第一王子
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隣人と仲良くすることは難しい。
これは人類史を貫く不変の真理であり、宇宙航行技術が確立され銀河の果てまで足を伸ばせるようになった西暦6915年においても、まったくもって変わっていなかった。人類は光速の壁を超え、恒星間航路を切り拓き、数千の星系に文明の種を蒔いた。だが隣の家との境界線については五千年前と同じように殴り合う。なんなら殴り方だけが洗練された。進歩とは何かについて考えさせられる話である。
さて、隣人との殴り合いに関して最も長い伝統を持つ地域といえば中東であろう。
メソポタミアの粘土板にはすでに隣国への恨み言が刻まれていたし、聖書の中では兄弟が殴り合った挙句に片方が死んでいる。以来およそ五千年間、この地域の住人たちは実に律儀に、先祖代々受け継いだ喧嘩の作法を忠実に守り続けてきた。伝統芸能とはかくあるべきだろう。観光資源としての側面を除けば、あまり喜ばしいことではないが。
西暦6915年の中東──具体的にはイスラエルとイラン自治連邦の間で勃発した武力紛争について、その経緯を簡潔に述べる。
きっかけは水であった。
正確に言えば、ゴラン高原地下水脈の帰属問題である。中東という土地では古来より水は血よりも貴重であり、この五千年間で変わったのは水を巡る殺し合いに使われる道具だけだった。石が弓に、弓が銃に、銃がPSI兵器に。道具は変わったが動機は変わらない。喉が渇いているのだ、彼らは。ずっと。
ゴラン高原の地下水脈は両国の国境を跨いでおり、どちらに帰属するかは三千年来の係争事項であった。外交交渉は幾度となく決裂し、国際司法裁判所の裁定は双方に無視され、国連の調停案は発表された翌日にはゴミ箱行きとなった。平和的解決の手段がすべて失敗するとき、人間に残されるのは暴力的解決の手段だけである。悲しいことだが、蛇口が壊れたら殴って直す──中東はそういう場所なのだ。
直接の引き金はイラン自治連邦がゴラン高原地下に整備した大規模PSI増幅施設の存在が発覚したことであった。地下水脈のエネルギーを利用したPSI兵器の開発──これをイスラエル国首相ベンジャミン・アブラハムは「我が国の喉元に突きつけられた刃」と形容した。正直な話、アブラハム首相は修辞の才能に欠けていたが、この比喩だけは国民の心に刺さった。水争いの戦争で「喉元」という比喩を使ったのは偶然ではなかろう。
かくして「オペレーション・ラビッド・フューリー」が発動された。
狂犬の激怒。軍事作戦の名前としてはあまりにもそのままだが、アブラハム首相は修辞と同様にネーミングセンスにも恵まれなかった。参謀本部はもっと格好いい名前を提案したらしいが、首相が「分かりにくい」として却下したという。分かりやすさだけは一級品の男であった。
イスラエル地上軍と空軍がゴラン高原を越えてイラン側施設を急襲。PSI増幅施設を破壊することには成功したものの、イランの革命防衛隊が激烈に反応した。
イラン自治連邦最高評議長アッバース・モフゼニは革命防衛隊に即座の報復を命じた。イラン海軍はホルムズ海峡を封鎖。中東全域のエネルギー輸送ルートを遮断にかかった。数千年前から繰り返されてきた「困ったら海峡を閉める」という中東の伝統芸が、ここでも遺憾なく発揮されたわけである。
結果として湾岸諸国が次々と戦火に巻き込まれた。バーレーン、カタール、クウェート、アラブ首長国連邦、サウジアラビア──名前を挙げていけばきりがないが、要するに中東全域が火の海と化した。いつものことだ。「中東が平和である」というニュースの方がよほどニュースバリューが高いだろう。
この事態を受けて、アメリカ合州国大統領ドナルド・シュリンプは当然のように介入を決定した。同盟国イスラエルへの支援と、ホルムズ海峡の航行の自由の確保。大義名分はいくらでもあった。大義名分というものは探せばいくらでも見つかる。砂漠で砂を探すのと同程度には容易だ。
かくして「オペレーション・トランキル・サンダー」が発動される。
静穏なる雷鳴。矛盾した名前だが、軍事作戦の名称が論理的である必要はない。むしろ矛盾しているくらいの方が議会を通りやすい──と考えた参謀が命名したのだろう。たぶん。ラビッド・フューリーの分かりやすさとどちらがマシかは意見が分かれるところである。
