第一王子②
◆
三十分後、各国首脳が緊急ホログラム会議に集結した。
シュリンプ、鷹市、フルチン、龍金平、マックロー、カンタレラ。そしてダッジ。いつもの面々だが、今日はもう一人──ベンジャミン・アブラハムの姿があった。本来であれば彼は戦場にいるはずだったが、至高天案件は戦争に優先する。当然のことだ。至高天の前では、人間同士の戦争など路上の犬の喧嘩に等しい。
「弟、だと」
フルチンが低く呟いた。
「情報は」
「ない」
シュリンプが率直に答えた。
「名前も、容姿も、能力も、性格も、何一つ分からない。分かっているのは、プルーウィア殿下が『弟に紅葉を見せたい』と仰ったことだけだ。それだけだ」
「それは率直に言って──恐ろしいな」
「率直に言わなくても恐ろしい」
鷹市が口を開いた。
「日本政府としては、前回の京都訪問の際の警備プロトコルを基本にします。ただし──」
彼女は言葉を切った。
「──未知の至高天の民に対する対応マニュアルは存在しません。プルーウィア殿下の場合は五年分の外交実績がありますが、この弟君については完全にゼロです」
「ゼロで対応するしかないさ」
シュリンプは肩をすくめた。義骸化された肩関節がかすかに軋んだ。
「今まで通りだ。笑顔で、腰を低く、犬のように尻尾を振れ。相手が機嫌を損ねないことを絶対に最優先する。それだけだ」
犬のように。
その言葉に、各国首脳は苦笑した。五年前なら屈辱で顔を歪めていただろうが、もう慣れた。犬であることを受け入れるのは案外難しくなかった。実際のところ、人間は適応力の高い生き物なのだ。どんな屈辱にも、三年あれば慣れる。五年あれば日常になる。
「ところで」
アブラハムが割って入った。すべてにおいて割り込むことに長けた男であった。
「作戦の一時停止について相談があるのだが」
「ああ、そうだな」
シュリンプは頷いた。
「至高天の民が地球にいる間は、目立つことをするな。派手な軍事行動は控えろ。これは全員に対する指示だ。理由は簡単──下手なことをして至高天の興味を引いたら面倒なことになる」
「面倒、ですか」
アブラハムが渋い顔をした。
「我々の作戦は五日以内に次の段階に進む予定だが」
「延期しろ」
シュリンプの声は断定的だった。
「アブラハム、至高天の殿下が日本にいる間にホルムズ海峡でドンパチやってみろ。殿下が『あら、何の音かしら?』と首を傾げただけで、お前の戦車も空母も兵士も全部まとめて塵になるかもしれないぞ。殿下にそんなつもりがなくてもだ。あの方々がくしゃみをするだけで大陸が一つ消し飛ぶ可能性があるんだ」
アブラハムは黙った。彼は頑固で強引で自己中心的な男であったが、馬鹿ではなかった。至高天の力を前にしては、いかなる軍事的合理性も意味を成さないということくらいは理解している。
「……分かった。イラン側にも伝えよう」
「伝えろ。そして全面休戦だ。至高天の殿下が地球にいらっしゃる間は」
「休戦の理由は何と──」
「理由などいらん。『至高天案件』とだけ言え。それで全員黙る」
事実、その通りであった。「至高天案件」は地球外交において最強の停戦命令であった。この文言の前には領土紛争も宗教対立も経済制裁もすべてが霧散する。全銀河系最大最高最強至高の拘束力を持つ文言。人類が五千年かけても達成できなかった世界平和を、至高天は存在するだけで実現してしまうのだ。
皮肉の極みというべきだろう。
◆
至高天の船が京都上空に出現したのは、予告通りきっかり一時間後のことであった。
船と呼ぶべきかどうかは議論の余地がある。全長四十キロメートルの半透明な構造物が、京都盆地の上空に静かに浮かんでいる。だが京都市民の誰一人としてそれに気づかなかった。至高天の技術はそういうものであった。
プルーウィアが降り立ったのは嵐山の渡月橋のたもとであった。
五年前と同じ場所。
彼女自身がそれを意識して選んだのかはわからない。もしかしたらたまたまかもしれないし、あるいは五年前の記憶を温めていたのかもしれない。至高天の民にとって五年という時間がどれほどの重みを持つのかは人間には推し量りかねるが、少なくともプルーウィアの表情は嬉しそうであった。
「まあ、やっぱり綺麗ですわね」
プルーウィアは橋の上から嵐山の紅葉を眺めて感嘆の声を上げた。赤と黄と橙が折り重なるように山肌を覆い、桂川の水面にその色彩がゆらゆらと映り込んでいる。
彼女の傍らには護衛官二名と至高天からの随員が一名──そして、もう一人。
銀髪の少年が立っていた。
