優しい言葉が軽いわけ
「――今日は寒いわね。春を知らない白い街、だなんて、皮肉にまみれて最高よね」
ぽつり、と、雫が落ちる前に音を立てず蒸発したようだった。閉まる扉を待たず、鍵を閉めず、扉は勝手に閉まるもの、といわんばかり。彼女はそのまま私の隣へ腰かける時「本当、大嫌い」と小さく呟いて、扉の音は聞こえなかった。長い濁髪を、耳にかけて私の瞳をじっと見つめた。
「透き通ったきれいな瞳ね。生きていないみたい」
かたかたかたかたかたかた
私の自我が声帯を、ごめんなさい、を、すまない、と勝手に言い直す。感情が、ランプの火よりも弱弱しく揺れていた。――何故?
「さっきの暴言かな。なぜ謝るの? それも無表情で」
何を、何と答えればいいかわからない。私の身体は部屋まで、感情が運んだ。
たった今、言葉を言い直した理屈と、全く同じもの、に思えた。
「君は、気持ち悪いね。病気か何かなのかな。笑えないの?」
「…………」
「……ああ。気を悪くしたら、ごめんね。答えたくなければ、答えなくても良いわ。ここはそういう場所でもあるから」
娼婦は、グラスを化粧台に置いてあった葡萄酒の横へ。葡萄酒は赤いテープで、贈り物、と見て取れた。
「そういう、場所……」
「そうね、ここは、ね……? 嘘が、本当になっている場所なの。男も女も関係なくて、嘘をついても、私も、君も、気にしなくてもいい。自身が正直になれる場所よ」
「…………」
「この部屋は、悲しい人しかこないの。夢を見ている嘘つきしかこないの」
「……なぜ?」
「ん。良かったら、すこしだけ考えてみて? なぜ、とは、何に対してかな。きっと、君がわからないこと、『全て』に対して、だと思うから」
私には、『全て』の意味がわからなかった。『全て』に対してとは、一体何のことなのか。
「…………」
「そうね。私が、ここで働いている理由を教えましょうか。私はね、君の表情が無いってだけで、元気が出ているの」
「…………」
「私は、私よりも悲しい人間を見つけて元気を出しているのよ。だから私は、君の話が聞きたいな、と思っているの」
娼婦は、私が人間だと思っていることには違いない。
「君……、人間が――私を、人間を見下すような真似をして、まるで人間をやめたいようだ」
「うるさいな。今、あなたの身体に触りたくなったわ。だから、ごめんなさい。許して、ね」
娼婦は、白々しく私の頭を撫でて笑った。
「見下す、ね……『神と魔王に挟まれている人間は、神の味方で無ければならない』――これが教会の教えでもあるけれど――貴方は得体も知れない、何処かに潜んでいる『闇』が、心を蝕んで人間を魔族に変えてしまうなんて、本気で信じているの? 元から、魔族なんて人間みたいなものでしょう。闇なんて、ただ黒いだけでしょう。後ろを向いて走れば、逃れることができるじゃない。――人間って、なんでもできる器用貧乏の塊なのだから」
「…………」
「でも。今のままの私は、人間なのに人間じゃない。狂っていると言われてもおかしくないでしょうね。私は、人間でいたいわ」
「…………」
「あのね。みんな、私と話すと元気になるの」
「…………」
「あはは。私は、うぬぼれている馬鹿な人間でしょう。娼婦の言葉ってね、軽いの。軽いというのは、純粋に楽しくなる可能性がある。だから人間は、元気になる。自分にとって都合が良いものほど、軽いものほど、馬鹿なものほど、楽なのよ。だから、楽しくなるのよ」
「――それでも良いと思っている?」
「ええ、いいのよ……都合が良いものは、幸せそのものなのだから。気がつかないふりをしてあげましょう。――ね? それが、大人ってものでしょう。相手がいくら、馬鹿でも、ね」
「…………」
「だから、きっと私も馬鹿なの。欲にまみれている人間だから。でも、それでいいの。私を騙した人達も、私が愛している人達も、みんな馬鹿で軽い人なのよ。この世界は、羽根のように軽くて、恐ろしいと思わない?」
かたかたかたかたかたかたかた
かたかたかたかたかたかたかた
娼婦は、言いようのない孤独と苦悩に触れている――何故?
