婚約者を男爵令嬢に奪われたので田舎に帰ります――老執事と静かに暮らしていたら、元婚約者の家が勝手に没落していました
「エリシア・グランベル。君との婚約を、今日この場で破棄する」
王都の夜会場に、よく通る声が響いた。
その瞬間、楽団の演奏がわずかに乱れ、貴族たちのざわめきが波のように広がった。
エリシア・グランベル伯爵令嬢は、白銀の髪を結い上げ、淡い青のドレスをまとったまま、一度だけ瞬きをした。
彼女の目の前に立っているのは、婚約者であるレオン・ヴァーミリオン伯爵子息。
そして、その腕にしがみつくように寄り添っているのは、ミーナ・ラングレー男爵令嬢だった。
男爵家といえば、爵位こそあるものの、社交界ではあまり良い噂を聞かない家だ。だがミーナは可憐だった。潤んだ瞳、震える唇、庇護欲を誘う細い肩。
レオンは、彼女を守る騎士のように胸を張っている。
「君は完璧すぎるんだ、エリシア。いつも冷静で、隙がなく、僕の心に寄り添おうとしなかった。だがミーナは違う。彼女は弱く、儚く、僕を必要としてくれる」
エリシアは黙ってレオンを見つめた。
胸が痛まないわけではなかった。
十年間、婚約者として歩んできた。彼のために礼儀作法を学び、領地経営を学び、ヴァーミリオン伯爵家の帳簿にも目を通し、将来の妻として恥じぬよう努力してきた。
けれど、その努力は彼にとって「可愛げがない」という意味でしかなかったらしい。
「それで、わたくしにどうしろと?」
エリシアが問いかけると、レオンは一瞬だけ怯んだ。
怒鳴られると思っていたのだろう。泣き崩れると思っていたのだろう。だがエリシアは、そのどちらもしなかった。
「僕はミーナと婚約する。君には、すみやかに婚約破棄を受け入れてほしい」
「承知いたしました」
あまりに早い返事に、今度こそレオンは目を見開いた。
「なっ……本当に、それでいいのか?」
「ええ。婚約者が他の女性を愛していると公言なさったのです。これ以上、わたくしが何を申し上げても無意味でしょう」
エリシアはドレスの裾をつまみ、優雅に礼をした。
「レオン様。どうぞ、お幸せに」
その声に震えはなかった。
ただ、喉の奥に飲み込めないものが残った。
夜会場を出ると、玄関ホールに一人の老紳士が待っていた。
銀糸の混じる黒髪を後ろへ撫でつけ、背筋をまっすぐに伸ばした男。グランベル伯爵家に長く仕える執事、ヴィクトルである。
「お嬢様」
彼は何も尋ねなかった。
ただ、黒い外套をエリシアの肩にかけた。
「寒うございます」
「……ヴィクトル」
「はい」
「わたくし、少し疲れたわ」
「では、帰りましょう」
「王都の屋敷へ?」
「いいえ」
ヴィクトルは表情を和らげた。
「お嬢様がお望みなら、領地の奥にある別邸へ。湖と森に囲まれた、あの静かな屋敷へ」
エリシアは息をのんだ。
幼い頃、夏になると過ごしていた田舎の屋敷。野いちごの茂る庭。古い温室。夕方になると金色に染まる湖。
そして、いつも傍にいたヴィクトル。
「……行きたいわ」
「かしこまりました」
ヴィクトルは、まるで最初からすべて準備していたかのように、深く一礼した。
*
エリシアが王都を去ったという噂は、すぐに社交界へ広まった。
哀れな令嬢。
婚約者を奪われた伯爵令嬢。
完璧すぎたせいで愛されなかった女。
そんな囁きが聞こえてきたが、エリシアはそれを知っても、もう何も感じなかった。
田舎の別邸での暮らしは、驚くほど穏やかだった。
朝は鳥の声で目覚め、庭を散歩する。昼は領地の報告書を読み、必要な指示を手紙にしたためる。夕方には温室で花の手入れをし、夜は暖炉の前で本を読む。
そのすべての時間に、ヴィクトルがいた。
「お茶をお持ちいたしました、お嬢様」
「ありがとう、ヴィクトル」
「本日は蜂蜜を少し多めにしております。昨夜はあまりお眠りになれなかったようですので」
