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至高の天にワンワンと  作者: 埴輪庭


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14/18

第一王子④

 ◆


 至高天とは何か。


 この問いに正確に答えられる地球人は存在しない。存在しないどころか、この問いを正確に「理解」できる地球人すら存在しない。深海魚が太陽の色を語ろうとするのに似ている。深海魚は光を知らない。光を知らない生き物に光源の正体を問うても仕方がないのだが、地球人は深海魚よりも諦めが悪い。


 だが諦めるのは地球人の美徳ではない。理解できないものを理解しようとする衝動こそが地球人を宇宙に押し出し、恒星間航路を切り拓かせ、六千九百年の文明を積み上げさせた原動力なのだ。だから地球の学者たちは至高天を研究し続けた。四千六百年間、一ミリも進まなかった研究を。


 その成果を簡潔に述べる。


 至高天とは、この宇宙における頂点捕食者である。


 ◆


 「頂点捕食者」という表現は正確ではないと至高天研究の専門家は主張する。だが他に適切な言葉がないのだから仕方がない。地球人の言語で至高天を記述するのは、犬が飼い主の確定申告を理解しようとするのと同程度に無謀な試みである。無謀だが、やらないわけにはいかない。犬だって飼い主がパソコンの前で唸っていれば心配くらいはする。


 それでも記述を試みるならば、以下のようになる。


 この宇宙には無数の知的生命体が存在する。天の川銀河だけで確認されている知的種族は十二万七千四百余り。そのうち恒星間航行能力を獲得した種族は約三千。銀河間航行能力を持つ種族は百に満たない。そしてその百足らずの種族が形成する銀河連合体や星間帝国のすべてが、等しく至高天の被保護下にある。


 被保護下。


 この言葉の意味するところは単純だ。至高天の民は宇宙のあらゆる知的生命を「飼っている」のである。犬を飼うように。猫を飼うように。あるいは水槽の中の熱帯魚を飼うように。


 ここで重要なのは、犬は飼い主が自分を飼っていることを認識できるが、熱帯魚にはそれが難しいという点だ。

 

 銀河間航行能力を持つ高度な文明種族であっても至高天の民を「認識」できないケースは珍しくない。認識の壁は知能の問題ではなく、存在の位相の問題だからだ。至高天の民は三次元空間に「降りてきて」初めて下等生命に認識可能な形態をとるが、それは人が水槽に指を突っ込むようなものであって、熱帯魚が認識するのは指という障害物であり、指の持ち主が何を考えながら指を突っ込んでいるのか──今日の夕飯のことか、明日の仕事のことか──は熱帯魚には永遠に分からない。


 では人間──地球人はどうか。


 地球人は蟻よりは少しマシだった。地球人は至高天の民を「認識」し、コミュニケーションをとることができた。惑星を握り潰す存在と会話し、紅葉を案内し、少なくとも表面上は友好関係を維持している。これは宇宙全体の知的種族の中でも極めて稀有な能力であった。


 だがそれは彼らが特別に賢いからではない。


 至高天の民の側が、地球人に合わせて「降りてきてくれている」からに過ぎない。子供が飼い犬の目線に合わせてしゃがみ込むように至高天の民は意識的に自らの存在を圧縮し地球人に知覚可能な姿を纏い地球人に理解可能な言語で話しかけてくれるのだ。おそらくは、かなり面倒くさい作業であろう。だがそれでもやるのだから相当な物好きである。


 にもかかわらず、彼らはそれをする。


 なぜか。


 答えは単純であり、そして人類にとっては極めて複雑な感情を誘発するものであった。


 可愛いからだ。


 ◆


 至高天の民にとって地球人が「可愛い」理由を理解するには、まず宇宙における知的生命の一般的な反応パターンを知る必要がある。


 至高天の存在を認識した知的種族が示す反応は、四千六百年の観察データによれば概ね三つに分類される。


 第一は崩壊。至高天の民の存在圧に精神が耐えられず、種族ごと狂気に沈むケース。これが最も多い。銀河系に確認されている知的種族十二万七千余りのうち、至高天との接触記録が残る種族は約八百。そのうち三百以上が接触後に文明の崩壊か精神の不可逆的損傷を経験している。


 第二は絶対服従。至高天の民を神として崇拝し、自発的に隷属するケース。これは崩壊に次いで多い。星間文明の中にも至高天を信仰の対象とする種族は多数存在しており、中にはプルーウィアの「お別れに」投げ渡された惑星の残骸を聖遺物として祀っている種族もいる。


