序章の弐『刑部、楽園へ踏み入ること』
幻想郷。
かつて、1人の境界を操る大妖怪が志し、幾星霜の年月を経て出来上がった忘れ去られた者たちの楽園。
あるがまま全てを受け入れ、あるがまま全てを飲み込むこの郷を、その大妖怪は「残酷」と評しました。
すべてを受け入れ、全てを受け止め、全てを自らの内に飲み込んでしまう。
そして、全てを内から外に出さずに無き者に変えてしまう。
何とも寛大で、大らかで、それでいて恐ろしい。
それゆえに、かの大妖怪は、八雲紫は評したのでしょう。
空ろの郷に引き込まれるように、様々な人妖が集まり、揚句には神すらも飲み込んで、今日も幻想の郷は膨れ上がるので御座います。
そして、今日この日、幻想郷に足を踏み入れる狸が一匹。
その姿こそ小さいものの、侮る勿れその実は隠神刑部、四国は伊予の国にて八百八もの化け狸を従える狸界の重鎮に御座います。
さて、彼は車窓より流れる風景を眺めながらふと背後に声を投げかけました。
「八雲の、眺めておっても暇ではないか? ワラに用ならば声をかけた方が良いと思うが」
背後には茫洋とした沈黙が佇んでおりましたものの、その声を契機にスゥと景色が割れ、何者かが顔をのぞかせます。
「相変わらずの鋭さですわね」
現れたのは流麗な金糸の髪をなびかせ、豪奢でこそ無くも丁寧な作りの上質な紫のドレスに身を包んだ妙齢と思しき美女で御座いました。
「ワラは狸、イヌ科の獣だからな。其方の放つ匂いに覚えがあるだけさ」
そういって胡乱な目の営業スマイルを女性に投げかけまするは隠神刑部。
「あらあら、そろそろ貴方も色気づいたのかしら?」
それに対しても何らひるむことなく、冗談のような一言を返しまするは八雲紫。
「馬鹿を言うでないわ、あまりの胡散臭さに気を失いそうなだけぞ」
軽口のたたき合いもこの辺りにするつもりか、彼はそこまで言うと有無を言わせずに次の話題を振りまする。
この隠神刑部、厄介ごとは外から眺めることが好きな性分に御座いますれば。
「迎えにしては早いな。屋島の姉上に此度の事を提案したのは八雲のか?」
その一言に多少口の端を上げると、隙間の大妖怪、神隠しの主犯こと八雲紫は
「その辺りはご想像にお任せします」
と宣いました。
「喰えぬやつめ。それでは迎えのついでに頼みがあるのだが」
それに対して刑部はそう返したのちに一泊の間を置き、紫にこう告げたので御座います。
「出来る事なら、二ツ岩様が居られるという尼僧の寺まで送って欲しいのだが」
「其れでしたらお安いご用ですわ」
受け答えは一瞬、次の瞬きまでの間にスキマが大きく口を開き、隠神刑部の小さな体を飲み込んだので御座います。
◆ ◆ ◆
「ここが、二ツ岩様の居られる尼寺か。ふむ、構えも立派なものだ。あの方に相応しい」
さて、隠神刑部はただいま、幻想郷は人里の妙蓮寺に馳せ参じた次第に御座います。
何の故かと聞かれれば、其処に狸界の重鎮、佐渡の二ツ岩狸が在らせられるからに相違ありません。
そも、狸は仏の教えと相性の良い妖でございました。
神道を主とする狐と、仏道を信ずる狸。双方の中は非常に険悪であり、一度出会おうものならばその場で化かし合いを始めるほどの中なのでございます。
佐渡の二ツ岩狸と言えば、かつて佐渡島において狐を一匹残らず島外に追い出したと言う武勇伝とともに語られることが多く御座います。
元来強力な化け狸という種の中でも、伝説級の三匹。
その一角に名を連ねるのが、団三郎狸こと佐渡の二ツ岩マミゾウなのでした。
