第一王子⑤
◆
至高天の民が地球を訪れる際には、慣例として一本の連絡を入れることになっている。
慣例、というのは正確な表現ではない。義務ではない。至高天の民にとって「義務」などという概念は柴犬が確定申告をするのと同程度に無縁なものであり、彼らが地球に連絡を入れるのは単に「そういう経路が確立されたから」に過ぎない。
具体的にはプルーウィアがシュリンプに連絡を入れる。プルーウィアが「これからお邪魔しますわ」と言葉を発すると、至高天の通信系がそれを自動的にシュリンプの専用回線に転送するのだが、この経路がいつどのように確立されたかについては地球側の記録にも至高天の記録にも残っていない。気づいたときにはそうなっていた。犬の散歩の時間が自然と決まるように。
セレスティアも似た経路を持っている。彼女の場合は「暇な人いる?」という外交通信としては前代未聞の軽さで発信されるが、辿り着く先は同じシュリンプの回線であった。
ここで理解しておかなくてはならないことが一つある。
至高天の民は、地球人の個体を基本的に識別しない。
冷酷だとか差別的だとかいう話ではない。人間が柴犬を八十億頭並べられたとき、一頭一頭を個体識別できるだろうか。できない。毛の色で大まかに分けることはできる。だが同じ赤毛の柴犬を百頭並べられたらもう無理だ。至高天の民にとって地球人の差異というのはその程度のものなのである。
この認識の限界は至高天の民に共通する特質であるが、個体差は存在する。プルーウィアは四千六百年の接触歴があるからこそシュリンプという「一頭」を認識できるようになった。セレスティアは姉からの情報で間接的に覚えた。姉妹それぞれの方法で地球人を認知している。
そしてニヴィスである。
ニヴィスは姉たちよりもさらに地球人への関心が薄い。関心が薄いどころか、関心がない。関心がない者に個体識別を求めるのは柴犬に微分方程式を解かせるのと同じくらい非生産的な要求であった。
したがってニヴィスは地球を訪れる際に連絡を入れない。連絡を入れるにはまず「誰に」連絡を入れるかを知っている必要があり、ニヴィスは「誰に」の部分をそもそも持っていないのだ。プルーウィアがシュリンプという経路を確立しているように、ニヴィスも誰かしらと経路を確立すれば済む話ではあるのだが、ニヴィスにはその動機がない。
ニヴィスは気まぐれに地球に降りてくる。
気まぐれ、という表現すら正確ではないかもしれない。あえて地球人の言語で近似的に記述するなら「何となく」が一番近い。何となく足が向いた。何となく降りてきた。理由はない。理由がないことについて人間が「気まぐれ」と名付けるのは勝手だが、ニヴィス自身の認識ではそもそも名前をつけるほどの行為ですらなかった。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
ニヴィスが地球に降りるたび、その足は必ず京都に向かった。
そしてニヴィスが京都の路地を歩くたび、必ず一人の少女と遭遇した。
この「必ず」がいかに異常なことであるかを、当事者たちはまだ誰も正しく理解していなかった。
◆
みくが十一歳になった年のことだ。
六月の京都は梅雨に沈んでいた。湿った空気が盆地の底に膿のように溜まり、紫陽花が路地のあちこちで重たく色を膨らませている。みくは傘を差して嵐山の商店街を歩いていた。母に頼まれた買い物である。ちなみに頼まれたものは豆腐と味噌とネギだ。
嵐山の路地の角に、銀色の髪が濡れていた。
ニヴィスは信号のない十字路に立っていた。至高天の民が纏う地球の布地とは明らかに異質な素材の衣服。傘は差していない。
「あ」
みくが立ち止まった。
「おにいちゃん!」
一年前の秋に嵯峨野で一度会っただけの少年を、みくは忘れていなかった。銀色の髪は覚えやすいものだ。
「覚えてる? 去年の! おねえちゃんの弟さんでしょ?」
