消去のゆらめき、余韻の糸屑
街灯が無く、くたびれた階段を下った。氷が斑に散らばり、身体がかさぶたを張っていた。指で弾いて飛ばす。ひびが入る間もなく、ぱらりとまとまって落ちた。幽かに、きん、と響いた音色は白色の氷にぴったりだ。洗い損ねた少女の返り血は水を浴びて流れたのだと、氷の模様で理解する。気温は、少女を殺めた時よりも寒いのだろうか。
ざ。
視界が吹雪いて、すぐ晴れた。眼球に針を刺され、するりと抜いた途端に、網膜が再生するくらいのホワイトインアウト――めまいがする、と言うべきか。理系思考に切り替えた影響で、六十秒を一分とする通常の時流に乗れていない事に違和を覚えている。足音が聞こえるのに、誰もいない。隠れるための物陰もすらない。スポットライトを当てられている素舞台だ。第三者の視線で頭を撫でられて、息が詰まる。そういった、まるで飼われている鳥の心境に近い。窮屈な情の揺らめきを、初めて体感した。
勇者に罪を転嫁するため、外套は置いてきた。それ以外の忘れ物なんてないはずなのに、私は振り向いた。丘のてっぺんは、闇に飲まれて見えない。少女が住んでいた家は、別荘だったのか。はたまた、少女を健全に育てたいがため、離れに建てただろうか。
「…………」
道はくたびれた階段から、とぼしい歩道となる。砂漠色した石壁はすり減って、角が丸い。鉄格子の窓の宿屋がずらりと並んでいる。私は立ち止まらず歩いた。
人間の魔力を充填させている街灯の足元は、彩度が強く毒々しい。積雪を淫らな桃色に変えていた。新雪の表面を風が削った。しんしんと降りてくる雪と混じる。風にも、街灯にも煽られて、白色と桃色を行き来する粉雪の姿は、うぶな少年の赤面そのものだ。いかにも売春区らしい雰囲気に虫唾が走る。私は、自然と早足になった。桃色に照らされている建物を視界に入れたくは無い。私は、私の為に、考えながら歩くことにした。
「…………ん」
私は今、息が詰まっている。これは大聖剣の宿っている神を、雷の女神、と知ったからだろうか。
濃縮し排除された、部分々々の記憶。知識ブロックの一部が更新されている。記憶、知識のゴミ箱の管理は理系思考のテリトリーだ。更新とは、真実を今の状況に合わせた最善へ塗り替えるということ。時には天地がひっくり返るほどの衝撃があるはずである。それで窮屈と感じているのだろう。
「…………」
重要なことだけを抜き出して、短縮しまとめるのは理系思考が得意とすることだ。理系思考は、方程式の答えにフォーカスを当てた考え方をする。方程式の答えが色彩だったと、仮定する。理系思考は、答えが『赤』ならば、『赤』としか判断しない。しかし、文系思考の私は、『赤』という色合いの細分化を図れる。
『赤』という文字は一文字で、これ以上に無いモノだが、私はその『赤』を、溶かし、性質を変化させて質量を増やせる。問い詰めた先の究極、一文字を十万文字に。たった一グラムの情報量を十万倍の情報に膨張させることが出来る。結局は『赤』なのだが『赤』という語を使わず、『赤』なのだと証明できる。直接『赤』と言わず、赤い果物の名前をただ提示した時のように、情報の真実、印象から醸し出すイメージの多様性を。存在そのものの『呼吸』、『空気』といったものを引っ張り出せる。文豪の思考形態を取っている性質だ。
『私は浴場で自分自身を調べた。弓兵を迎撃するには、遠距離武器の開発を考えなければならないし、身体を更に調べたいと思った。突然現れた狂人と戦い、勝利した。聖剣に宿った者は雷の女神で、私は水魔法が効かない身体だった』
これは理系思考が圧縮した記憶の断片である。この断片で重要なことは、ルチルが宿っていた事でも、水魔法が効かない身体ということではないし、ましては勝利したことでもない。文系思考が、没頭できる好きなこと――趣味、を発見したことが一番大きい。私は、私を知れた。これに勝るものはない。自身を知ることが一番の武器になるのだ。わからない事を、わかるまで徹底的に考えてみること。それが私の、幸せな姿だ。
些細な幸せに身を埋めて、殺めた少女の姿を忘れることができる。足元を見るように、冷静にモノを考えたことで、予防線を張る事すら見出して、整理できた。私は私の、自身の未来の為に、安定して歩むことが出来たのだ。
――ありがとうございました。
今の私に、殺人を犯したというストレスは軽減されている。
私は、心から感謝した。これは、夢、をみたおかげなのだろうと。
「…………?」
私は、何に、誰に対して感謝をしているのだろうか。
