二章『刑部、舟幽霊と意気投合すること』
舟幽霊、日本各地に伝承が残る怨霊でございます。
もっともよく知られた伝承としては、壇ノ浦の舟幽霊が挙げられましょうか。
なんでもその昔、源平合戦に敗れた平家の武士たちは多くこの海に投げ込まれ死者たちの流した血で海が赤く染まったなどという伝承も御座いますれば、その平家の怨霊たちがこの海を行く船に「提子をくれ」と取り付いたのだそうで。
もしも、恐ろしさのあまり提子を差し出そうものなら、彼らは寄ってたかって船に水を入れ沈めてしまうのだそうです。
対処法としては、其処の抜けた提子を渡すこと。
こうすれば彼らがいくら水を入れようと奮闘努力したところで、それは全てむなしく水を掻くばかりという半ば滑稽な対処法ともいえましょうが。
さて、この舟幽霊は余りにも日本全国津々浦々に出没致しましたものですから、地域によって「亡霊ヤッサ」「いなだ貸せ」「なもう霊」など様々な名がつけられていることも特徴の一つと言えましょうか。
その中に、一際異彩を放つものが一つ。
島根県隠岐郡に伝わる伝承に御座いまして、沖の海がまばゆく光ると言う怪異。
その名を「ムラサ」と言いました。
さて、この度は、村紗の名を持つ舟幽霊の少女と隠神刑部の物語に御座います。
◆ ◆ ◆
刑部狸はこの地での日々をそれなりに謳歌しておりました。
隙を見ては人を驚かせ、いつの間にか出ていた依頼にしたがって退治にやってくる魔法使いを往なし、時に佐渡の二ツ岩様に変化の修行を受け、更には八雲紫と舌戦を交わしたりなどなど、一種遣りたい放題とも見受けられますが、其処は刑部狸、本気で退治に掛かられないぎりぎりの一線をすでに見抜いているかのように、博麗の巫女が動き出さないぎりぎりの悪戯に留めていたようで。
今日も今日とて、適当に夜道を歩く人間を化かしては、一目散に逃げ出すその背中を呵々大笑して見送っていると、不意に後ろから声がかかりました。
声だけで誰が話しかけたのかはすぐにわかります。
彼に話しかけたのは、後ろに突然現れた八雲紫に他なりませんでした。
「相変わらず、引き際だけは見事ですわね」
「ふふふ、おほめに預かり恐悦至極、とでも申せば良いのかね?」
しかし、突然の出現に驚く風もなく、そのまま彼は振り返り適当に相手へと語り掛けました。
そんな彼らにとってあまりにもいつも通りなやり取りとピリピリと張り詰めた空気はしばらく続くのですが。
「まさか、貴方の口から殊勝な言葉が出てみようものならそれこそ世界の終りと同義ですわ」
「なかなか言うな、八雲の」
「あら、つれない。紫と呼んでくださって構わないのに」
「しょれ……それは失礼した」
二人の間に満たされていた緊迫した空気は、隠神刑部がセリフを噛んだ瞬間に雲散霧消し消えてしまいました。
方や俯いて笑いをこらえ肩を震わせる八雲紫。
方や顔を赤らめながら相手を睨み付ける隠神刑部。
先ほどまでの会話などどこ吹く風と消え、場に残されたのは喜劇のような一幕だけ。
そんな中、何かに気が付いたのか刑部はすぐさまいつもの取り澄ましたような顔を浮かべ、方や八雲紫は再び隙間を開くとその中へと消えていったので御座います。
「お~い、隠神!! 聖が呼んでるんだけど、なんかしたの?」
「む、少し人間相手に悪戯をな」
「あぁ、なるほどねぇ」
大声で呼ばわりながら現れますは、妙蓮寺の門下、舟幽霊の村紗水蜜。
かの寺の正式な門下としては珍しく悪戯を好む性質であり、元は沖合で船を沈めることを生業とする舟幽霊の1人に御座いました。
「此れで聖のお説教は何回目?」
「ふむ、6回ほどだったはずぞ」
「はぁ、懲りないねぇ」
「人を化かさずして何の化け狸か」
「まぁ、妖怪としての存在がそう出来ちゃってるものねぇ」
化け狸とは元来妖術の上手い妖怪でありまして、目に見える物であれば夜空の月にすら変化することが出来るほどで御座いますれば。
説教の際には自らの姿に化かした木の葉をうまく使ってのらりくらりと抜け出すのが常だったので御座います。
「まぁ、頑張りなよ」
「うむ、頑張るとしよう」
村紗の言う頑張るは「聖の説教は長いけど頑張って耐えなよ」の意味ですが、返す刑部の頑張るは「頑張ってばれない様に抜け出す」の意味なのでした。
二人は全く噛み合わないままにも拘らず、噛み合ったように聞こえる会話だけを残して妙蓮寺へと帰り、いつも通りの状況へと戻っていくので御座いました。
◆ ◆ ◆
さて、刑部と村紗が妙蓮寺に返って一刻ほど後のこと、村紗は境内の打ち水を行ないながら今日の夕飯は何だろうなどと取り止めもなく考えていました。
炊事を取り仕切っているのは大抵の場合一輪で有るため、彼女は夕飯に何が並ぶのかを一切知りません。
しかし、どれほど願ったところで精進料理が精々。
牡丹鍋(猪鍋)や般若湯(酒)など夢のまた夢。
「偶には、魚が食べたい」
彼女がそう独り言ちて、打ち水を続けていると、突然横からその場にいるはずのない人物に声を掛けられました。
「うむ、ワラもそろそろ肉が食べとうなったぞ」
「だろうね、狸ってイヌ科だっけ?」
「うむ、その通りだ。ワラたち狸はイヌ科ぞ」
「じゃあ肉が食べたくなっても仕方ないね。ほかに好物ってあるの?」
「油揚げなどは好ましい。だが、忌々しい狐どもと同じと言うのは気に食わん」
「あっははは、そうかい、そうかい……って、隠神!? なんでここに?」
「頑張ったぞ」
「あ、終わったんだ」
「うむ、抜け出した」
ここに来て両者の意見の相違に気が付いたらしく、二人はキョトンと顔を見合わせ、しばらく固まっていました。
「………」
「………」
場を妙な沈黙が支配します。
余りと言えば余りの事態に、お互い行動を起こす事が出来ないのでしょう。
その内、どちらからともなく、肩を震わせると朗らかに笑い出しました。
ひとしきり笑うと落ち着いたのか、村紗は笑いすぎて目じりに浮かんだ涙を拭うと、彼の頭を軽く小突きながらおどけたような声をあげます。
「おいおい、駄目じゃないのさ、説教は受けなきゃ」
「生憎と仏門ではないのでね、説法は長くてごめんだ」
「今度、聖の目を盗んでちょっと般若湯でも飲みに行く?」
「良いな、付き合おう。般若湯なら仕方がない。肴は勿論揚げ出汁豆腐でな」
二人は揃って悪戯な笑顔を浮かべると、がっしりと握手を交わしたので御座いました。
後に、その秘密の酒盛りの噂がナズーリンを経由して星の耳に入り、刑部も村紗も白蓮にこっ酷く叱られるのですが、それはまた別のお話。