「もし、ここに知人があると聞き頼って参りました。伊予の刑部狸、隠神に御座います」
山門は開いておりましたものの、礼法に則り門前にて呼ばわると、門の向こうで掃除をしているらしい少女から返事が返ります。
『もし、ここに知人があると聞き頼って参りました。伊予の刑部狸、隠神に御座います。』
それを聞いた刑部、ふと思いついて企み笑顔を浮かべると、その姿がふと揺らぎ、目の前の少女そっくりに変化致しました。
まさに生き写し。
その姿に驚いている少女、幽谷響子に向かい、彼は次のようにのたまいました。
「生麦生米生卵、東京特許許可局、隣の柿は良く客喰う柿だ」
それに対して、彼女も負けじと声を返します。
『生麦生米生卵、東京特許許可局、隣の柿は……ってえぇ!?』
刑部狸は呵々大笑いたしますと、目の前の山彦の姿を解き、元の少年の姿へと変じました。
「よかろう? タンタンコロリンがくるぞ!! とな?」
「柿が客を……」
二人がそのようなやり取りをしておりますと、響子の背後から声が致します。
「む? おぉ、懐かしい声だと思うたら、主じゃったのか隠神刑部」
その声の聞こえた方向に懐かしい姿をみとめ、刑部は久方ぶりにその外見に相応しい稚児の笑みを浮かべてうれしげな声を上げたのでございます。
「二ツ岩様。ご無沙汰いたしておりました。この度この幻想郷に馳せ参じた次第。これからよろしく申し上げます。のちのち我が姉、屋島の禿狸も参りますので、ともどもよろしくお頼み申します」
「相変わらず、固い所は治っておらんようじゃな」
「ワラとしましては、豆腐の角に頭をぶつけて頓死などと言う無様は御免被ります故」
斯くして、幻想の郷に足をば踏み入れましたる隠神刑部。
これからの事に思いをはせながら、宿をこの寺に求めることとしたのでした。
◆ ◆ ◆
さて、隙間を抜けて帰り着いたは迷ヒ家。
八雲紫はその中に降り立つや否や、背後に感じなれた気配を感じて鷹揚に振り向きました。
そこにはやはりと言うか何というか、彼女の式たる九尾の狐「八雲藍」の姿がありました。
彼女は常になく苛立ちを交えた表情で、紫に声を掛けます。
「紫さま、隠神刑部を招き入れたとか……」
狸がよほど気に食わないのか、そのことについてご立腹の様子。
「えぇ、その通りよ」
対する紫はどこ吹く風と言った調子で受け流し、適当な調子で返します。
「奴は一筋縄ではいかない相手ですよ」
食い下がる藍に対して少々鬱陶しいのか、短く一言で切って捨てます。
「その程度は判ってるわ」
しかしながら、いや、それゆえに次の一言は衝撃的でした。
「……判っておらんなぁ八雲の」
気が付けば辺りは草原、一面の草を夜風が撫でておりました。
何処からかお囃子の太鼓が聞こえ、周囲には鬼火が飛び交い、その中央彼女の視線の先には少年の姿をした化け狸が立ち悪戯な笑みを浮かべます。
「妖怪の賢者、八雲紫、この隠神刑部がしかと化かしたり」
その一言を最後に、彼は人里の方へと走り去っていきました。
「やってくれたわね」
ポツリと漏らした言葉。
その瞳には好奇と自嘲、そして羞恥と激情の色。
「覚えていなさいよ、隠神刑部」
そう呟いた彼女はしばしの間、走って行った彼の背中を睨み付けていたのでした。
ちなみに、彼女が式から「ちょっと出かけると言ったきり何時に成ったら戻ってくるかと思えば、こんなに遅くまで家を空けるとは何事ですか!!」と説教を受け、改めて隠神刑部に逆恨みを抱くのはまた別のお話。
「覚えていなさいよっ!! 隠神刑部ぅううぅぅううっ!!」