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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

狂愛の村

作者: 黒井雛

※冒頭に若干聖書パロがありますが、そんな感じの中世風異世界だと思って下さい

 むかし、むかし。まだ神様が一度目の人間を滅ぼして、ノアが石からできた人間とともに新しい世界を築きはじめたばかりのころ。



 神様は新しい人間がどんな風な生活を送っているのかが気になり、人に姿を変え地上に降りました。新しい人々は前の人間たちに比べずっと善良に出来ていた為人間に姿を変えた神々は自身の選択が間違っていなかったことを喜び、ただ一つの点を除いては満足しました。


 神が唯一満足いかなかった点、それは新しい人間の貞淑さの欠如でした。石で作られた新しい人間は数が限られていた為、より一層人間を繁栄させるべく当時の男女の間ではパートナーを入れ替えるのが普通だったからです。


(ただ一つの欠点の為にせっかく作り直した人類を滅ぼすわけにもいかぬ…そうだ、せめて貞淑な男女がその気持ちを汚されないよう、貞淑な人々だけの村を作ろう)


 神は世界中を回って本当に貞淑な、ただ一人のことだけしか愛せない男女を集め、他の人が容易に入れない深い森の奥に彼らだけの村を作りました。そして村全体に衣食に困らない幸福を授けました。


 唯一の愛を知る人々が、互いにけして裏切ることもなく幸せに過ごして行く様子を満足げに眺めてから、再び天へと戻り、長い月日のうちにその村の存在をすっかり忘れてしまいました。


 村人達は自身の村を「愛の村」と名付け、時折村に迷い込んでくる人々を交えながら、その先何世代にもわたり「貞淑」な生活を送っていきました。





(……もう、駄目)



 セレネがこの森を彷徨いはじめて、もうどのくらい経ったのだろうか。

 行けども行けども、ただ空も見えないほど高く生い茂った木々があるだけの同じような風景が続き、出口が現れてくる様子もない。

 ふくらはぎはパンパンに腫れ上がり、足の裏は出来た豆が潰れて悲惨なことになっている。

 もう何日も木の根以外口にしていないせいで意識は朦朧としている。これ以上歩けそうにない。


(こんな所で野垂れ死ぬのね…)


 自嘲するような笑みが漏れる。水分が足りな過ぎて涙もでない。



 ――愛していた。


 ただひたすらに愛していただけなのに。


 利害関係だけで結ばれた両親。

 婚姻によって王家との結びつきを作る為だけに育てられた、セレネ。


 だけどそんな愛の無い家庭に育ちながらもセレネは、両親によって自身に宛がわれた婚約者を、この国の皇太子を、心から愛していた。

 政略結婚でも、愛は育むことは出来る。皇太子殿下はセレネのことを女として愛してはいないが、それでも時間をかければ夫婦としていつかかけがえのない絆を作ることは出来る。

 そう信じて、皇太子妃に相応しい女性であるべくセレネは必死に努力を重ねて来た。


 けれども、皇太子はそんなセレネに言った。


『好きな人が出来た』


『婚約を解消してほしい』


 今までの全ての人生が否定された気分だった。

 セレネにとっては、皇太子だけが生きる全てだったというのに。

 許せなかった。許すことが出来なかった。セレネの全てを奪った女を。

 許せなくて、激情に駆られるままに持てる全ての権力を使って、庶民出身のその女を苛め抜いた。

 そんなセレネにかつて婚約者だった皇太子は残酷な処罰を告げた。


『セレネ・フィオーレ。お前は未来の皇太子妃を理不尽に虐げた。――王家の名のもとに国外追放を命じる。既に王である父にも、お前の生家にも承諾は得ている』


 国外追放――それは、実質的には死罪を意味していた。

 国外追放を命じられた罪人は、国境にある「魔の森」といわれる広大な森の奥深くに、着の身着の儘で放置される。森の奥には獰猛な野生動物が、多数生息している。武器も持たぬ、貴族の令嬢が生きて出られるはずがない。

 皇太子は、そんな残酷な処罰を、僅かな躊躇いも見せずにセレネに命じた。――愛情は無くても、それなりに親密な関係を築いていた、セレネに。


 足元から、全てが崩されていくような気分だった。


 虐げたといっても、女の体を傷つけるようなことは、セレネは一切していない。

 それにも関わらず、皇太子はセレネに対して実質的な死刑を宣告し、巻き添えを食いたくない両親はあっさりとセレネを切り捨てた。


 誰も、いなかった。


 誰一人、セレネを愛してくれる人は、セレネの追放を嘆いてくれる人は、存在しないまま、セレネは森の奥に放置された。



(――私は結局、誰にも愛されないまま終わるのかしら)


 愛されたい


 誰かに、愛してほしい。必要としてほしい。


 セレネが願うのは、いつだってただそれだけだった。それを叶える為に必死に努力をしてきたのに、それだけの願いが、叶わなかった。

 このまま願いが叶わずに終わってしまうのだろうか。


 地面に倒れたまま意識が朦朧とする中、不意に目の前に何かが現れるのが見えた。


「――…ウサギ?」


 まだ子どもなのか、普通のウサギよりも二周りほど小さいそれは、白いフワフワな体で好奇心旺盛に当たりをぴょんぴょん跳ね回っている。


 自分の今の状況に反し、余りに平和な風景に暫し唖然としてしまう。


(もう少し元気があったら、お腹が空きすぎて、捕まえて食べてしまっていたかもしれないけれど)


 生憎今のセレネの状態では、捕まえるどころかまともに動く事すら出来そうにない。


「……私に捕まるなんて、ちっとも心配してなさそうね。あなたは」


 数歩先でのんびり後ろ足で鼻を擦っているウサギに呆れ交じりに呟くと、ウサギが来た方向からガサガサと茂みを掻き分ける音が聞こえた。



「待ってよ~ウサギ君…っ!?」



(ウサギがもう一匹…)


