白衣の手前
国家試験予備校に通う予備校生という立場です。
第一章 居酒屋の廊下
僕がえみ先生を好きになったのは、正確には、好きになる前の「予感」からだった。
医師国家試験予備校の教室は、いつも乾いている。ホワイトボードの粉、蛍光灯の白さ、ページをめくる音。正解か不正解かでしか物事を語らない空間のなかで、えみ先生だけが、ほんの少しだけ違う温度を持っていた。
「この選択肢、切る勇気ね」
そう言って、ペン先で選択肢に小さく丸をつける。その丸は、ただの印なのに、なぜか僕には救済の輪のように見えた。
正解にたどり着くための丸ではなく、迷っている僕を肯定する丸。
二個上。二年目の講師。
若くて、授業の準備に追われていることは、板書の細かさからも伝わってきた。完璧ではない。ときどき言い直す。資料をめくり損ねる。
でも、その不完全さが、僕にはまぶしかった。
だから僕は、難しい問題を探した。
自分の理解のため、という建前を掲げながら、本当は違う。
質問を口実に、先生の時間を少しでも奪いたかった。
「ここ、なんで肝静脈圧が上がるんですか?」
「いい質問だね」
その一言で、胸が跳ねる。
いい質問。いい質問。
その評価は、問題の正誤よりも、僕という存在に与えられた承認のように感じられた。
国家試験が近づくにつれ、模試は増えた。
十二月、大規模模試のあと、恒例の打ち上げがあった。
その日だけは、受験生という身分を忘れていいらしい。
居酒屋の個室は、アルコールと焦りの匂いで満ちていた。
先生たちも何人か来る、と聞いていた。
LINEを聞く。
それがその日の、僕のただ一つの目標だった。
何人か断られていることは知っている。
「線引きは大事だから」と、えみ先生は他の受験生に言っていたらしい。
でも。
もしかしたら。
自分だけは。
その「もしかしたら」に、若さは賭けてしまう。
トイレに立つふりをして廊下に出た。
ちょうど、えみ先生も同じタイミングで席を外した。
廊下は細く、暖簾越しに笑い声が漏れていた。
「あの、先生」
「ん?」
心臓の鼓動が耳に響く。
「LINE、教えてもらえませんか」
一瞬、空気が止まった気がした。
断られる未来を、もう半分受け入れていた。
えみ先生は僕を見た。
ほんの数秒。けれど、その沈黙は、ひどく長かった。
そして。
「……早く登録して」
何も説明せず、スマートフォンを差し出した。
あまりにあっけなくて、逆に現実感がなかった。
指が震えて、名前を打ち込むのに二度も間違えた。
登録完了の画面を見ながら、僕は思った。
これで、距離は縮まった。
たぶん、それは最初の勘違いだった。
⸻
第二章 境界線の上
年が明けた。
予備校は、祝祭の色を失っていた。
国家試験まで、あとわずか。
それでも僕は、LINEのトーク画面を何度も開いた。
「初詣、行きませんか」
送信ボタンを押すまでに、三十分かかった。
返信は、二時間後。
「ありがとう。でも今はちょっと余裕なくて。ごめんね」
丁寧で、やわらかい拒絶。
それでも、連絡は続いた。
勉強の話。模試の出来。体調のこと。
返信は途切れない。
だから僕は、勝手に期待する。
ある夜、えみ先生から長文が届いた。
「ちょっと聞いてほしいことがあって」
川田先生の話だった。
同期の講師。二年目。
理路整然とした授業で人気もある。
けれど、距離の取り方が極端に下手らしい。
「毎日、すごい数のLINEが来るの」
おはよう。
今日の板書よかったね。
今何してるの?
既読ついたよね?
返信が遅れると、追撃が来る。
出張の新幹線では、当然のように隣に座る。
飲み会では、帰り道を合わせる。
「悪い人じゃないんだけどね」
その一文が、いちばん苦しかった。
悪い人じゃない。
でも、怖い。
断れば、職場の空気が悪くなる。
同期だから、完全に切ることもできない。
「付き合う気はないよ。でも……疲れちゃって」
その言葉を読んだとき、胸の奥に黒いものが湧いた。
怒り。嫉妬。無力感。
僕は受験生だ。
予備校の内部事情に首を突っ込める立場じゃない。
「先生は悪くないです」
それしか言えない自分が、情けなかった。
守りたい、と思う。
でも、守る資格がない。
境界線は、相変わらずそこにあった。
⸻
第三章 泣き声
電話が鳴ったのは、冬の雨の夜だった。
画面に表示された名前を見た瞬間、呼吸が止まった。
「もしもし」
「……ひろきくん?」
声が、震えていた。
「どうしたんですか」
数秒の沈黙。
そして、抑えきれない嗚咽。
「ごめんね……こんな時間に」
胸が締めつけられる。
「川田先生が、今日も……」
言葉が途切れる。
泣きながら説明する声は、断片的だった。
断っているのに、理解してもらえない。
職場で顔を合わせるのが怖い。
でも大ごとにはしたくない。
「私がちゃんと強く言えないからかな」
違う。
違う、と叫びたかった。
「先生は悪くない」
それでも声は、驚くほど小さかった。
電話の向こうで、鼻をすする音がする。
「ひろきくんは、優しいね」
その一言で、僕は壊れそうになった。
優しいんじゃない。
何もできないだけだ。
「試験、近いのにごめんね」
「そんなの、関係ないです」
本当は関係ある。
でも、その瞬間だけは、国家試験なんてどうでもよかった。
守れないなら、せめて聞く。
彼女の涙が止まるまで、何十分でも。
やがて、泣き声は小さくなった。
「ありがとう。少し楽になった」
通話が切れたあと、僕は天井を見つめた。
好きだ、と思った。
はっきりと。
逃げ道のない形で。
でも同時に、理解してしまった。
僕はまだ、白衣の手前にいる。
医師でもなく、同僚でもなく、ただの受験生。
彼女の人生に踏み込むには、あまりにも軽い存在。
それでも。
いつか、並んで立てる日が来るのだろうか。
雨音は、夜明けまで続いていた。
かなり近いエピソードをもとに作成しました。