プルーウィアと同じ銀の髪だが、質感が異なる。プルーウィアの髪が絹糸のように柔らかく光を含んでいるのに対し、この少年の髪は霜を纏ったように冷たく硬質な輝きを放っていた。瞳は薄い灰色。表情は──無い。
ニヴィス・ルーキス・デー・カエロー・カデンス。
至高天の第一王子。
彼はプルーウィアの隣に立っていたが、そこにいるという事実以上の存在感を発していなかった。嵐山の紅葉も、桂川の水面も、橋を行き交う人間たちも、彼の視界に入ってはいるのだろうが、認識されているかどうかは怪しかった。
人間が道端の微生物に興味を持たないのと同じように、ニヴィスはこの星のすべてに無関心であった。
「ニヴィス、見てごらんなさい。紅葉ですわよ」
プルーウィアが弟に声をかけた。
「……」
ニヴィスは姉の指し示す方向に視線を向けた。三秒ほど山を見つめ、それから視線を戻した。
「うん」
それだけだった。
プルーウィアは困ったように微笑んだ。だがその笑みには何ら失望の気配はなかった。弟の無関心は想定内なのだろう。あるいは「無関心」ですらない──ペットショップに犬を連れてきたのに石の匂いしか嗅がないような、そういう類の「興味の不在」であった。
「あらあら、もう。せっかく連れてきたのに」
プルーウィアはニヴィスの肩に手を添えた。
「この星には綺麗なものがたくさんあるのですよ? ここに住んでいる子たちが、一生懸命作り上げてきたものが」
ニヴィスは姉を見上げた。
「……姉上は、それが面白いの」
「ええ、とても」
「ふうん」
興味のない返事であった。だがプルーウィアはそれを気にしなかった。彼女が気にしないのだから護衛官たちもそれ以上何も言えず、一行は渡月橋を渡り始めた。
◆
鷹市香苗がプルーウィアと合流したのは、嵐山の天龍寺であった。
秋の天龍寺は庭園の紅葉が見事であり、プルーウィアの「前回は時間がなくて見られなかった」という一言により、急遽コースに組み込まれたのである。日本政府は三十分で天龍寺の完全貸切と周辺道路の封鎖を完了させた。鷹市は秘書官の桐生に「こういうときの練度は世界一よ」と自虐的に呟いたが、桐生は笑えなかった。首相のスケジュールには本来、党首討論のリハーサルが入っていたのだ。それが「至高天京都案内・二回目」に差し替えられた。政治家の経歴書にも載せられない実績がまた一つ増えた。
「総理大臣閣下、ようこそおいでくださいましたわ」
プルーウィアは変わらぬ微笑みで鷹市を迎えた。
「殿下、お目にかかれて光栄です。前回のご訪問から五年ですわね」
鷹市の声は落ち着いていた。シュリンプのような義骸は持っていないが、鷹市には鷹市なりのストレス耐性がある。それは「至高天の民を前にしても、一国の首相として毅然と振る舞う」という政治家の矜持──あるいは習性であった。
「こちらが弟のニヴィスですわ」
プルーウィアが隣の少年を示した。
鷹市はニヴィスを見た。
銀髪。灰色の瞳。無表情。
見た目は十二、三歳の少年──だが至高天の民に人間の年齢概念を適用することに意味がないことは鷹市も重々承知している。
「初めまして、ニヴィス殿下。日本国内閣総理大臣の鷹市香苗です。ようこそ日本へ」
鷹市は丁寧に頭を下げた。
ニヴィスは鷹市の方向に視線を向けた。だがその目には鷹市という個体を「認識している」感覚がなかった。通り過ぎる風景の一部としてそこに存在するだけの、ただの背景。
「……ああ」
ニヴィスは短く答えた。
一言もなかった。「よろしく」すら言わない。敬意もなければ軽蔑もない。ただ空気のような、何の温度もない返答。
鷹市は──表情を変えなかった。政治家とはそういう生き物だ。有権者に罵倒されようが支持率が暴落しようが、顔色を変えずに次の手を考える。至高天の王子に空気扱いされたくらいで動揺するような女は首相にはなれない。
だが内心では新しい認識が生まれていた。
プルーウィアは人類を愛玩している。セレスティアは面白がっている。どちらも「興味を持たれている」点では共通していた。だがニヴィスは違う。彼にとって人間などは──。
愛の反対は無関心だったか、などと鷹市は内心で思いかけ、鋼の精神力で一瞬でそれを握りつぶした。
「殿下、こちらは曹源池庭園でございます」
鷹市は即座に案内役に戻った。感傷に浸っている暇はない。
「まあ、素晴らしいですわ」
プルーウィアは庭園を見渡して感嘆した。曹源池の水面に映る借景の嵐山と、池を囲む紅葉の錦。
「ニヴィス、綺麗よ」
「……うん」
変わらぬ無関心。プルーウィアはにこにこと笑っている。弟の反応が薄いことすら楽しんでいるのかもしれなかった。