 続いて現れたのは少年だった。

 先程のウサギとよく似た丸い赤い目に、白に近い金髪。黒目がち(この場合赤目がちというのだろうか)の愛らしい顔をしている。

 茂みを通って来たせいか、体のあちこちに草や植物の種がついている。



「っお姉さん、大丈夫!?」


 駆け寄ってくるウサギ少年を見ながら、既に限界にきていたセレネそのまま意識を失った。




「セレネっ!!セレネっ!!見てみて」


「ちょっとリュー。あんまりセレネさんに迷惑かけるんじゃありませんよ」


「大丈夫です。シルビアさん。何?リュー。見せて頂戴?」


 少し困ったように微笑むリューと同じ色をしたシルビアに笑いかけると、セレネは作業を中断してリューの頭を撫でながら手元を覗き込んだ。



 リューとの出会いから早一月。セレネは、自身でも信じられないくらい穏やかな日々を過ごしていた。

 あの日、気を失ったセレネの為にリューは村の大人を呼んできてくれて、そのままこの村に運ばれてきた。セレネは目が覚めた瞬間囲んでいた村人たちに怯えたが、村の人たちは皆善良で優しくセレネを歓迎してくれた。

 特にリューの母親であるシルビアは、様々な家の仕事を手伝うことを条件に、セレネを空いている部屋へと住まわせてくれると申し出てくれた。手伝いといっても、元々貴族令嬢であるセレネは家事なんて全く出来ない、役立たずだ。だがシルビアはそんなセレネに根気強く家事を教えてくれた。感謝してもしきれない程だ。


「どれどれ…ってきゃっ!!」


「蛇の抜け殻だよ!!へっへ、すごいでしょ?」


「すごいわ…すごいからあまり近づけないで…!!」


「もう、気味悪いものばっかり拾って来るんだから…あ、ごめんなさい!!勿論セレネさんのことは別よ!!」


「大丈夫です。分かっています」


 呆れたようにぼやいてから、慌てて首を横に振るシルビアに、セレネは苦笑する。確かにセレネもリューの拾い物といえば拾い物だ。

 しかしシルビアさんが悪気も、悪感情も全く無かったと分かっているので別に気にはならない。


「…ところで、今日も旦那さんの調子はよくないのですか?」


「ええ…もうこのところ、すっかり伏せりきりで。…悪いわね。もしかしたら今夜もまた、ルチアのところへ行ってもらうかもしれないわ」


「いえいえ、私のことはどうかお気になさらないで下さい!!…早く旦那さんが良くなるように祈っています」


 シルビアの主人、つまりはリューの父親は、重い病気に掛かっていて、ベッドから出られないらしい。らしいというのは、移る可能性もある病だし症状が悪化しても悪いからと言って、セレネは同じ家にいながら一度も姿を見たことが無いからなのだが。

 実際の状況は分からないがシルビアの反応を見る限り、もう長くはないのではと心が痛む。

 大したことは未だ出来ないが、セレネの存在が少しでもシルビアと、リューの助けになればいいと思う。


(…それにしても、私はなんて恵まれているのかしら)


 セレネは今の自身の状況を神に感謝する。

 先日まで一人森の中を彷徨って死の淵に立たされていたとは思えないくらい、今のセレネの状況は恵まれていた。


 この村は気候にも、自然にも恵まれている為、食料は豊富にあり、飢えに苦しむことも無い。貴族だった頃のような優雅なくらしは出来ないが、元々貴族暮らしに息苦しさを感じていたセレネにとっては、逆に今の環境の方が肌に合っていた。

 村人は皆親切だし、リューとシルビアは、まるで本当の家族のようにセレネに暖かく接してくれる。こんなこと、油断すれば蹴落とされるような、今までの貴族社会じゃ考えられなかったことだ。セレネはこの村に来て生まれて初めて、人の温かさを知った。

 家に住まわせてもらうに当たって、シルビアには、ここに来る前にどんなことがあったのか、セレネに全部話をしていた。自分がした虐めの詳細も隠すことなく。罪人だと糾弾され、追い出される覚悟はしていた。

 だが、シルビアはそんな話を聞いてもなお、「辛かったのね」と優しく言って、慈しむようにセレネを抱き締めてくれた。


「悪いのは、婚約者がいるのに心移したその男の方だわ…そして人の男を横取りにした、その女の方よ」


「あなたは、悪くない…あなたは何も、悪くないわ。当然のことをしただけ。…少なくともこの村の人間は皆、そう思うわ」


 自分を肯定してくれる、シルビアの言葉に涙が出てきた。


「かわいそうなセレネ…村に来る前のことは、全て忘れてしまいなさい。そんな冷たい人間たちのことは、全部。…大丈夫セレネ、貴女ならこの村で真実愛し、愛される唯一を、見つけられるはずよ」


 シルビアの言葉は、セレネの胸の中に優しく染みこんだ。

 親からも婚約者からも愛されなかった自分を、愛してくれる存在がいると、シルビアはそう言ってくれた。

 誰もそんなことを、セレネに言ってくれる人はいなかった。例えそれがただの慰めでも、セレネには嬉しかった。


 シルビアをはじめとした皆の優しさに、セレネの心の傷は、一日一日と癒えつつあることを感じていた。


(こんなに幸せで良いのかしら?)


 自分も手伝った夕飯を食卓に並べながら、セレネは幸福を噛みしめていた。




「……儀礼?」


「セレネももうここに来て結構なるだろ?セレネさえ良かったら、そろそろ完全に村の一員になっても良いと思って」


 植物をピンセットでゲージのネズミに与えながら、そう言って来たのはルチアだ。

 オレンジの髪と目を持つ整った顔立ちの彼は、植物学者だ。豊富な植物に恵まれながらも、外部と交流が薄く情報源が乏しいこの村の人々の為に、代々家系で植物の研究をしているらしい。森の中にはまだまだ未知で新種な植物が多く、食用か否か、薬用に出来るか、毎日研究に勤しんでいる。

 ルチアは病気で動けないリューの父親の代わりに、家の男手がいる作業を手伝っており、年が近いこともあって、こうして暇な時に遊びに行って茶飲み話をするくらいに親しくなった。