《……now_taiwa……nadenade_nadenade_nadenade_nadenade_nadenade_nadenade_nadenade……(……あなたは私。私は、私の親……(´ω`*)感謝は不要です(´ω`*)感謝は不要です(´ω`*)感謝は不要です(´ω`*)感謝は不要です(´ω`*)感謝は不要です(´ω`*)感謝は不要です(´ω`*)感謝は不要です……)》
当たり前だった。私は、理系思考に感謝をしているのだ。
しかし、何か引っかかる。――夢、とは。
私に限っては、真実を空想をする、というのが正しいかもしれない。
空想は夢みたいなものだ。しかし私は、空想を、夢、と、同じものにしたくはない。夢なんて叶わないし、願う価値すらなく、見るものではない。夢なんて無い方が幸せに決まっている。私に夢など無いのだから。
「…………」
夢と、殺人……いいや、復讐……二つは、決して混じることはない。
私は罪のない子供を殺めた。これに夢も希望も、無いのだから。
文の私と、理の私。二つの思考を、私は合わせ持っている。
これは私にとって、指が五本在ると知覚し、動かすことのできる――赤子の時から知っているような、当然とする事実である。
「…………」
理系思考の、無駄だと思えば詮索しないという考えは、身体でいうところの骨。個性でいう所の、性格に当たる。理系思考は、自分に利益が無いと思えば、それ以上考えない。しかし私は、浴場から……浴場……が、目の前にある。すごい色だ。桃色である。
「…………」
骨はまるで無い。軟体動物のような娼婦が手招きしている看板だった。大浴場を、私は通り過ぎた。
――そう。浴場からの、記憶の保存は出来ていた。私は浴場で、身体を調べた。弓兵に立ち向かうために、遠距離武器の開発を考えなければならないし、自身の身体も調べ尽くしたい。浴場に、現れた狂人を始末した時、水に染みない事を知った。当然だ、浴場は、水で溢れていたのだ。つまるところ、浴場の、おかげなのだ。私は、断じて、浴場など、気になっていない。欲情なんてしていない。性器など無いのだから。
「…………」
ああ。ああ。ああ。何故、のうのうと歩いているのだろうか。全力で駆け抜ければ良いではないか。だが、身体が言うことを聞かない。走れない。ちらり、ちらり、と見てしまう。ああ。ああ。ああ。助けてくれ。頭と体がまるで離れている。蛇に睨まれた私……もとい、冬眠した蛙のようだ……なんだそれ! よくわからない!
走りサル。サル。猿。
ハシリ去る。ハシリ。シリ。おしり。
真っ赤なおしりのお猿さん。
いやいや、むしろ走り去るというのは、敵の前で背を向けて逃げる、ということになるではないか。
駄目だ。逃げるわけにはいかない。むしろ、何食わぬ顔で歩いてやりたい。
表情が無くて助かった、と、私は安堵した。
「あの……?」
「誰だ貴様。殺されたいか」
「なぜ、壁にぶつかったまま歩いているの?」
心頭滅却。私はおもむろに石壁を殴ってなかったことにした。
「……痛くないの?」
「ふむ。今日は勘弁してやろう。ではな」
「いや……君?」
「肩に触るな、胸の大きい変態が。それ以上近づけば、首を飛ばす」
「またぶつかってる。きちんと前を向きなよ」
「……アアッーーーー!!」
「無表情で叫ぶなんて、器用な騎士さまだなあ」
「アアッーーーー!!」
「何歳かな、僕?」
「アアッーーーー!!」
「……少し落ち着いたらどう?」
「寄るな、殺すぞ。汚い娼婦が」
今の私は、窮屈だった。思い通りに事が運ばなければ、もやもやする心理状況そのものだった。
私は、いつまでも握り締めている鞘の無い――裸の聖剣の切っ先を娼婦の首に向けて威嚇した。
「――失礼ね。人を殺すよりも素晴らしい仕事だと思うわ」
娼婦は、凛として言った。私が本気で首を落とすつもりだとは信じずに、そっと、柄の掌を触れた。これが私を倒す、弱点だといわんばかりの笑顔で、とてもやさしくほがらかに。
娼婦の掌から、丸まった紙幣が落ちた。娼婦は金を拾わない。拾わなかったというよりも、気が付かなかったとでも言うのだろうか。ただ、手を握ることに真剣になっていた。私は手を払い、彼女の金を踏みつぶして、きちんと前を向いて歩いた。
「ねえ。どこに行くの?」
「…………」
「私は、子供の君と話がしたい。何故こんな時間に、こんな所にいるの? そんな物騒なものを握りしめて」
彼女は、私に歩み寄った。瞳を合わせる視線が強くて、うつむいた。私が踏みつぶした紙幣を、彼女もまた、潰していた。踏み荒らしてできる黒い雪と紙幣は、丁寧に混ざり合ってはいない。二つは一緒に溶けず、いつまでも一つにならない。
私は二つとも、汚い、と、ただ想った。




