第二王女③
◆
その頃、ロンドン郊外の廃工場地帯では「深淵の魔術師」への最終作戦が開始されようとしていた。
英国魔術省の特殊部隊が、彼らの本拠地を包囲している。百名を超える魔術師テロリストを一網打尽にするため、通常の三倍の兵力が投入されていた。
「全隊、位置につけ」
作戦指揮官のマーカス・ホークが無線で指示を出す。
「目標はウォルト・デ・モード以下、テロリスト推定百名以上。可能な限り生け捕りにしたいが、抵抗された場合は排除を許可する」
部隊員たちが頷く。彼らは魔術と近代兵器の両方に精通した精鋭だが、相手も相当な手練れ揃いだ。油断はできない。
「突入」
ホークの号令と同時に、工場のすべての入り口から部隊が雪崩れ込む。閃光弾が炸裂し、制圧射撃が響き渡る。魔術的な障壁が張られていたが、部隊の対魔術装備によって次々と無力化されていった。
「クリア」
「クリア」
「Bブロック、抵抗あり。制圧中」
報告が飛び交う中、ホークは違和感を覚えていた。抵抗が弱い。百名以上の魔術師がいるはずなのに、遭遇する敵の数が少なすぎる。
「地下だ」
直感的にそう判断した。
「地下室を捜索しろ。連中は下に集まっている」
工場の地下には古い排水路に繋がる広大な空間があった。部隊がそこに踏み込むと、驚くべき光景が広がっていた。
百名近い魔術師たちが、巨大な魔法陣を囲んで跪いている。全員が白いローブを纏い、声を揃えて何かを唱えている。その光景は新興宗教の集会か、あるいは集団催眠のセミナーを思わせた。
その中央には淡い光球が浮かび、陣の最前列にウォルト・デ・モードの姿があった。
「遅かったな」
デ・モードは振り返らずに言った。その声には捕まることへの恐怖が微塵もない。むしろ、勝ち誇ったような響きすらある。
「何をしている」
ホークが銃を向ける。
「見ての通りだ。祈りを送っている」
「祈り?」
「至高天に」
その言葉にホークは眉をひそめた。
「至高天だと? お前は科学を否定し、純粋な魔術を唱えていたはずだ。なぜ至高天に……」
「勘違いするな」
デ・モードの目が光った。
「私は科学を否定している。だが魔術の究極形態としての至高天は否定していない。彼らこそが真の魔術師だ。科学など使わずに宇宙を支配している。惑星を握り潰し、恒星を動かし、銀河を弄ぶ。それこそが魔術の極致だ」
「狂ってる」
ホークは吐き捨てた。
「全員逮捕する。大人しく投降しろ」
「もう遅い」
デ・モードは微笑んだ。
「祈りは届いた。至高天の第二王女殿下に」
その瞬間、地下空間の空気が変わった。
いや、空気だけではない。光が。音が。存在そのものが歪んだような感覚が、その場にいた全員を襲う。まるで世界が一瞬だけ裏返しになったような、不快で不気味な感覚だ。
「な……」
ホークが息を呑んだ。
魔法陣の中央に、少女の姿が浮かび上がっていた。
銀色の髪。幼い容貌。だがその瞳にはこの世のものとは思えない深淵が宿っている。
「やっほー」
セレスティア・ルーキス・デー・カエロー・カデンスはにっこりと笑った。
「呼んだ?」
デ・モードの顔に歓喜が浮かぶ。
「殿下……やはり聞いてくださっていたのですか」
「うん。魔術だけの世界が欲しいんだっけ? 科学に汚染されてない、純粋な魔術の星」
「その通りです」
デ・モードは跪いた。彼の後ろで、百名近い魔術師たちも一斉に頭を垂れる。
「地球を、あるべき姿に戻してください。科学という名の汚物を排し、古き良き魔術の時代を……」
「あー、うん」
セレスティアは少し困ったような顔をした。
「それはちょっと無理かな」
「……は?」
「地球を魔術だけにするのは面白くないからやらない。でもさ」
王女の笑みが深くなる。
「魔術しかない文明圏の星なら、あるよ?」
デ・モードの表情が凍りついた。
「ちょうど、大気の浄化を頼まれてるんだよね。その星、科学とか全然発達してなくてさ、魔術だけで生きてる人たちなの。面白そうでしょ?」
面白そうでしょ。
この言葉が、至高天の民にとってどれほど重要な意味を持つか。彼らは「面白いこと」のためなら何でもする。そして「面白くないこと」は一顧だにしない。デ・モードの「地球を魔術の世界に」という願いは「面白くない」と判断されたのだ。
「それは……」
「君たち、そこに行ってみない? 魔術だけで暮らしてる世界を体験できるよ。しかも困ってる人たちを助けられる。一石二鳥じゃん」
デ・モードは立ち上がった。その顔には困惑と怒りが入り混じっている。
