の友達じゃないもの。
君は、死体に吐いた勇者の唾よりも気持ち悪い顔が出来るのね。
だから、ばいばい。
雪の妖精は去った。
鏡は、私の笑った顔をはっきりと写していた。
返り血は粘つき、私の真っ赤な頬がさらに裂けた。
そうして、涙が初めて瞳から溢れた。娼婦の血が軽く流れて、ひたすら痛い。
「ああ、ああ……これが涙か。なぜだ。なぜだ。憤怒と臆病風が混じった信号の流れは、何故こうまで脳回路を焼き切ろうする。見事な無邪気さよ、私は笑う妖精の時間軸にいたいと後悔しているのだ。私は道を間違えたとでもいうのか。ああ、ああ、何故、失念に駆られるのだろうか!」
ィン。視界は吹雪かずすっきりと晴れていて、場所は浴場だった。殺したはずの狂人の姿が見える。彼は自分の胸に短剣を突き刺して、自ら死んだ。時間が軽く巻き戻る。映像化した視界は、私の心理がつらつらと並べられていた。ぼうと眺めていると、ルチルの言葉が流れて、回路に響いた。
『自尊心から得た、無我の境地。しかと見た。限りなく神に近い独裁者よ。勇者も魔王も、愚かな臆病者だ。民が焦がれる領得の楽園を築け。生者の王を目指すのだ』
「ああ、ああ、ああ……そうだ私は、己の小ささを知ったのだ。私は、今の私のようにイデアの尻尾を捉えていたのだ。私が私であってもいいのだと」
私の顔は眠気眼で、素敵だった。鏡は、私の表情をはっきりと写していて、うれしかった。
そのまま瞳を移動させて、裸の聖剣を眺める。こちらも、私の顔を刀身に写してくれた。
「なあ、ルチルよ。貴殿は、神ではない神なのだな。この偽りの世界を作れるものは、ただの人間だろう。貴様が望む王とやらに、私はなれない。その器ではないと過去に証明されているのだ。私は、まるで家族と呼べるものが欲しい魂だった――もう人間も、何もかも、殺めたくはない――どうでもいい……ああ……ああ……このへいぼんなたましいを、おうにしようとするきさまは、わたしになにをのぞんでいるの」
るちるは、なにもこたえず、おーとがへんとうしてくれた。
《……switch……(強制執行権を発動します。円卓の騎士ランスロットの魂のくせに反吐が出る。心を休めるため作り上げようした前世の欲望のまま、死と共に国を建てましょう。次に目覚めた時、私は王となっていることでしょう)》
かた……かたかたかた……か
た……かたかたかた……かた
……かたかたかた……かたか
もう嗤うな。自分の笑顔は辛いだけ。
人の心は、もう知るな。路頭に迷う。
悪魔の体は、もう見るな。欲しいものは手に入れた。
私は私しかいないのだ。俺は俺しかいないのだ。
かた……かたかたかた……か
た……かたかたかた……かた
……かたかたかた……かたか
文系思考は理系思考の、俺に切り替わり、私は安堵し眠った。
俺は賢いのだ。早朝の住宅区に勇者の仲間の一人がいること、沈黙を貫いた俺は知っている。
俺は、ここを拠点にするべく滞在している者たちを、すべて殺める。ああ、女魔法使いの顔面を溶かせば、勇者の仲間たちは震えあがるかもしれない。骨をしゃぶり尽くすように優しくしよう。
「――ああ。仲間を軽く扱う武具屋も壊そう。ああ、ああ、ああ、街を破壊すればいいか。みんなみんな。すべてすべて、俺以外いらない」
勇者も魔族も関係ない。邪魔なものは、ばらばらにしよう。
それが、ひとりぼっちになってしまった俺に出来る、弔いだ。
わかるか。私よ、俺の方がスマートだろう。わかるか。
俺は私を、誰よりもわかっている。
心理を記憶している俺には誤魔化せない。
事々のフォーカスを感情へ絞ってしまっていた。
お前は少女を殺した時に、欲しいものが生まれたのだ。
それは復讐よりも、仲間よりも、死よりも、欲しいものだった。
お前は、自身の感情に見合う表情が欲しかった。
手に入らない表情への悲しみが、感情として映りこんでいた。
思考は螺旋と化し、地の獄へ突き刺さり根を張った。簡単なことがわからなくなった。
少女が死んだ辛さから立ち直れたのは、思考を巡らせ熱中したからでは無い。
考えて得る快感で忘却したのではなく、ただ、表情が欲しかっただけ。
そうして、どうしても手に入らないと諦めてしまった奥底が、お前を立ち直らせた。
雪の妖精に心を許したのは、表情が無いにも関わらず蛾人間のようにいてくれたからだ。
これは決して、友人が欲しかったからでは無い。都合の良い本質の許容を得て、盲目しただけ。
娼婦を殺したのは、艶やかな表情が欲しいと、妬んだだけ。
背負い考え進んでいるのに、結局は自身の欲望に正直だった。
お前は感情があることを認めるだけでよかったのに、その先を求めた。
様々な形へと流動する表情で、一番に求めたもの。それが、涙、だった。
世界はただただ、単純一筋で貫いている。
お前はガラスだ。すべてが透けて、美学がない。
悲しみはずっと残るもんで、楽しさの背に隠れているものだ。
俺たちが悲しいのは、当たり前なんだ。
お前は、何も成してはいないが、本当に欲しいものを得た。
そこだけは、胸を張ってほしい。
俺には必要のない表情を、神ではない神が授けてくれた。
「悲しかったよ」
どうしても無理なのに、何が欲しいのかわからないのに。
理想を掴もうと、もがいているだなんて理解できなかった。素晴らしかった。
「ただの愚者だ」
これは汗水垂らしながら、頑張り続けた者にだけ与えられる、塩辛い幸運。
お前の本心にとって、仲間よりも大事にするであろう財宝だ。
俺は私を笑わない。笑うわけがない。
私は悩んでいるだけで、欲望に誠実な魂なのだと、生を証明したのだ。
「なあ、わかるか。私よ、わかるか。空は狭い。胃の中くらいにからっぽだ」
俺は、私のかわりに怒り、狂わなければならない。
頬が裂けた表情となっているのは、悲しいからではない。
楽しいからでもない。辛いからでもない。わかるか。
俺を知らない奴らが、無作為に切り裂いたからだ。
「辛いことは楽しい」
次は俺が得る番だ。復讐は当たり前だ。
俺は俺の存在を単純に認められたい。
誰もがひれ伏す王となりたい。強い俺を、怖がってほしい。
人間も魔族も男も女も子供も、俺ではないから殺戮できる。
最短で、終点まで行く。
俺が死ぬことは、物語としてはじめから決まっているんだ。
派手に、死ぬ。それが王ってもんだろう。
そうだったじゃないか。格好良かったじゃないか。
俺たちのアーサー王は、永遠なんだ。
「俺は、泣けない」
娼婦の下っ腹を蹴飛ばした。
そうして絡み合い、ふたりであえぐ男女の首を、さくりと斬り落とした。俺だけにしか分からない、この単純な動きは時の流れを堰き止めた絵画と同じく美しかった。
太陽が、大地から顔を魅せた。孤独に天へと向かった。
第一章“死体に埋もれた勇者の唾”或るいは、初恋編、了。
第二章につづく。