「村の一員……」


「そうだ。セレネならその資格があると思うけどな」


 ネズミに植物を与え終えたルチアが、ピンセットを置いて微笑んだ。

 村の一員になる…そんなことは考えたこともなかった。

 だけどセレネは、国外追放という処分を受けた罪人だ。そんなセレネが村の一員になって、村に迷惑をかけたりはしないのだろうか。


「………そんな顔、するなよ」


 よっぽど情けない顔をしていたのか、ルチアが苦笑しながらセレネの頬に手を当てた。

 そして茶化すように軽く頬を引っ張る。


「そんな心配しなくても、この村の外のことで村に迷惑がかかることはない…村の外の人間はこの村にそもそも入ってこれないからな」


「……………?」


「ここは愛の村だからな」


 セレネにはルチアの言葉の意味が理解出来なかった。

 そう思っていたことが顔に出てたのか、ルチアは微笑みながらこの村の伝説を語り始めた。



 昔々、神様が貞淑でただ一人だけを愛し続ける人々を集めて、この村を作ったこと。

 そして村の人々の心掛けのご褒美として、豊かな自然と、敵から村を守る森を与えたこと。


「だから外部の人間はけして自分からこの村には入れない」


「そんなの、ただの伝説じゃない…」


「だが、事実この村は何百年もの間一度も盗賊に襲撃されたことも、戦の巻き添えを食らったこともない。こんなに食物に恵まれた村が、だ」


「!?……だけど、それならどうして私は…」


 私はどうして村に入れたの、そう続けようとしてとしてセレネは固まった。

 ルチアのオレンジの瞳が真っ直ぐセレネを貫いていた。微笑むその顔は、いつものルチアの顔のはずなのに、何故か恐怖で肌が粟立った。


「……お前は『招かれた』からな」


「………まね……かれ…た………?」


「あぁ。……村が招いてお前を村の近くまで連れて行き、それを見つけたリューが村に招くべく人を呼び、呼ばれた俺が、お前を村まで招いた。……ここまで招かれ、歓迎される存在も珍しい。シルビアの旦那の時だって、招いたのはたまたま森の奥まで入っていたシルビアくらいだというのに」


「……意味が、分からないわ…」


「わからなくて良い。…まぁ、それだけお前がこの村に合っているってことだ」


 そう言って含み笑いを浮かべたルチアには、先程の妙な威圧感は無くなっていた。

 セレネはホッと息を吐くと、得体のしれない胸のざわめきを払うべく首を左右に振った。


「……それで、儀式ってどんなことをするの?」


「何、単純なことだ。村人全員の前でイアスの葉で作った酒を飲むだけだ」


「イアスの葉?」


「…これだ」


 そう言ってルチアは沢山ある植木鉢の一つからシソに似た葉っぱを一房千切って持ってきた。


「森の中で村の近くのごく狭い範囲しか生えていない。神が村人との契約の証としてもたらした物らしい。水につけて発酵させると、酒になるんだ」


 セレネは当然酒の作り方なんか知らなかったが、今までは穀物か果物で出来た酒しか知らなかったので、そんな風に作る酒もあるのかと少し驚く。

 渡されたイアスの葉を鼻に近付けると、ハーブのような独特な香があった。


「まぁ、他にも結婚式とか儀礼くらいでしか飲まない酒だけどな。独特の癖があって、ワインほど人気が無い。……そうだ、セレネ今日はうちに泊まって行くんだろ?」


「ええ。ザイルさんの体調が悪化したらしくて。申し訳ないけど、お願いするわ」


 リューの父親であるザイルの病気が深刻になり、医者とシルビア、リューが籠もりきりで看病しなければならないことがしばしばある。セレネも何か手伝えれば良いのだが、完全に部外者であり村における一般常識すら足りないセレネは役に立たないどころかかえって邪魔になるうえ、また村外部の人間のみ感染する病気の可能性もあるということから、その度ルチアの家に厄介になっている。

 未婚の男女が、一つ屋根の下で寝泊まりをするなんて、と最初はショックを受けて警戒をしていたセレネだが、ルチアはけしてセレネに不埒なことをすることは無かった。眠る部屋も当然別だ。村の人は皆太鼓判を押したように、「恋人でもない相手に手を出すような人間は村にはいない」といっていたがまさにその通りだった。今では自意識過剰だった自分が、逆に恥ずかしい。


「それじゃあ今夜夕飯の時にイアス酒一口飲んでみるか?」


「え?」




 何故か返事もしていないのにイアス酒を飲むことになった夕飯時。セレネは、注がれた盃を前にだらだらと冷たい汗をかいていた。


「どうした?セレネ」


「……いや、その」


 食卓に並べられたのはあるのはルチア特製の夕飯。シルビアとは違い、ルチアは「ここは俺の城だから」といって台所に入らせてくれない為、全てルチアが一人で作り上げた料理だ。

 植物学者のルチアらしくふんだんの香草と野草を使った料理は、今まで食べ慣れた食事と違っていて最初少し抵抗があったが、今では癖になるくらい嵌ってしまっている。

 特に香草入りの焼きたてのパンは、外はカリカリ中はふんわりした絶妙な焼き加減堪らない。


 しかし問題はイアス酒の方だった。


「なんだ?止めておくか?」


 ルチアの言葉に返答に詰まる。

 イアス酒は青汁のような緑色をしていて、つんと鼻につく酸っぱい香を放っていた。いまだ発酵が進んでるのか、ブツブツと泡が発生しては弾けている。

 昨年成人したセレネは、酒もそれなりに嗜んでいたが、それにしてもあまり飲みたい見掛けじゃない。はっきり言えばまずそうである。


(飲み物は見掛けじゃ判断してはいけないわ…!!)