「……あなたには何でも分かってしまうのね」
「長くお仕えしておりますから」
ヴィクトルは今年で五十を越える。
エリシアより二十以上も年上だったが、その所作は少しも衰えを感じさせなかった。静かな声、丁寧な手つき、決して踏み込みすぎない距離。
幼い頃から、エリシアにとって彼は特別だった。
両親が忙しく領地を飛び回っていた頃、転んだエリシアに手を差し伸べたのも、初めて夜会で失敗して泣いたエリシアに温かなミルクを淹れてくれたのも、すべてヴィクトルだった。
婚約者のレオンは、エリシアの努力を当然のものとして受け取った。
けれどヴィクトルだけは、努力する前のエリシアを知っていた。
強くなる前の、泣き虫で、意地っ張りで、寂しがり屋だった彼女を。
「ヴィクトル」
「はい」
「わたくしは、可愛げがなかったのかしら」
ヴィクトルは銀の盆を置き、わずかに目を細めた。
「いいえ」
「即答なのね」
「当然でございます」
彼は言った。
「お嬢様は、誰よりも愛らしい方です。ただ、それを理解できる目を持たぬ者が多すぎただけのこと」
エリシアは思わず笑った。
「あなたは昔から、わたくしに甘いわ」
「お嬢様にだけでございます」
その言葉は、冗談のようでいて、少しも冗談には聞こえなかった。
エリシアは、カップの縁に指をかけたまま動けなくなった。
*
一方その頃、レオン・ヴァーミリオンは幸福の絶頂にいた。
少なくとも、最初の一か月は。
「レオン様、私、ずっと憧れていたんです。王都の一等地にある宝石店で首飾りを選ぶことに」
「もちろんだ、ミーナ。君には何でも買ってあげよう」
「まあ、嬉しい!」
ミーナは笑顔でレオンの腕に抱きついた。
その柔らかな声に、レオンは自分が英雄になったような気分になった。
エリシアは違った。
彼女はいつも予算を気にした。支出の根拠を求めた。将来の領地運営を考えろと忠告した。
だがミーナは、レオンを否定しない。
彼が贈り物をすれば喜び、彼が語れば目を輝かせ、彼のことを「頼りになる」と言った。
そのはずだった。
「レオン君、少し相談があるのだがね」
ミーナの父、ラングレー男爵がそう切り出したのは、婚約発表から二か月後のことだった。
「実は、我が家は少々資金繰りに困っていてね。だがミーナと君が結婚するなら、ラングレー家とヴァーミリオン家は親戚同然。助け合うのが当然だろう?」
少々、という言葉をレオンは信じた。
だが蓋を開けてみれば、ラングレー男爵家の借金は少々どころではなかった。賭博、投資詐欺、過剰な宝石購入、架空の事業計画。帳簿は穴だらけで、使用人への給金も滞っていた。
「なぜこんなになるまで放っておいたのですか!」
レオンが叫ぶと、男爵夫人は扇で口元を隠した。
「だって、貴族には体面というものがありますもの。質素な暮らしなどできませんわ」
「しかし、このままでは男爵家は破産します!」
「だからあなたが来てくれたのでしょう?」
にっこりと笑う夫人に、レオンは言葉を失った。
さらに悪いことに、ミーナは家計にまったく興味がなかった。
「難しいことは分かりませんわ、レオン様」
「君の家のことだろう!」
「だって、私は愛されて育っただけですもの。そんな怖い顔をしないでください。レオン様は、私を守ってくださるのでしょう?」
レオンは何度も言い返そうとした。
だがミーナに涙ぐまれると、結局、何も言えなくなった。
その結果、ヴァーミリオン伯爵家の資金がラングレー男爵家へ流れ始めた。
最初は一時的な援助のつもりだった。
しかし男爵夫妻は、金が入るたびに新しい馬車を買い、豪華な夜会を開き、貴族たちに見栄を張った。
レオンが止めようとしても遅かった。
ヴァーミリオン伯爵家の帳簿にも穴が空き始めたのだ。
「レオン。お前は何をした!」
父であるヴァーミリオン伯爵が怒鳴った時には、すでに複数の商会が支払いを求めて屋敷に押しかけていた。