 第三は逃走。至高天の存在を察知した瞬間に全文明規模の大移動を開始するケース。逃げたところで逃げ切れはしないのだが、逃走本能というのはどの種族にも備わっている。


 崩壊、服従、逃走。


 この三択以外の反応を示した種族は四千六百年の観察史上、極めて少ない。


 地球人類は、その極めて少ない例外であった。


 ◆


 地球人類が示した反応を、至高天研究の第一人者であるケンブリッジ大学教授エドモンド・ヒルは「第四の反応」と名付けた。副題が振るっている。「咆哮パラドックス」。


 崩壊もせず、服従もせず、逃げもしない。地球人は至高天と遭遇したとき、吠えたのである。


 ただし、至高天に向かって吠えたのではない。ここが重要だ。


 地球人は至高天の「ために」吠えた。


 その原初の事例を地球史では「大粛清」と呼ぶ。


 今からおよそ二千年前のことだ。当時の地球圏と至高天の関係は今よりもいくぶん淡白だった。至高天の民は確かに地球人を「飼って」はいたが、それは水槽の熱帯魚に餌をやる程度の関係であって、一匹一匹の名前を覚えているような親密さはなかった。プルーウィアは時折地球を訪れてはいたものの、その感想は「面白い星ですわね」程度であって、「可愛い」とまでは言っていなかった。まだ。


 ある日プルーウィアが当時の地球連邦の指導者たちと会談している際に、ふとこんなことを言った。


 「そういえば最近、わたくしの星の近くに知らない子たちのお船がたくさん来ていますの。光っていて綺麗ですわ。何かしら、あれ」


 光っていて綺麗。


 当時の地球連邦の支配者たちが背筋を凍らせるのに三秒とかからなかった。「光っている船」とは艦載兵器のチャージ光である可能性が高い。「知らない子たち」とは至高天と接触したことのない未知の文明種族。つまり至高天のおわす星系に、至高天の存在を知らない未知文明が艦隊を差し向けている。宇宙は広い。至高天の民が自ら知名度を広げようとすることなどありはしないので、知らない者は永遠に知らない。知らないまま乗り込んでくる「蛮族」もいるというわけだ。


 プルーウィアにとってそれは「そういえば」程度の出来事だった。庭に蟻が入ってきたくらいの感覚。放っておいてもいいし、払ってもいい。どちらでもいい。


 だが地球人はそうは思わなかった。


 当時の地球圏指導者たちの内心を推測すべき史料は少ないが、おそらくはこういう論理だったのだろう。至高天は地球に技術を与え、病を癒し、争いを調停してくれている。もしこの「蛮族」を放置した結果、至高天の民がそちらに興味を持ってしまったら。地球に対する技術供与が減ったら。あるいは見捨てられたら。


 つまり、純粋な忠誠というよりはかなり打算が入っていたのだが、まあそれはそれだ。


 地球圏は赫怒して艦隊を組んだ。当時の軍事史料によれば動員できた全艦隊を投入したらしい。蛮族の文明は地球圏と同等か、あるいはわずかに上回る程度の技術水準であった。戦争は一進一退を極め、地球側は大きな犠牲を払った。


 至高天の民はそれを見ていた。


 庭に入ってきた蟻のために、飼い犬が血まみれになって戦っている。蟻を払うのに犬の力など必要ないのに、犬はそれを知らない。あるいは知っていても戦わずにはいられない。待たれてもいないのに勝手に駆けつけてくる。そしてその血まみれの犬が庭の蟻を払い終えた後、尻尾を振って「やりました」という顔をする。


 これが「大粛清」と呼ばれる事件の全容である。


 以来、至高天は地球を少しだけ贔屓するようになった。他の星系の知的種族には与えない技術を贈り、王族が自ら足を運ぶ頻度が増え、「面白い星」から「可愛い星」へと地球の評価が変わった。犬が飼い主に腑を見せたあの日から、飼い主は犬の名前を覚えた。そういうことだ。


 そして五年前、その「可愛い」が最も強烈に発現した。


 至高天の第一王女プルーウィアが異世界に誘拐されたとき、地球人は五千二百万隻の艦隊を組んで救出に向かった。四万光年彼方に。四千三百人の魔術師の命を対価に払い、王都を灰燼に帰し、王女を「救出」した。王女が自力で帰還できることを知っていながら。


 大粛清から二千年。犬はまだ吠えていた。しかも以前よりも大きな声で。


 プルーウィアが地球を「可愛い」と評する理由はここにある。


 飼い主を守ろうとする犬。その忠誠の愚直さがたまらなく愛しい。守らなくてもいいのに守ろうとする。助けなくてもいいのに助けに来る。しかもその動機の半分が打算だというのが、また形容しがたいほど犬っぽい。何よりそれが「当然のこと」という顔でやるのだから、もう最高に可愛いとしか言いようがない。


 セレスティアが「面白い」と評する理由も同根である。犬が芸をしているわけでもないのに、犬自身が勝手に面白い行動をとる。しかも本人たちは至って真面目にやっている。これほど面白いことはない。