 村の一員になることを決めれば、結局は飲むことになるのだ。セレネは覚悟を決めると、目を瞑りながら思い切ってイアス酒を煽った。


「………あれ?意外に美味しい」


 セレネは首を傾げながら空になったグラスを見る。


「お、いい飲みっぷりだな。もう一杯行くか?」


「え…えぇ。頂くわ」


 なかなか無いアルコールを飲める機会だし(シルビアが全く酒を呑まないので、普段は口にしない)、せっかくだからともう一杯貰うことにした。ルチアは笑って頷くと、セレネのグラスと自分のグラスにイアス酒をついだ。

 先ほどは一息で煽ってしまったので、今度はちびりと口に含む。確かに香りのような酸味もあるが、同時に果実酒のような甘味もあって美味しかった。ブツブツした泡は炭酸のようで喉越しが良い。独特の癖もあるが、耐え切れない程では無い。


(それにこの独特の風味……どこかで……)


 感じる既視感には内心首を傾げながらも、セレネは料理もそっちのけでイアス酒を煽った。大好物のパンですら、手を出す気が起きない。

 呑めば呑む程、不思議ともっと飲みたくなった。それ程お酒が好きだというわけでもないし、元貴族令嬢として酒を呑み過ぎるのははしたないと思う意識はあるのに、不思議と止まらなかった。


 二杯が三杯になり、三杯が五杯、五杯が……



「セレネ…さすがにもう終わりだ。飲み過ぎだ」


「ふぁ?」



 気が付いた頃にはセレネはすっかり出来上がっていた。

 ポカポカと体が温かいし、なんかふわふわして、とても愉快な気分だった。


「まったく。ほらベッド行くぞ」


「えー、もっと飲みたい~」


「もうない……ほら、立て」


 イヤイヤと首を振るが、ルチアは聞いてくれない。セレネは子供のように頬を膨らませてルチアを睨みつけるが、やっぱりルチアは聞いてくれなかった。セレネはさらにむくれながら、ルチアに手を伸ばした。


「………?」


「おんぶ」


「………仕方ないな。ほら」


 ため息を吐きながらも、かがんで背を向けたルチアの背中に飛び乗る。


(一度、やってみたかったんだ)


 幼い頃の憧れが叶ったことに、セレネの口元は緩んだ。誰にも言ったことはないが、こんな風に誰かに甘やかしてもらうことをセレネはずっと夢見ていた。

 伝わるルチアの体温が温かくて、とても安心する。

 ルチアは軽々とセレネを背負ってベッドまで連れて行ってくれた。

 背中にしがみつきながらセレネは、ルチアの首もとに鼻を押し付けた。


(あぁ…ルチアの匂いがする)



 ―――ドクンッ




(………あれ?)



 ルチアの香りを嗅いだとたん、急に心臓が、高らかに跳ねだした。

 一気に顔に熱が集中する。


 セレネは、その感覚を知っていた。痛いほどに味わったことがある感覚だった。


 きゅうきゅうと胸が締め付けられるこの感覚。

 まるでこれは―――



 セレネは湧き上がってくる感情に戸惑いながらも、ルチアの背に顔を押し付けて目をとじた。




 ――次の朝、ベッドの上で正気戻ったセレネが、羞恥に頬を染めながらルチアに謝罪したことは言うまでも無い。



 翌日、セレネは朝早くにシルビアの家へと戻った。昨夜の自分の動悸を思い出すと、落ち着いてルチアのそばに居られなかった。


 こみ上げる思いは、つい先日まで皇太子に抱いていた気持ちに似ている気がして、セレネは必死に否定した。


 確かにルチアには色々感謝しているし、今のところシルビアとリューを除いて村で一番親しい存在だ。

 だからっていきなり、こんな思いを抱くなんて。いくらなんでもあまりに切り替えが早すぎるのではないだろうか。

 優しくしてもらったら、すぐに恋に落ちてしまう。自分が、そんな尻が軽い女だなんて、セレネは思いたくなかった。



 セレネは悶々とした思いを抱えたまま、家の扉を開いた。


「…ただいま、かえりました」


 今までザイルが病状を悪化した時は、一晩たてば回復していた。だけど、今回もそうとは限らない。


 小さな声で言いながら中を除くと、全く人の気配は感じなかった。どうやら今回も大丈夫だったようだ。

 セレネはホッと胸をなで下ろした。


「……シルビアさんもリューも、寝ているのかしら?」


 確認すべく寝室の方へと足を進める途中、ふとザイルの部屋の扉が細く開いていることに気付いた。


 シルビアからけして入らないように厳重に注意されているうえ、固く錠がされている部屋。

 今まで一番も姿を見たことがないザイルの姿。

 セレネの胸の中で、好奇心が湧き上がる。


(一目様子を見るくらいなら…)


 思わず一歩扉へと足を踏みだしかけるが、すぐに思い直した。


 セレネと会えないようにしている一番の原因は、病気の伝染する可能性を危惧してのものだ。そんな風にセレネを心配してくれているシルビアの気持ちをたかが好奇心で裏切るわけにはいかない。

 それに看護で疲れていても、旦那の話をする度愛おしそうな笑みを浮かべるシルビアが、いかに夫であるザイルを愛して、大事に扱っているのかセレネは知っている。そんなザイルが身も知らないセレネを見て、万が一嫌な気分になってしまったら、どれほど逆鱗に触れるか分からない。最悪、家から追い出されてしまう。そんな事態は避けたかった。


 セレネは首を振って旦那の部屋から背を向けると、そっとシルビアたちの寝室を覗いた。疲れた様子のシルビアがベッドに寝ていたが、リューはいない。


(リューは一体どこに行ったのかしら?)