「ラングレー家を立て直すために、少し資金を……」
「少しだと? 伯爵家の運転資金にまで手をつけておいて、少しだと?」
「しかし、ミーナを見捨てるわけには!」
「その女を選んだのはお前だ!」
伯爵の声は屋敷中に響いた。
「グランベル伯爵令嬢との婚約を破棄した時点で、我が家は信用を失っていた。そこへこの失態だ。もう終わりだ、レオン」
終わり。
その言葉で、レオンは机の縁をつかんだ。
かつてエリシアが忠告していたことを思い出す。
支出には根拠が必要です。
信用は一日で失われます。
婚姻とは恋だけで成り立つものではありません。
当時のレオンは、それを冷たい言葉だと思っていた。
だが今なら分かる。
あれは冷たさではなかった。
彼を守ろうとする言葉だった。
「エリシア……」
レオンは机に崩れ落ちた。
けれど、もう遅かった。
*
ラングレー男爵家は破産した。
ヴァーミリオン伯爵家もまた、多額の負債と信用失墜により爵位返上を余儀なくされた。
レオンとミーナの婚約は当然破談。
ミーナは別の庇護者を求めて王都をさまよったが、浪費家の男爵令嬢を受け入れる家などなかった。
レオンは遠縁の家に預けられ、そこで下働き同然の暮らしをしているという。
その知らせを、エリシアは田舎の別邸で聞いた。
「そう」
彼女は窓辺に立ち、湖面を眺めた。
「哀れね」
「お心が痛みますか」
背後に控えるヴィクトルが尋ねた。
エリシアは考えてから、首を横に振った。
「いいえ。もう、痛まないわ」
「それは何よりでございます」
「わたくし、薄情かしら」
「お嬢様は十分に傷つかれました。これ以上、他人の破滅まで背負う必要はございません」
ヴィクトルの声は落ち着いていた。
だが、その奥にある冷たさを、エリシアは最近感じ取れるようになっていた。
彼は優しい。
誰よりも優しい。
けれど、それはエリシアに対してだけなのだ。
「ヴィクトル」
「はい」
「あなたは、わたくしが王都へ戻りたいと言ったら、どうする?」
「お伴いたします」
「では、もう一度社交界に出たいと言ったら?」
「お支えいたします」
「別の方と結婚したいと言ったら?」
ほんの一瞬。
本当に一瞬だけ、ヴィクトルの表情が消えた。
それは仮面が剥がれ落ちたような、静かな空白だった。
すぐに彼はいつもの老紳士の顔に戻り、恭しく頭を下げた。
「お嬢様のお幸せを、第一に」
エリシアは振り返った。
「嘘ね」
「……お嬢様?」
「あなた、嘘が下手になったわ」
ヴィクトルは黙った。
暖炉の火がぱちりと鳴る。
「わたくしね、ずっと考えていたの。レオン様が急にミーナ様と近づいたこと。ラングレー男爵家の借金が、あまりにも都合よく表に出たこと。ヴァーミリオン家の商会取引が、一斉に止まったこと」
「偶然ではございませんか」
「そうね。すべて偶然かもしれないわ」
エリシアは彼に近づいた。
「でも、あなたが王都を去る準備をあまりにも早く整えていたことだけは、偶然ではないでしょう?」
ヴィクトルは否定しなかった。
ただエリシアを見つめた。
その瞳は、長年仕えてきた執事のものではなかった。
深く、昏く、そして恐ろしいほど一途な男の目だった。
「……いつから?」
エリシアが問う。
「お嬢様が、ご自分の孤独を誰にも見せなくなった頃からでございます」
「わたくしを?」
「はい」
「欲しかったの?」
「はい」
その返事は、祈りのようだった。
「ですが、私は使用人で、年も離れております。お嬢様は伯爵令嬢で、将来もおありでした。ですから、私はただお守りするだけでよいと思っておりました」
「それなのに?」
「レオン様がお嬢様を傷つけた」
ヴィクトルの声が、わずかに低くなった。
「お嬢様の価値も、努力も、孤独も知らぬまま、あの方はお嬢様を捨てた。ならば、私が拾ってもよいのではないかと」