「お断りします」
彼は言った。
「私は地球を変えたいのです。見知らぬ惑星の問題など知ったことでは……」
言葉が途切れた。
デ・モードの目が大きく見開かれる。彼の体が震え始めた。歯の根が合わないほどの、激しい震え。
「どうしたの?」
セレスティアは首を傾げた。その仕草は無邪気な子供のように見えるが、彼女の瞳はデ・モードを見つめたままだ。
デ・モードは見ていた。
視ていた。
視られていた。
無限大数の「目」が自分を注視している。宇宙の果てから、次元の狭間から、存在の根源から。数えきれない「何か」が彼を観察していた。その視線は冷たくも温かくもなく、ただ無関心に、まるで顕微鏡を覗き込む研究者のように彼を見下ろしている。
そしてデ・モードは理解した。
自分が「否」と言えば、どうなるか。
死ぬのではない。死よりも遥かに惨たらしい何かが待っている。存在を消されるのではない。存在を引き延ばされ、薄められ、永遠に終わらない虚無の中で意識だけが保たれ続ける。そんな末路が、ほんの一瞬だけ脳裏をよぎった。
だが同時に、別の何かも流れ込んできた。
歓喜。
恍惚。
言葉にできない、圧倒的な多幸感。
麻薬など比較にならない。サイバー・ナノドラッグで得られる快楽など、この前では線香花火のようなものだ。宇宙そのものが自分を祝福しているような感覚。存在の根源に触れているような確信。
至高天の存在に触れるということは人間の精神にとって麻薬のようなものなのかもしれない。いや、麻薬という言葉では生ぬるい。精神のリセット。人格の上書き。そういった方が正確だろう。
デ・モードの瞳から光が消え、代わりに狂気じみた輝きが宿っていく。
「ああ……」
彼の口から恍惚とした声が漏れた。
「ああ、ああ、ああああ……」
「え、大丈夫?」
セレスティアが少し困ったような顔をする。
「なんか変になっちゃった?」
変になった、という表現は控えめすぎるだろう。彼は完全に壊れた。人間としての何かが決定的に失われ、別の何かに置き換わった。
デ・モードは両手を広げ、天を仰いだ。その顔には涙が流れている。だがそれは悲しみの涙ではなく、歓喜の涙だった。
「素晴らしい……素晴らしい……」
彼は笑っていた。狂ったように、止まらない笑い声を上げている。
「これが至高天……これが真の神……ああ、私はなんて愚かだったのでしょう。地球などという塵芥のような星に執着していたなんて……」
「お、おい……」
ホークが一歩後ずさりした。デ・モードの様子は明らかに尋常ではない。数分前まで冷徹なテロリストだった男が、今や恍惚とした表情で涙を流しながら笑っている。その変貌ぶりはホラー映画のワンシーンのようだ。
「殿下、殿下、殿下ァ!」
デ・モードは叫んだ。
「お供いたします! どこへでもお供いたします! この身、この魂、すべてを殿下に捧げます! 私の全存在を以て、殿下のお望みを叶えて御覧に入れます!」
彼の後ろでは百名近い魔術師たちが同様の反応を示していた。ある者は泣き、ある者は笑い、ある者は恍惚とした表情で虚空を見つめている。全員が至高天の「何か」に触れ、精神を根本から作り変えられてしまったのだ。
集団洗脳。
あるいは集団覚醒。
呼び方は何でもいいが、百人の人間が一瞬で狂信者に変わったという事実だけは確かだ。
「やったー」
セレスティアは手を叩いた。
「じゃあみんなで行こうね。百人くらいいるんでしょ? 面白くなりそう」
「はい! はい! 喜んで!」
デ・モードは何度も頷いた。その目は虚ろで、しかし同時に狂気的な熱を帯びている。
「殿下のために! すべては殿下のために!」
ホークと特殊部隊はその光景を呆然と見つめていた。任務は「テロリストの逮捕」だったはずだ。だが今、目の前で起きているのはそれとは全く別の何かだった。
「あ、そうだ」
セレスティアが彼らに視線を向けた。
「君たちも地球の偉い人たちに伝えといて。面白い人達も参加するよ~って。よろしくね」
王女の姿が掻き消える。
後には狂気に囚われた百名の魔術師たちと、何が起きたのか理解できずに立ち尽くす特殊部隊だけが残された。
しばらくして、ホークは無線機を取った。
「本部、こちらホーク。任務は……任務は……」
彼は言葉を探した。何と報告すればいいのか分からない。
「任務は終了した。ただし、想定外の事態が発生。詳細は直接報告する」
想定外の事態。
その言葉では全く足りないが、他に適切な表現が見つからなかった。