 セレネは音を立てないように扉を閉め、リューを探すべく家を出た。



 リューはすぐに見つかった。

 お気に入りの裏庭の切り株の上に1人座っていた。


 近寄って声を掛けようとして初めて、リューが泣いていることに気づいた。


 ここに来て暫くなるが、リューが泣いている姿を見たのは初めてだった。まだ、ほんの五歳だ。父親が病気でシルビアさんがあまりリューに構えないこともあり、もっと泣いていてもおかしく無い筈なのに。



(――そうだ、リューがシルビアさんにワガママを言っている姿を私は見たことがないわ)


 セレネに対しても、いつもタイミングを見計らって話しかけてくるくらいで、「遊んで」と強請ったりされたこともない。村には遊んでくれる同じ年頃の子供もいないのに、だ。


 きっとリューは、苦労しているシルビアに迷惑をかけないように、幼いながらも精一杯我慢していたのだ。1人で寂しいのも、父親が病気で不安なのも。


 そう考えると溜まらない気持ちになり、セレネは背後からリューを抱き締めた。


「………セレネ?」


「どうしたの、リュー?お父さんが心配で、怖くなった?今日は大丈夫だったのでしょう?」


 優しく頭を撫でながら言うと、リューはくしゃりと顔を歪めた。その癖涙をこらえようとしている様が、どうしようもなくいじらしい。セレネはそっとリューの眼の上に掌をあてた。


「………リュー。手のひらのしたに隠れて、私には今のリューの顔は全然見えないわ。…ほら、私は何も見ていないから、ね?」


 優しく耳元でささやくと、リューは暫くはそのまま手のひらの下で小さく泣いていたが、やがて振り返ってセレネの胸に縋りついて大声で泣き始めた。

 セレネは、そんなリューの背中をそっと撫で続けた。


 暫く泣いて落ち着いたのか、リューは涙を拭って口を開いた。


「…大好きな人がね、…みんなどこか行っちゃうの…おとうさんはいついなくなるかわかんないし……アヌもクズリもいなくなっちゃった……」


「…アヌとクズリって、誰かしら?」


「となりの家に住んでた兄弟……おかあさんが死んで、一緒にいなくなっちゃった」


 どこか、村の外の親戚のところにでも引き取られたのだろうか?セレネは内心首を捻りながらも、そう…と小さく頷いた。

 リューは未だ涙が溜まっている目で、セレネを見上げながら服の端を握った。


「…セレネは?」


「え?」


「セレネはずっとぼくの傍にいてくれる?」



 必死に縋りつくように言って来たセレネに胸が詰まった。


 まだ、完全に村の一員になることを決めたわけじゃない。

 ルチアは大丈夫だと言っていたが、やはりもう暫くして、セレネが村の一員になったとしても村の人たちに迷惑が掛からないか確信してからじゃなければ、結論をだしてはいけないと思う


 だけど………



「………ええ。ずっと私はリューの傍にいるわ」


 だけど、セレネには今のリューを突き放すような言葉は口に出来なかった。

 セレネには泣くリューの姿が、一人ぼっちの淋しさに泣いていた幼い頃の自分と重なって見えた。そんなリューに、セレネはかつての自分がしてもらいたかったことを全部、してあげたいと思った。

 ぎゅっと抱きついてくるリューを強く抱きしめ返しながら、セレネは、これからはもっとリューのそばにいて甘やかしてやることを誓った。




 リューが泣いた時以来、セレネは空いている時間帯は殆どリューに当てるようになった。

 五歳の子供と全力で遊ぶのは疲れるが、楽しげに笑ったリューの顔を見てるとんなことも気にならなくなる。

 リューと過ごすことが多くなって必然的にルチアのところに遊びに行くことは無くなったが、変わりに皮肉なことではあるが、ザイルの体調が悪くなることが多くなり、夜はルチアと過ごすことが多くなった。


 ルチアの傍にいると、何故か、胸が高鳴る。接触時間が長くなればなるほど、その動悸は激しさを増していった。


 その原因を考えると頭が痛くなるので、セレネは出来る限り考えないようにしていた。

 考えれば、考えるほど、内に秘めた想いが強くなってしまいそうで。


 自分が現金にも、あっさり十数年の皇太子への思いを忘れて、優しいルチアに恋をしてしまっているのだという事実を、セレネは簡単には受け入れられなかったのだ。


 そんな風に様々な不安要素はあるものの、セレネは日々を平和に過ごしていた。平和で、幸福な日々を、送っていた。


 セレネが自分が村の一員になっても大丈夫だと確信し、そろそろ儀礼を受けようと考え始めた矢先だった。


 リューの父親が死んだ。





 それは、セレネが薪を取りに森に行っていた間の出来事だった。


 家に帰って来ると、村の人たちが、家を取り囲むようにして集まっていた。



「ちょ……どうしたんですか…入れて下さいっ」


 セレネは人の輪を掻き分けて、家の中に入った。

 家の中には村長をはじめとした役職のある人達と共に、シルビアとリューが、台の上で眠る男を囲んでいた。

 ガリガリに痩せた黒髪の男は初めて見る顔だったが、縋るようにその髪を指ですいているシルビアの様子から、すぐにそれがシルビアの旦那であるザイルだと分かった。



「…セレネっ!!」


 セレネを見つけたリューが、涙で濡れた顔で走りよって来て、しがみついてきた。セレネは無言でリューを抱き締めることしか出来なかった。



 親を失う悲しみ。それは親子関係か希薄だったセレネには理解できない。

 だけど、リューが父親をどれほど慕っていたか知っているから、セレネは下手な慰めは言わず、ただリューをそのまま泣かせてあげようと思った。

 泣くことで、目の前の幼い少年の傷が癒えればいいと思った。



「……リュー、どうして泣くの?」


 不意に聞こえてきた声に、セレネは目を見開いた。

 その言葉を口にしたのは、他でもないシルビアだったからだ。

 シルビアは旦那の髪を撫でながら、心底不思議そうに首を傾げていた。

 その顔には一切の悲しみは見られない。


 ――あるのは、溢れんばかりの喜悦。


 あれほど愛しているように見えた旦那が死んだというのに、だ。セレネにはシルビアの言動が理解出来なかった。


「すぐにまた一緒にいられるようになるじゃないの。今度こそこの人は別の所に行こうとしたりしないわ。だってもうどこへも行けないもの。ずっと、ずっと一緒なのよ。嬉しく無いの?リュー。他の人は駄目だけど、あんただけはこの人の傍に居させてあげるわ。私とこの人の愛の結晶だもの。ふふふ…三人で幸せに暮らしましょうね」


 赤い目を爛々と光らせて笑みを浮かべてまくし立てる姿は、狂人のようだった。

 優しく穏やかだったシルビアの変貌がセレネには信じられなかった。

 シルビアは、リューの手を握ると、セレネに向き直った。


「ごめんなさい、セレネ。今夜は夕飯を用意してないから、ルチアの家で食べてちょうだいね。ルチアにはもう言ってあるから。明日からこの家はもう好きにして良いわ。私たちにはいらないから」


