第一王子③
◆
庭園を巡りながら、プルーウィアは鷹市に話しかけた。
「ところで総理大臣閣下。何だかお忙しそうですわね」
鷹市の呼吸が一瞬だけ止まった。
「いえ、殿下のおいでを心よりお待ちしておりましたわ」
「あらあら」
プルーウィアは楽しげに笑った。
「でも何かおありになったのでしょう? 前回お会いしたときよりも、少しお疲れのようですわ」
五年前のことを覚えている。至高天の民にとって五年は瞬きの間のはずだが、人間の顔色の変化まで記憶しているのか。あるいは、至高天の民の知覚はそもそも人間のそれとは次元が異なるのか。
鷹市は数秒だけ考え、率直に答えることにした。
嘘をつくか、本当のことを話すか。至高天の民に嘘が通用するのかどうか、それすら定かではない。下手に嘘をついて後で判明したら──それこそ面倒なことになる。
「……実は殿下、中東地域で紛争が発生しておりまして」
「紛争、ですか」
「はい。イスラエルとイラン自治連邦の間で軍事衝突が起きております。日本は直接の当事国ではございませんが、ホルムズ海峡の封鎖により経済への影響が──」
「まあ」
プルーウィアは目を丸くした。
だがその驚きは「戦争が起きている」ことへの驚きではなかった。子供が蟻の行列を見て「あら、今日はたくさん歩いているわね」と言うような、そういう驚きであった。
「喧嘩をしているのですか?」
「……はい。喧嘩です」
その一言を口にするとき、鷹市は唇の端が僅かに引き攣るのを感じた。数百万の人間が関与し、数万の死者を出し、地球圏経済を揺るがしている大規模軍事紛争が──「喧嘩」。
「あらあら」
プルーウィアは困ったように首を傾げた。
「喧嘩はいけませんわ。仲良くなさってくださいな」
「……善処いたします」
「喧嘩もほどほどにしなくてはいけませんわよ? 怪我をしてしまいますもの」
その言葉は──至高天の第一王女の口から発せられた以上──単なる助言ではなかった。
少なくとも、鷹市はそう受け取った。
そして鷹市がシュリンプに報告し、シュリンプがアブラハムに伝え、アブラハムがモフゼニにそれを伝えた頃には──至高天の王女の「喧嘩もほどほどに」は、もはや動かしがたい停戦命令と化していた。
三十分後。
イスラエル国首相ベンジャミン・アブラハムは、全軍に対し即時停戦命令を発した。
理由は「至高天案件」。
イラン自治連邦側も全面停戦に応じた。革命防衛隊は展開中の全部隊に帰投命令を出し、ホルムズ海峡の封鎖を解除した。
開戦以来十日間、国連も、アメリカも、中国も、ロシアも、フランスも、誰一人として成し遂げられなかった全面停戦が──至高天の王女の「喧嘩もほどほどに」という一言で実現した。
プルーウィアにその自覚はなかっただろう。彼女はただ世間話として感想を述べただけだ。だが至高天の民の「世間話」は人類にとっての神託に等しい。
かくして中東は静まり返った。
人類の歴史において最も短い外交交渉であった。
◆
京都の秋は短い。
だがその短さゆえに、秋の京都は美しいのだと言う人間がいる。有限であるからこそ愛おしい。終わりがあるからこそ美しい。それは至高天の民には理解できない感覚かもしれなかった。永遠に近い時を生きる者にとって「有限の美」とは何なのか──それを知るためにはまず「終わり」を知らなければならない。
プルーウィアとニヴィスは嵐山から嵯峨野を抜け、竹林の小径を歩いていた。
プルーウィアは一本一本の竹を見上げて感嘆の声を上げ、時には竹の幹に手を触れて「すごいですわ、こんなに真っ直ぐに伸びるなんて」と呟いている。護衛官は「それは竹の性質でして」と説明しようとしたが、言いかけてやめた。至高天の王女に植物学を講義する度胸は誰にもなかった。
ニヴィスは姉の後ろを歩いている。
歩いている、というよりも姉について移動しているだけだ。竹林を見ることもなく、足元の石畳を見ることもなく、ただ空虚な視線を漂わせている。この星のすべてが彼にとっては白紙と同じなのだろう。文字の書かれていない白紙を眺め続ける苦痛──だがニヴィスにはそれすら苦痛ではなかった。苦痛を感じるには対象への認識が必要であり、認識が存在しなければ苦痛も存在しない。
竹林を抜け、嵯峨の古い街並みに出た。
秋の観光シーズンということもあり、通りには人間が溢れていた。着物姿の観光客、修学旅行の学生、外国人の団体客。至高天一行の周囲には見えない結界──人間が無意識に近づかなくなる程度の微弱な空間歪曲──が張られており、誰も二人に近づくことはなかったが、そのざわめきまでは遮断されていなかった。
そのとき、ニヴィスの足が止まった。
唐突に。何の前触れもなく。それまで虚空を見つめていた灰色の瞳が、明確に一点を捉えていた。
通りの向こう側。
土産物屋の前で、一人の少女が泣いていた。
十歳くらいだろうか。秋の京都の空気にそぐわないメゾンのワンピースを着た少女が、座り込んで声を上げて泣いている。通行人たちは足を止めてちらちらと振り返るものの、声をかけるまでの踏ん切りがつかないのか、あるいは忙しいのか、誰も立ち止まらずに歩き去っていく。
ニヴィスは──自分でもなぜそうしたのか分からなかっただろう──姉の袖をそっと引いた。