かたかたかたかたかたかたかた
かたかたかたかたかたかたかた
それでも、幸せに満ちた顔つきをしている――何故?
「……わからない」
「ふうん……私は、君のことが聞きたいな。世の中、つまらないのでしょう。だから君は、裸の剣を握っているのでしょう」
「…………」
「あなたが過去に何をしたのか。これから何をするのか。私は、どうでもいいの。でもね、剣は鞘にしまったほうが良い。鞘が無いのならば、剣は捨てなさい。あなたも、誰かの為にこの身を捧げると決めて生きているのでしょう?」
「…………」
「何。その立派な鎧と剣は、嘘、なの?」
「嘘ではない。私は、意味を持って戦っている」
「意味……? ふうん……あのね。力のない者は、力のある者へ媚びを売るの。馬鹿みたいでしょう。強者が助ける予定だった弱者は、すぐ予定をひっくり返すように、自分の利益の為に救ってくれと媚びるの。それが、人間なのよ。それでね。強者は頼られていると、調子に乗る。それが、人間だった」
「…………」
「調子にのっているところを誰かに見られると、世界は何故か牙を剥く。救いたい者を、あたかも当然のように救わなければならない。気が付かないふりを……自分に嘘をついて、利益を求めず、全て救わなければ、人間のこころは『何か』に削られ、自死するの」
「…………」
「自死すると、強者だった頃の自分自身は現れない。生まれ変わったように弱者へとすり替わり、寿命に飲まれ身体は腐るだけ。それが人間だ。一度失敗をしてしまうと、自分の弱さが甘さとして、魂へ刻まれる。くだらねえ。もう、自分が決めていた栄光の人生は歩めなくなる。それが人間だ。あはは。くだらねえ……くだらねえ……くだらねえ」
「…………」
「……生きているから良いじゃない、なんて言っている人間は、失敗した人間。そいつらは生きた人形。一握りの賢い者は、失敗なんてしない。処女のように、あくどく美しい。この世は、敗北者に満ちた馬鹿な地獄。醜い者が作り上げた偉才な天国。わかるかな。それが、私たちの世界。わかるかな。わかってくれるかな。わかるよね。目に見える武器ってね、持っているだけで、うらやましいのよ。妬ましいのよ」
「…………」
彼女はとても醜くて、私は空を見上げた。天井は手の届きそうな距離だった。ランプの熱にやられたのか、蛾が床に落ちている。私は毛布を落として蛾を隠し、彼女を抱きしめた。
――私は、窮屈だった。だから、彼女を殺すくらいに強く、きつく抱きしめることしかできない。彼女の瞳から、可愛らしい涙がたくさん落ちた。
「ねえ、力が入っていないよ。表情が無くて死んでいるのに、綺麗で優しいね」
「…………」
「あはは。ねえ、何か言ってよ。そうだ。キス、しようか? たくさん人とキスすると、ただの挨拶になるの。君のくちびるは、恋、のままかな?」
「恋など知らない。わからない」
「だったら、私に触らないで――、私から触ったほうが、君の気が楽になる。唇は好きな人のために取っておいてね。人間の身体は、世界で一番美しいものだから」
「…………」
「私は、人を元気にさせる事に疲れた。だって、悲しいだけだもの。だって、幸せになれないもの。誰かの為に生きるなんて、死に向かってひとりで歩いているって、よくわかる行動でしかないもの」
「あの酒は――君を想った人の、贈り物では」
「だったら、いいね。今度は、毒でも入っているかもしれないよ。気が付いたら、また荒稼ぎしていたから」
彼女は瓶を開けて、床に垂らすと、じゅっと、白煙が上がった。
「白ワインと硫酸って似ているね」