「それで、ミーナ様を近づけたの?」
「彼女は最初からレオン様に興味を持っておりました。私は、彼女が近づける場所に招いただけでございます。レオン様が応じるかどうかは、あの方次第でした」
「ラングレー家の借金は?」
「隠されていたものを、しかるべき者に見えるようにしただけです」
「ヴァーミリオン家の取引停止は?」
「信用とは壊れやすいものでございますから」
エリシアは、深く息を吐いた。
恐ろしい人。
そう思った。それなのに、嫌悪だけではなかった。自分のためにここまで歪んだ人を前にして、指先が冷える一方で、目を逸らせない自分もいた。
自分もきっと、正しくはないのだと思った。
「わたくしが軽蔑すると、思わなかったの?」
「思いました」
「では、なぜ話したの?」
「お嬢様に問われたからです。私は、お嬢様にだけは嘘をつきたくありません」
ヴィクトルは膝をついた。
老紳士と呼ぶには、その姿はあまりに痛々しく、あまりに美しかった。
「罰をお与えください。解雇でも、告発でも、いかようにも」
エリシアは彼を見下ろした。
幼い頃から傍にいた人。
いつも一歩後ろを歩き、決して手を伸ばしてこなかった人。
けれど、本当は誰よりも激しい執着を隠していた人。
「ヴィクトル」
「はい」
「わたくし、田舎暮らしにも慣れてきたわ」
「……はい」
「朝はあなたの淹れた紅茶を飲みたい。昼は庭を歩きたい。夜は暖炉の前で本を読みたい」
エリシアは、そっと彼の頬に触れた。
「そのすべてに、あなたがいてほしいの」
ヴィクトルの瞳が揺れた。
「お嬢様、それは……」
「もう、お嬢様では嫌」
エリシアは微笑んだ。
「エリシアと呼んで、ヴィクトル」
長い沈黙のあと、ヴィクトルは彼女の手に唇を落とした。
「……エリシア様」
「様もいらないわ」
「それは、まだお許しください」
「頑固ね」
「年寄りでございますので」
二人は見つめ合い、やがてどちらともなく笑った。
その年の冬、エリシア・グランベル伯爵令嬢は社交界へ戻らないことを決めた。
王都では彼女を哀れむ者もいた。
婚約破棄された令嬢。
田舎に引きこもった女。
そう呼ぶ者もいた。
けれど、誰も知らない。
湖畔の屋敷で、エリシアがどれほど穏やかに笑っているのかを。
朝には老執事が紅茶を淹れ、昼には二人で庭を歩き、夜には暖炉の前で同じ本を読む。
雪が降る夜には、ヴィクトルが膝掛けをかけてくれる。
春になれば、エリシアは彼の腕を取り、野いちごの咲く小道を歩く。
それは、誰にも祝福されない恋だったかもしれない。
正しくない恋だったかもしれない。
けれどエリシアは、もう自分の幸せを他人に決めさせるつもりはなかった。
「ヴィクトル」
「はい、エリシア様」
「あなた、わたくしを手に入れるためなら、何でもしたのね」
ある夜、エリシアは冗談めかして言った。
ヴィクトルは暖炉に薪をくべながら、薄く笑った。
「いいえ」
「あら、違うの?」
「何でも、ではございません」
彼は振り返り、いつもの丁寧な礼をした。
「お嬢様が涙を流すことだけは、二度と許しません」
その瞳の奥に、まだ消えない昏い炎を見つけて、エリシアは笑った。
「本当に、恐ろしい人」
「お嫌いになりましたか」
「いいえ」
エリシアは彼に手を伸ばした。
「ずっと、好きだったわ」
ヴィクトルはその手を取り、深く頭を垂れた。
「私もでございます。ずっと、あなたがご自分を抑えて笑うようになった頃から」
窓の外では、雪が降っていた。
王都の噂も、破滅した家の叫びも、過ぎ去った婚約も、もうこの屋敷には届かない。
伯爵令嬢エリシアは、田舎の屋敷で穏やかに笑うようになった。
優しい老執事と共に。
その老執事が、彼女を傷つけた者たちをひとり残らず盤上から退けた黒幕だったことを、王都の誰も知らないまま。