みくが傘を傾けてニヴィスに差しかけた。雨が彼にあたるのが気になったらしい。実際にはニヴィスの肌に雨粒は到達していないのだが、十一歳の少女にそのような知覚上の微細な差異は見えない。
「……」
ニヴィスは答えなかった。だがみくの傘の下に入った。正確に言えば、みくが傘の角度を調整して彼を覆ったのであり、ニヴィスが能動的に傘の下に移動したわけではない。だが拒否もしなかった。
「ねえ、おにいちゃん。今日おねえちゃんは」
「……いない」
これでもニヴィスにしては饒舌であった。
「ひとりで来たの?」
「……」
「じゃあ、お使い一緒に行こう!」
みくは答えを待たなかった。子供は待てないのだ。
二人は嵐山の商店街を歩いた。みくが豆腐を買い、味噌を買い、ネギを買った。ニヴィスはこの一連の消費行動を視界に捉えていたが、何の感想も抱いてはいなかっただろう。至高天の民に「買う」という概念は存在しない。欲しいものがあれば勝手に手に入る。森羅も万象もそのように出来ている。
◆
みくが十二歳の年は、十月にニヴィスが来た。
秋祭りの準備で遅くなった帰り道だった。夕焼けが嵐山の稜線を焼く中、みくが商店街の角を曲がったところに銀色の髪が立っていた。
「にびすくん!」
みくはいつの間にか「おにいちゃん」をやめて「にびすくん」と呼ぶようになっていた。名前で呼ぶ間柄への昇格である。ニヴィスが昇格を承認した記録はないが、拒否した記録もない。
「今日ね、秋祭りの準備してたんだ。飾りつけとか。手、絵の具だらけになっちゃった」
みくが両手をひらひらさせて見せた。指先に赤と黄色の絵の具がこびりついている。ニヴィスは少女の手を見たが、絵の具という概念がそもそも彼の認知に存在するかどうかは怪しかった。
「……」
「一緒に帰ろう。ここからうち近いんだよ」
みくは答えを待たなかった。十二歳になっても待てないものは待てないのだ。
◆
十三歳。みくが中学の制服を着始めた年だ。
紺のセーラー服に紺のリボン。一年で背が四センチ伸びた。ニヴィスは春に来た。哲学の道の桜並木で、みくが友達と写真を撮っていた。
友達のスマートフォンのカメラが捉えた一枚に、背景として銀髪の少年が映り込んだ。この写真は当日中にSNSに投稿され「京都の幽霊イケメン」というキャプションとともに三日間トレンドに入った。護衛官が即座にデジタル痕跡の消去に動いたが、インターネットの記憶は犬の嗅覚のようにしつこい。完全な消去は不可能であった。
みくは友達の輪を飛び出した。
「にびすくん、ひさしぶり!」
「誰あの子」「めっちゃかっこよくない?」「彼氏?」
友達の囁きに、みくは振り返って「違うってば!」と叫んだ。何が違うのかは説明しなかった。
「ねえ、にびすくん。あたし中学生になったんだよ」
「……」
「制服、どう?」
これは至高天の民にとって史上最も回答困難な質問の一つであったろう。衣服の審美的評価は地球人の文化的文脈に深く依存しており、文化的文脈を持たないニヴィスにセーラー服の印象を尋ねるのは熱帯魚にワインの品評をさせるようなものだ。
「……わからない」
「えー、せめて可愛いとか言ってよ」
「……」
みくは諦めた。だが笑っていた。ニヴィスがド陰キャなのはもうすでに分かっている事だし、ド陰キャにむりやりリアクションさせるほどみくは無慈悲でもなかった。
◆
さて、ここで場面を変える。
西暦六九一九年。みくが十四歳の春のことだ。だがみくの話ではない。
東京・永田町。料亭の朝食会。
鷹市香苗は味噌汁を啜りながら、向かいに座る男の顔を見ていた。
球木竜一郎。億民民主党代表。四十代半ばの、日本の政治家にしては珍しく数字に強い男であった。財務省出身の経歴がもたらす官僚的な精密さは、政策議論の場では頼もしく、予算折衝の席では鬱陶しかった。