彼女は無表情だった。「疑って、良かった――」片手で口元を押さえつけていたが、嗚咽するだけで――先ほどの涙はすでに枯れていた。「――ああ、そうかあ。孤独になると出ないのね。誰でも良いのね。些細な優しさを、誰でもいいからもらうと、涙は出てくれる。だから、強い人は泣けないのね。やっぱり強いなあ、私。――まるで、物語の英雄みたい」
割れた。
グラスは、愛あるプレゼントでは無かったと、粉々になった。――グラスを床に叩きつけた彼女は、冷静だった。希望なんてなかったと、元から知っている。彼女のかわりにランプの明かりが揺れている。花車な彼女の姿は、神秘に満ちて、感情を読み取ることは困難だった。するりと、床に服を落とした。「どう思うかなんて、かまわない。でも、私の身体は汚いの。この世は、辛くてね。私は――誰も理解してくれないと思っているから、醜いの。――君も、死んだほうが人を守れるかもしれないよ。私と出会わなければ、幸せになる人もいた。私は、この世の中で、誰一人も救うことができなかった。息をしているだけだった。だからもう、次はしません。自分が悲しいから、人に優しくするなんて、もう嫌だ。自分が優しい人だとは知らずに、人に優しくしたいよ――神さま。出過ぎた真似をして、ごめんなさい」彼女は、自分の頭に硫酸を垂らした。
「――、――、――」
床を汚く舐めるよう、のたうち回ることはしなかった。まるで安楽死だ。身体は、これから大地に溶けるのだと信じて、倒れた。皮膚がゆっくりとただれて、頭蓋が軽く見えてくる。
化粧台の鏡――私の顔だけが、影を覆ったよう消えていた。手を当てると顔は在る。視覚ヴィジョンが、自分の顔を認識できていないだけだ。私の顔表情は、センサーを潜り抜けている空気のよう、何もかも映っていなかった。今の私のこの顔は、世界に造形を許されていないモノなのだろうか。
「――、――、――」
私は、彼女の服を聖剣へ巻くように着せた。
私は、何故、悲しくないのだろうか。
かたかたかたかたかたかたかた
かたかたかたかたかたかたかた
かたかたかたかたかたかたかた
かたかたかたかたかたかたかた
かたかたかたかたかたかたかた
かたかたかたかたかたかたかた
かたかたかたかたかたかたかた
娼婦は、自身の言葉が軽いわけを教えてくれた。
真っ当な道から外れてしまうと、命は軽くなる。彼女の命が――彼女との出会いも、そのすべて――唐突で、軽率だからこそ、私は何も感じなかったのだろうか。
「……彼女が、私に話しかけた意味は」
娼婦は死を予定し、金の必要性は無くなっていた。
彼女は――はじめから、金に興味は無かった。もはや、金は紙切れでしかなかった――それで――それで――人間が一番大事にしているとも言える金を、落としたことに気付けなかった。
彼女は、私を心配してくれたからではなく――ただ、話を聞いて欲しかっただけ。
道端に、ゴミを捨てて踏みつぶしただけ。金も、娼婦も、ただのゴミだった。
「娼婦を舐めるな。糞野郎」
ただれた顔の娼婦は痙攣しながら、私の足を掴んで――そう、私に言った気がした。
私は彼女の醜い身体を、直視することは出来なかった。視覚ヴィジョンが吹雪く。男の死体が映ってすぐ消えた。私をこの部屋へ留めた腹いせに、彼女の頭を踏みつぶそうと思ったが、外道の血が付くからと、やめた。私は宿屋の出口を覚えていない。理系思考に記憶を逆行させ、見取り図をヴィジョンに出した。娼婦の息絶えている姿が、白煙で霞みながら背景として映りこんでいる。よくよく見ると、下腹部が膨らんでいた。
「人の子のはじまり――恋とは、なんだ」
性器の無い私は、人間が人間に恋をする調和の魂について、疑問を得た。
街の建造物から事実の歴史と、人間の理想を組み立てて、思考に沈みはじめた。娼婦の服で包んだ聖剣に目をやると、理系思考が、私に呟いた。《なぜ、聖剣を隠したのですか。なぜ、娼婦のいうことを聞いたのです》、と。