プルーウィアが足を止める。振り返ると、弟が通りの向こうを指差している。
「姉上」
「何かしら」
「……あれは」
ニヴィスが何を言いたいのか、あるいは何を感じたのか。それは彼自身にも分かっていなかったかもしれない。至高天の民は人間の感情をどこまで理解しているのだろう。泣くという行為に──涙を流し声を上げるという生理現象に──ニヴィスはこれまでの存在の中で一度も遭遇したことがなかったのかもしれなかった。
プルーウィアは弟の指の先を追った。
そして、微笑んだ。
「あら」
その声には懐かしさが混じっていた。
「あの子ですわ」
プルーウィアは少女のもとへ歩き始めた。ニヴィスはその場に立ったまま、姉の背中を見つめている。
少女は──みくは──泣き腫らした目を上げた。
目の前に、息を呑むほど美しい銀髪の女性が立っている。
その顔に、かすかな記憶が甦る。
渡月橋。手を繋いでくれたお姉ちゃん。その記憶は五年の歳月でほとんど薄れかけていたが、完全には消えていなかった。子供の記憶というのはそういうものだ。大切なことは忘れない。忘れたつもりでいても、目の前に現れた瞬間に甦ってくる。
「……おねえ……ちゃん……?」
みくが呟いた。
プルーウィアの微笑みが深くなった。
「あらあら、覚えていてくれたのですね」
プルーウィアは五年前と同じように、少女の前にしゃがみ込んだ。
「みくちゃん、大きくなりましたわね」
みくは泣きながら頷いた。涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃだったが、プルーウィアは気にした様子もなく、ハンカチを取り出して──どこから取り出したのかは誰にも分からなかったが──みくの顔を拭いてやった。
「今日はどうしましたの? また迷子かしら?」
「……うん」
みくは鼻をすすりながら頷いた。
「おかあさんとお買い物に来たの。でもすごい人で、はぐれちゃって……おかあさん、どこにもいないの」
みくはまた泣き出した。
五年前と同じだった。場所も、理由も、泣き方も。人間は成長するが、迷子になる才能だけは成長しないらしい。
プルーウィアは穏やかにみくの頭を撫でた。
「あらあら、五年前もそうでしたわね。みくちゃんは迷子の名人さんですこと」
みくは涙を拭いながら、ふとプルーウィアの後方に目をやった。
銀髪の少年がそこに立っている。
みくは泣くのをやめた。
子供というのは不思議な生き物で、泣いている最中でも興味を引くものがあると一瞬で涙を止める。蛇口が壊れたように泣いていたのが嘘のように、みくはプルーウィアの腕からするりと抜け出し、とことことニヴィスの方へ歩いていった。
鷹市は反射的に身構えた。
至高天の王子に民間人の子供が接近している。常識的に考えればSPが止めるべき場面だ。だが鷹市は護衛官たちに制止の目配せを送った。動くな、と。
理由は簡単だった。至高天の民にSPなど必要ない。惑星を握り潰す存在に人間の護衛がつくということの滑稽さは、鷹市も五年間で嫌というほど理解していた。護衛官たちの実質的な存在意義は──身も蓋もない言い方をすれば──雑談相手である。特にプルーウィアは賑やかなことを好んだので、護衛官は「お話し相手」兼「道案内」兼「人間の風習について質問されたときに答える係」と化していた。つまり観光ガイドだ。国費で雇われた、宇宙最強の観光客のためのガイド。
そして何より──至高天の民が受け入れているなら、その判断を最大限尊重すべきだ。人間側が勝手に動いて王子の機嫌を損ねる方がよほど危険である。
プルーウィアは止めなかった。むしろ楽しそうに弟とみくを見守っている。
みくはニヴィスの前に立った。
ニヴィスは見下ろした。
みくの頭は彼の胸のあたりまでしか届かない。十歳の少女と、見た目十二、三歳の至高天の王子。身長差はそれほどでもないが、存在の格差は天文学的だった。
みくはニヴィスを見上げた。銀色の髪、灰色の瞳。綺麗だと思った。お姉ちゃんに似ている、とも思った。怖いとは思わなかった。怖いと思うためには、相手が怖い存在だと知っていなければならない。みくは至高天のことを何も知らない。ただの男の子だ。髪の色がちょっと変わった、無口な男の子。
「ねえ」
みくが言った。
「おにいちゃん、おねえちゃんの弟さん?」
ニヴィスは答えなかった。何を聞かれているのかを処理しているのか、あるいは処理する必要すら感じていないのか。
みくは返事を待たなかった。子供は返事を待たない。子供の好奇心は無敵である。
ぺた、とみくの小さな手がニヴィスの頬に触れた。
鷹市の心臓が止まりかけた。
護衛官たちは石のように固まっている。
プルーウィアだけが、にこにこと笑っていた。
ぺたぺた──みくはニヴィスの頬を両手で挟んだ。まるで珍しい動物に触れるように。
「つめたい」
みくが言った。
「おにいちゃん、つめたいね。さむいの?」
ニヴィスは──。
何と答えたのか。あるいは答えなかったのか。
鷹市の位置からは少年の表情を読み取ることができなかった。だがプルーウィアが口元を手で覆って、微かに目を細めたことだけは見えた。
それが驚きなのか、喜びなのか、あるいはまったく別の感情なのかは──人間には計り知れない。