この日は予算の話をするはずだった。防衛費の中の至高天関連予算──護衛官の増員費用、至高天識別衛星ネットワークの維持費用、プルーウィアやセレスティアの降臨時の交通規制費用、ニヴィス用の常時警戒態勢費用──が膨らんでいることについて、億民民主党から修正要求が出ていた。
「ところで総理」
球木が箸を止めた。
「恒道改革連合がまた至高天依存脱却法案を出すと息巻いてるんですが」
鷹市は表情を変えなかった。
「聞いているわ」
「正直なところ、うちとしてもどう対応するか困っています。あそこの問題意識それ自体は──つまり至高天に技術も安全保障も丸投げしている現状が健全かという問いは──理解できるんです。ただ」
「ただ、無理よね」
鷹市が球木の言葉を遮った。遮ったというより、着地点が見えていたので代わりに着地してやったのだ。球木は苦笑した。この「呼吸」が合うから与野党の垣根を越えて朝食を共にできる。
「端的に言えば、そうなります」
「恒道改革連合の法案は毎年提出されて、毎年同じ場所で頓挫するのよ。『至高天に依存しない安全保障体制の構築』。言葉は立派だけれど、じゃあ具体的にどうするの、と聞くと数字が出てこない。数字が出てこないのは当然で、五千二百万隻の連合艦隊でも倒せなかった恒星間生物を王女殿下が『えいっ』の一言で消した現実を見た後に、自力で対抗できるという数字を捻り出せる人間はいないわ」
球木は箸を置いた。
「しかし、依存のリスクを議論すること自体には意味があるのでは。保険の概念です。もし至高天が──何らかの理由で──地球に関心を失ったら」
「関心を失う?」
鷹市の目が少しだけ細くなった。
「球木さん。至高天の本当に恐ろしいところは、軍事力ではないのよ」
「と言いますと」
「惑星を握り潰すだとか、恒星を消すだとかいうのは、確かに凄まじい力だけれど、結局はスケールの問題にすぎないでしょう? 対惑星級兵器を並べれば似たような事は出来るわよね」
「はい」
「至高天の民が本当に恐ろしいのは」
鷹市は箸を置いた。
「『あれがしたい』とか、『こうなったらいいな』とか──そういう思いが、そのまま実現してしまうことなの」
球木の手が止まった。
「至高天の民が何かを望む。望んだ瞬間に、世界がその望みに沿うように動き始める。誰の意志でもなく、誰の策謀でもなく、ただ自然にそうなる。偶然が重なり、確率が歪み、本来なら起きるはずのないことが起きる。しかも極めて自然な形で。つじつまが合うように。後から振り返っても『偶然でした』で済んでしまうように」
球木がぽかんと口を開いた。
「SFじみて聞こえるけれど、現実にそうなっているの。たとえばね──プルーウィア殿下が『京都に行きたいな、紅葉が見たいな』と思えば、京都の天気は晴れるのよ。勝手に晴れるの」
「偶然でしょう」
「だといいわね。まあ偶然でしょうから。すべてが『たまたま』なのよ。一つ一つは偶然として説明がつく。至高天の民が意識的にその様にしているわけでもないらしいから。でもね、分かるでしょう? 私が言いたい事が」
球木はしばらく黙っていた。料亭の庭で小鳥が鳴いている。
「……つまり、至高天依存からの脱却が不可能な理由は」
「力の問題じゃないという事よ」
鷹市はゆっくりと味噌汁の椀を置いた。
「至高天依存脱却という看板は──つまるところ、飼い犬が首輪を外そうとしているようなものですか」
「首輪を外してもいいのよ。でも外してもすぐに新しい首輪が生えてくるでしょうね。飼い主すら知らない間に」
鷹市は窓の外を見た。
「至高天の存在というのは最終的にはそういうものなの。私たちが脱却するしないを議論すること自体が滑稽ね」
球木は箸を取り直した。議論の結論が出そうにないことを悟ったからだ。味噌汁が冷めていた。
「……予算の話に戻りましょう」
「そうしましょう」
二人は予算の話に戻った。至高天関連予算は前年比八パーセント増で合意した。