「……っそれはどういう……」


「さようなら。あなたと暮らした日々は、愉しかったわ……行くわよ、リュー」


 シルビアは、先程の様子が目の錯覚かと思えるくらい、普段通りの穏やかな笑顔で言い放った。

 セレネは明日から家がいなくなると言う言葉が分からず聞き返そうとするも、シルビアはセレネの問いに答えることなく背をむけて、リューの手を引きながら旦那の死体を台ごと抱え上げた数人の村人と共に家を出て行った。

 その間、リューは泣き顔で何度もこちらをほうを振り返っていたが、シルビアに窘められてとぼとぼと着いて行った。


 セレネは、訳も分からずただ唖然とするしか無かった。



「あれほど愛した旦那と一緒に逝けるシルビアはともかく、リューはなぁ……。五歳か。せめてもう少し年を取っていれば、良かったのに」


 複雑そうな表情で、村長から発せられた言葉に目を見開いた。


(それじゃあ、まるでこれからリューとシルビアさんが…)


「っ…それはどういうことです!!」


「?…あぁそーか。セレネは外から来たんだったな」


 一瞬怪訝そうな表情をした村長だったが、やがて納得したように頷いた。

 そして次に発せられた言葉にセレネは固まった。


「この村ではな、誰かが死んだ時にその伴侶と十歳以下の子どもは火葬の時に一緒に焼かれて死ぬ風習があるんだ」


 頭の中が真っ白になった。


「っそ、そんなの間違っているわ!!何でリューが死ななきゃならないのよっっっ!!」


 思い出したのは、リューが以前口にした、父親の死と共にいなくなった双子の兄弟の話。それはつまり、父親と一緒に火に焼かれ、殉死させられたのだ。

 まだ僅か五歳のリュー。友は殺され、父は病に伏せ、母は父の介護でなかなか構ってくれない。そんな孤独な環境の中でも、健気でいじらしく生きていた。


(そんなよい子なリューが、何故たかだか風習の為に殺されなければならないの!?)


 あまりにもそれは理不尽で、残酷過ぎる。

 セレネは激高して、村長に掴みかかった。


「懐かしいな、その反応…以前シルビアの旦那にその話をした時も同じような反応をした………仕方ないんだ。この村は愛の村だ。愛するものがいないと生きてはいけない。夫婦はお互いを一番愛しているからどちらかがいなくなったら、必ずついて行く。十歳以下の子供はだいたいが一番に親を愛してるから、両親共にいなくなった状況に耐えられない。だから、これが一番相応しいんだ…それに、これは貞淑さを気に入り恵みを与えてくれた神に対して、貞淑さの継続を知らせる神聖な意味も含んでいる……」


「ふざけないでっ!」


(そんな戯れ言の為にリューは殺させないっ!!)


 セレネは村長を突き飛ばすと、家を飛び出した。


(――どうしよう、ルチアに、ルチアに助けを求めようか)


 そんな考えがセレネの脳裏に過ぎる。優しいルチアなら、きっとセレネがいえばリューを助けることに協力してくれるはずだ。

 一瞬足をルチアの家の方向に向けるも、セレネは首を振って考え直した。


(リューの命がかかっているんだ…ルチアを呼んでる暇なんかないわっ!!)


 扉を出ると、すでにリュー達の姿は見え無かった。どうやら、セレネは自分で思っていた以上に思いの他長く固まっていたらしい。

 小さく舌打ちすると、近くにいた村人を捕まえて火葬場の場所を聞き出し、セレネは全力で駆けて行った。



 火葬場は、村の外れにあった。巨大な焼き物の釜戸のようなそれには、大人の頭くらいの小高い位置に、下から開くタイプの戸がついていて人が数人入れるようになっていた。

 村人の一人が、大量に積み上げた薪に今にも火を付けそうだとしているのをつき飛ばして、扉を開けた。地面に倒れた村人は、たまたま転んだ際の当たり所が悪かったのか、そのまま気絶してしまっていた。…今がチャンスだ。生憎梯子は見つけられなかったが、背を伸ばせば開いた隙間から顔を除かせて中へと手を伸ばすくらいは出来た。



「リューっ!!」


「……セレネっ!?」


 扉を開くと、旦那の死体に抱き付いて幸せそうに微笑むシルビアと、その脇に佇むリューが見えた。セレネは身を乗り出して、叫んだ。


「リューっ、あなたが古臭い風習なんぞに縛られる理由ないわ!!私と一緒に逃げましょうっ」


「……だけど」


 リューは母親であるシルビアの方を見る。シルビアは陶酔したように旦那だけを見ていて、リューの様子は勿論、セレネが来たことにすら気付いていない。


「…だけどぼくは子どもで……母さんと一緒に死なないと……」


「それは本当にあなたが望んだことなの!?シルビアさんが望んでいることなの!?今だってシルビアさんはあなたを見ていないわ。旦那さんと一緒に逝くことだけを考えてるのよっっ!!!あなたはシルビアさんにとっちゃおまけなのよっ」