 だが。


 ニヴィスは違った。


 ◆


 ニヴィス・ルーキス・デー・カエロー・カデンスが地球人に無関心である理由は、端的に言えば姉たちとの個体差である。

 

 例えばセレスティアはプルーウィアよりも若い。若い、で済ませる時間差ではないのだが、至高天の基準ではそうなる。彼女にとって知的種族への興味はまだ「玩具段階」にあった。面白がってはいるが愛着にまでは成熟していない。


 そしてニヴィスはさらに若かったし、経験も少なかった。


 リンゴを齧ったことのない者にリンゴの味は分からない。犬を飼ったことのない者に犬の可愛さは分からない。ニヴィスは至高天のどの知的種族にもまだ「触れた」ことがなかった。


 触れる──この言葉は比喩ではない。至高天の民にとって下等生命体との関わりは文字通り「触れる」ことから始まる。存在の位相を下げ、知覚の解像度を彼らに合わせ、意識の指先で彼らの精神の表面をそっと撫でる。その一連の行為を至高天の言語体系では「触れる」と表現する。


 プルーウィアが最初の知的種族に「触れた」のがいつのことかは定かではない。だがその時の感触を彼女は今でも覚えている──と、少なくとも姉弟の会話の中でそう語ったことがあるらしい。


 ニヴィスはまだ、誰にも「触れた」ことがなかった。


 だから無関心なのだ。犬を撫でたことのない者に毛並みの心地よさは分からない。ニヴィスはまだ何も撫でていなかった。


 ◆


 京都の秋風は冷たい。


 ニヴィスの頬に触れたみくの手は、その冷たさとは比較にならない別種の冷たさを感じ取ったはずだ。至高天の民が纏う地球人の姿は精巧な模倣であるが完璧ではない。体温という概念を再現することは可能だが、ニヴィスはその必要性を感じていなかった。体温を模倣するのは地球人に「安心感」を与えるためであり、地球人に安心感を与えることに興味のないニヴィスは体温の模倣を省略していた。


 結果として少年の姿をしたニヴィスの肌は冷たかった。


 つめたいね。さむいの?──そんなみくの問いかけは、至高天の歴史において極めて珍しい事例であった。


 至高天の民に触れた──まあ精神的にせよ、肉体的にせよ、触れた生命体はいないわけではない。しかしそのほとんどは触れた瞬間に精神の上書きが発生するか、存在圧に耐えかねて意識を失うか、そもそも触れる前に本能的な恐怖で身体が動かなくなるかのいずれかであった。セレスティアに「触れ」られたデ・モードが人格を上書きされたのは記憶に新しい。


 だがみくは何も変わらなかった。


 これは二つの要因の偶然の重なりによるものだった。


 第一に、みくは至高天の存在を知らない。知らないものを恐れることはできない。至高天の存在圧が精神を破壊するメカニズムは「認識の過負荷」であり、相手が何であるかを知覚した瞬間に発動する。みくにとってニヴィスは「おねえちゃんの弟さん」であり、つまり「ちょっと変わった男の子」でしかなかった。認識が発動しなければ存在圧も発動しない。無知は時として最強の防御壁となる。


 第二に、ニヴィスが意識的にも無意識的にも存在圧を放射していなかった。プルーウィアやセレスティアは地球人を認識しているがゆえに、無意識のうちにもごく微量の存在圧が漏出している。だがニヴィスはそもそも地球人を認識していないため、漏出すべき存在圧の方向が定まっていない。存在しないものに向かって圧力は発生しない。


 この二重の「不在」が、みくとニヴィスの間に奇妙な安全地帯を形成していた。知らない者と知らない者。互いの存在を正しく認識していないが故にこそ成立する、宇宙で最も危うく最も安全な距離。


 ◆


 ──つめたいね。さむいの?


 この問いについて、ニヴィスの内側で何が起きたのかを正確に記述することは地球人の言語では不可能だが、近似的な表現を試みるならば以下のようになるだろう。


 ニヴィスの精神は生まれて初めてノイズを検出した。しかし彼はそれを不快とは感じなかった。


 だがここからが本質だ。至高天の長い歴史の中で下等生命が至高天の民に直接「触れた」事例は皆無ではない。だがそのすべてにおいて至高天の民は特段の反応を示していない。当然のことだ。飼い犬が足元にじゃれついても飼い主の意識は動かない。


 ゆえにニヴィスも何も感じないはずだった。


 だがプルーウィアが口元を覆って微かに目を細めたのは、弟の知覚系に走ったその微細なノイズを感知したからであり、そのノイズの正体を姉はよく知っていたからであった。


 遥かな昔。自分にも同じものが走ったことを、彼女は覚えていた。



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