 リューの顔がショックで歪んだ。ひどいことを言っている自覚はあった。セレネの言葉は、リューに対する母親からの愛情を否定したも同然だった。


 それでもどんな残酷な言葉を吐いて傷つけてでも、セレネはリューに生きて欲しかった。



 遠くから駆けてくるような足音が聞こえて来た。きっと村長が儀礼を邪魔するセレネを止めるべく、人を呼んだのだろう。あまり時間はない。

 セレネは必死で中に手を伸ばしながら叫んだ。


「リュー、約束したでしょう!?ずっとそばに居るってっっ!!頼むから、シルビアさんより私を選んで…っっ!!」


「っ!?」



 約束の言葉にリューは目を見開く。一瞬逡巡したようにシルビアの方を見たが、やがて決意に満ちた表情でこちらへとやって来た。

 セレネは一層近づいて来た足音に逸る気持ちを抑えながら隙間から顔を出すと、手を広げてリューが飛び降りるのを待った。

 戸を自ら開けたリューは些かの逡巡も無く、セレネの胸に飛び込んで来た。



「リュー。私に捕まっていて!!走るわよっ」


「…うんっ!!」



 セレネは迫り来る追っ手をまくべく、リューを抱えて走り出した。



 ――そんな二人の姿に、背後の村人たちが納得したようにうなずきながら、追う素振りも見せずに足を止めていたことには気付かなかった。




「はぁ…はぁ……もう少しかしら?リュー」


「うん…後はここを真っ直ぐ行けば外に出られるよ」


 森の中をあちこち逃げ回って追手がないことを確認したセレネとリューは、手を繋いで森の外に向かっていた。

 セレネには全く同じように見える森の景色だが、ずっとここに住んでいるリューには道が容易に分かるらしい。またリューは動物の気配にも聡く、遭遇しかけた熊を事前にやり過ごすことが出来たりと、随分と助かっている。セレネ一人だったら、間違いなく獣の餌食か野垂れ死にだった。


「………ねぇ、セレネ」


「ん?」


「ずっと一緒にいてくれるんだよね?」


「えぇ」


 セレネは上目使いで尋ねてくるリューの頭をなでながら、微笑んだ。それを聞くとリューも嬉しそうに笑った。

 外に出たらリューは弟ということにしよう。状況が状況とはいえ、セレネは母親のそばからリューを引き離したことになるのだ。その分、大切に大切に育ててあげなくては。


 不意に森の終わりが見えた。森の終わりは隣国との国境で、ここを抜ければセレネは生まれ故郷を完全に離れることになる。



 外は村ほど恵まれていない。生きて行くには泥を啜るような生活をしなければならないかもしれない。それこそ体を売って生活しなければいけないことだってありうる。

 それでも今の自分にはリューがいる。もう、セレネはかつてのように一人ぼっちじゃない。この子を幸せにするために生きよう。その為だったら、何でもしてみせる。

 セレネがそう決意して、足を早めた瞬間だった。




「………ぐぅっ!!」


「セレネっ!!…っ!!」


 不意に茂みから飛び出して来た影に押し倒された。すぐ手を離した為、一緒に倒れるのを免れたリューが慌ててセレネに駆け寄るが、セレネを押し倒した何者かに突き飛ばされてそのまま地面に強く叩きつけられる。


「リューっ!!…つっ」


 リューの名前を呼んだ途端セレネは何者かに顔面を強く殴られた。痛みに呻くと、上から低い声がした。


「……そんなにあのクソガキが大事か?セレネ」


 日差しに照らされて燃えるように見えるオレンジの髪。

 獣のように爛々と光るオレンジの瞳。


「ルチア…」



 セレネの上に乗りかかったルチアは、今まで見たこともないほど怒気に溢れた表情でセレネを見降ろしていた。


「ふざけんなよ……定期的にパンに混ぜてイアスの葉を食わせて依存させて、あと一回の食事で完全に手に入ったっつーのに、土壇場でクソガキに取られるなんて…っ!!おまけにクソガキと手を取り合って村から出てくなんぞ…ぜってぇ許さねぇっ!!」


「ルチア………何言って…」


「一目見た時に分かったんだっ!!お前は俺の物だってっ…伝説なんか信じてなかった。ただ一人も愛する物が出来ねぇ奴だっているだろって鼻で笑ってた。だけど、お前を初めて見た瞬間、一瞬で恋に落ちたっ!!だからどんな手段を使っても俺だけのものにしてやろうと思ってたのにっっ!!」


 つらつらと激昂のまま告げられた言葉は、信じられない言葉ばかりだった。



(ルチアが、私を好き?)


(イアスの葉が、どうしたの?)


「――訳がわからねぇって面してんなぁー。セレネ。…そんな顔のお前も、可愛いよ」


 戸惑うセレネに、ルチアはゾッとするような暗い笑みを浮かべながら、くつくつと喉を鳴らして笑った。


「……外部の人間だからといって必ずしも村の風土に溶け込めないわけではないんだ。元々イアスの葉を用いた儀式は外部の人間を取り込む為に生まれたものだから。イアスの葉は強い薬物作用があり、近い人間への精神依存を増幅させる。ただ遺伝的に抵抗体がなくなった村人と違い、ザイルやセレネのような外部の人間には定期的に葉を摂取させ、抵抗体を破壊をしていかなければならない。……ただの形式的儀式の一部としてしかイアスの葉を捉えてなかったシルビアは、旦那の食事を普通のものにしていたから失敗したみたいだがな」


 激昂して荒れていた口調が、いつの間にかいつものルチアの口調に戻っているが、だからこそ余計セレネにはルチアを恐ろしく感じた。

 ルチアが、今までセレネが知るルチアとは全く別の存在に思えて、全身に鳥肌が立った。


「酒が一番良いが、葉でも時間をかければ十分効く…摂取量が一定量を越えると、脳がイアスの成分を害と感じなくなって抵抗体を形成しなくなっていく。そうなると免疫を全くもたないまっさらな外部の人間の方が効果は強くなり急速に堕ちてくる……シルビアがザイルを殺したりなんかしなければ、今頃お前は完全に俺の物になっていたのにな」


「…シルビアさんが、旦那さんを殺したって…」


「ああ、そうだよ。村の者なら皆そうだって知っている」


 呆然とするセレネに、ルチアは笑いながら、残酷な真実を告げた。


「シルビアはザイルを愛してた。ザイルだけを唯一愛してた。だから、まずこの村から逃げようとしたザイルを『病人』と称してベッドに縛り付けていたんだ。ザイルが正気に戻って暴れる度、医者を呼んで薬で廃人のようにしてな…最近抗体ができたのか、正気に戻る回数も増えていたみたいだけどな」


「――嘘よ…っ!!」


(あの優しいシルビアさんが、そんなことをするはずがないっ!!)


 しかし口では否定しながらも、ルチアの言葉に納得している自分がいることにもセレネは気づいていた。


(同じ家にいるのにも関わらず、シルビアさんは、一度も私を旦那さんに会わせてはくれなかった)


(私が旦那さんの部屋に近づくことを、異常なくらい嫌がっていた)


(それに先程のシルビアさんのあの態度…旦那さんが死んだことを、心から喜んでいた)


 認めたくないのに、全ての事実がルチアの言葉が正しいことを証明していた。

 ルチアは笑みを浮かべたまま、淡々と言葉を続ける。


「ザイルは外部の人間だったから、この村の人間のような真っ直ぐな愛情をシルビアだけに注ぐことは出来なかった。寧ろ、それが異常だと言って恐れた。……お前もそうだろ?セレネ。儀礼を恐ろしいと、そう思ったんだろう?」


 そうだ。当然だ。愛する人が亡くなったから、一緒に焼き殺す風習なんて異常だ。残酷だ。


「だけどこの村じゃそれが普通なんだ。愛するものの為に生き、愛するものの為に死ぬ。…相手が何時までも自分一人を見てくれないならば、相手を殺して自分も一緒に死ぬことも、な?」


「っそんなの…間違ってるわ!!結局ただの気持ちの押し付けじゃないっ!!」


 セレネの心からの叫びは、ルチアには届かない。


「愛って結局そんなものじゃないか?無償の、何の見返りも求めない愛なんて、ただの自己愛だ。……俺には、シルビアの気持ちが分かる」


 ルチアの手が優しくセレネの頬をなぞった。

 なぞる手と反対側の手に持っていた、光るものが目に入り、セレネは息を飲みこんだ。


「あんなガキに取られるくらいなら………俺だけを、見て、くれない、なら…いっそ……」


 ルチアが完全に狂気に染まった目でセレネを見下ろしながら、掲げたナイフを降り下ろした。




 グシャ





 固く目を瞑ったセレネの頭上で、何かが潰れたような音がした。


(……刺されて、いない?)


 瞑っていた目を開くと、スローモーションのように自分の上から倒れていくルチアが見えた。

 その後ろに血がついた石を持ったリューが立ちすくんでいた。

 リューは、ルチアが倒れる瞬間手から落ちたナイフを素早く拾うと、周りこんでルチアの腹を差した。一度だけで無く何度も何度も。


 あがるルチアの絶叫。

 リューが手を動かすたびに飛び散る血。


 セレネはその光景を唖然と見ていた。


 何とか起き上がったルチアは懇親の力で再びリューを突き飛ばすと、ふらつきながら腹にナイフが刺さったままの血だらけの体を起こした。


「…ははははっ、そういう事かっ!!クソガキっ、お前、その年にして見つけたのかっ!!」


 ルチアは高らかに笑ってリューを見ていたがすぐ憎々しげに睨みつける。そして未だ立ち上がれないでいるセレネに切なげな視線を向けながら、手を伸ばした。


「セレネ…お前も連れて逝きたいが、残念ながらもうそんな力は残ってない…あっちでお前がくるまで待ってるぞ」


 血に濡れたルチアの指が、セレネの唇をなぞる。


「…気をつけろ、セレネ……あいつは最早完全に村の住人だ……俺と同類だ……」


 そう口にしながら、ルチアは完全に息絶えて、セレネの上に倒れ込んできた。

 小さく悲鳴をあげたセレネは、後ずさりをしてルチアの死体から離れる。

 何が起こっているのか、脳がついて行かない。暫しセレネは呆然とルチアの死体を眺めていた。

 そして、そうしてから漸く、突き飛ばされたリューを思い出した。



「…っリュー!!」


 二度も大人の男に容赦なく突き飛ばされて、平気なわけがない。セレネは慌てて立ち上がると、倒れているリューに近寄った。


「リュー!!リュー!!」


「…………セレネ?」



 どうやら気絶していただけのようだ。外傷らしい外傷も見当たらない。セレネはホッと胸をなで下ろした。


「…あいつは……死んだ…?」


 かけられた問いに血の気が引くのが分かった。


(私はリューに、人を殺させてしまったんだわ)


 僅か、五歳の子供にセレネは人を殺させてしまった。

 両親を失ったばかりで傷ついた心を、人を殺したという罪悪感はどれだけ滅茶苦茶にするだろうか。下手したら、リューは壊れてしまう。


(そんなことは、絶対にさせない…っ)


 セレネはリューに、真実を隠蔽することに決めた。


「えぇ……だけどトドメは私が刺したわ。私が、ルチアを殺したのよ」


 セレネの言葉を聞くと、リューは小さく笑った。



「――なんだ、ぼくが殺したかったのに」



 リューが何を言ったのか、セレネには咄嗟に理解出来なかった。


「セレネに殺されるなんてぜいたく。ほんと、やな男だよね、ルチアって。村でだってさ、ぼくとセレネの時間奪ってさ。しかも得意の植物の知識使って、セレネを洗脳しようとしてたなんて、こっちがふざけんなだよ。…まぁ死んじゃってもう邪魔できないみたいだからいいけど」


 信じられない言葉を何でもないことのように語りながらリューは立ち上がり、屈み込んだ状態で動けないセレネに近づいて首に抱きついてきた。


「約束したよね、セレネ。ずぅっと一緒に居ようね。…母さんと父さんみたいに、死ぬまで」


 そう言って赤い瞳を輝かせて笑ったリューは、旦那の死体を抱きしめていた時のシルビアにそっくりだった。


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― 新着の感想 ―
すごい、民俗学とホラーの表現は最高です。悪役令嬢者との混ざりも面白い、ここではあまり意味ないかもしれないが、テンプレの悪役令嬢と王子とヒロインが村に入って来れば面白い話にもなれるかも、それぞれの恋愛観…
[一言] リューくんではなく、ルチアなそのまま洗脳されてたらどうなってたんだろう、と思いました^^* とっても好みで面白かったです
[良い点] 読みやすく面白かったです。 話のテンポも良かったと思います。 [気になる点] 以下、私が気になっただけなので、改善して欲しいという意味ではないので、ご注意下さい。 ・セレネが愛を求めている…
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