アメリカ海軍の空母打撃群三個がペルシャ湾に展開し、英国との共同作戦態勢が構築された。なお、フランスは「深い懸念を表明」し、中国は「即時停戦を要求」し、ロシアは「すべての当事者に自制を促す」声明を出した。つまり全員が何もしなかったのである。外交とはそんなものだ。懸念を表明する暇があったら水道管の一本でも送ってやれという気もするが、そうすると「内政干渉」と怒られるので面倒くさい。国際社会とはそういうものなのだ。
開戦から十日。
死者は両陣営合わせて推計八万を超え、ホルムズ海峡は完全に封鎖。地球上のエネルギー輸送網は麻痺し、地球圏経済は混乱の渦中にあった。日本国のガソリン価格は一リットルあたり四百七十MCRにまで高騰しており、鷹市香苗首相は記者会見で「大変遺憾である」と述べた。遺憾であるとは、つまり「困っているが何もできない」の外交的な言い換えに過ぎない。日本という国はこの五千年間、遺憾の表明だけは世界一上手くなった。
要するに、世界はいつも通りの世界だった。喧嘩して、死んで、遺憾を表明して、また喧嘩する。人類の日常風景。六千九百十五年分の日常。
至高天の民がこの光景を見たら何と言うだろう。
「あらあら」だろうか。「面白いね」だろうか。
──あるいは、何も言わないかもしれない。犬が庭で穴を掘っていても飼い主は特に何も言わないものだ。
そんなある日のことである。
◆
至高天からの通信が届いたのは、地球標準時の午前九時十七分だった。
シュリンプ大統領はその時、ホワイトハウスの執務室で中東作戦の進捗報告を受けている最中であった。目の前のホログラムにはペルシャ湾の海域図と地上部隊の展開状況が表示され、レイノルズ元帥がイラン国境付近の地上戦力の再配置について説明を行っていた。
端末が鳴るやいなや、執務室にいた全員の背筋が凍った。至高天専用回線の着信音は通常のそれとは異なる。もっと正確に言えば、この音を聞いて平静でいられる人間は地球上に存在しない。五年前──プルーウィア王女の「誘拐事件」以降、この着信音は一部の地球人類にとってのトラウマとなっていた。聞いた瞬間に全身の筋肉が硬直し、胃液の分泌が促進され、思考が停止する。
シュリンプは義骸化された手で端末を持ち上げた。
画面に表示されたメッセージは以下の通りであった。
『こんにちは、大統領閣下。突然のご連絡をお許しくださいね。今日はお天気がよろしいので、弟と一緒に地球にお邪魔したいのですけれど、ご迷惑ではございませんかしら? 日本の京都がよろしいですわ。紅葉の季節でしたわよね? わたくし、前にお邪魔したときの紅葉がとても綺麗だったので、もう一度見たいと思っておりましたの。弟にも見せてあげたくて。一時間後にお伺いしてもよろしいですか?』
シュリンプの義骸が精神負荷の警告を鳴らさなかったのは、五年間で耐性がついたからではない。この五年間で義骸のリカバリー機能が三度にわたってアップデートされ、至高天関連の刺激に対する閾値が大幅に引き上げられていたからである。アメリカの技術者たちは「至高天ストレス耐性強化プログラム」と呼んでいた。予算は国防費の一・二パーセントを費やしている。
しかしそれでもなお、彼の思考は数秒間停止した。
弟。
至高天に、弟がいたのか。
いや、考えてみれば至高天の民の家族構成など、地球人類が正確に把握しているはずがない。プルーウィアとセレスティアの姉妹関係すら、二人がそう名乗ったから知っているに過ぎないのだ。至高天の民がどのような家族形態を持つのか──そもそも「家族」という概念が適用可能なのかすら定かではない。
だが今はそんなことを考えている場合ではなかった。
一時間後。
一時間後に来ると言っている。
「モンロー!」
シュリンプが怒鳴った。
「至高天専用プロトコルを発動しろ! 全首脳に緊急連絡! 日本政府には最優先で通達! 京都の警備態勢を──いや待て、まず返信だ!」
彼は端末に向かって返信を打ち込んだ。
『大歓迎です。心よりお待ちしております。京都の紅葉は今がちょうど見頃です。弟君にもぜひお楽しみいただければ幸いです』
嘘ではないが、真実でもなかった。紅葉が見頃かどうかなど、シュリンプには分からない。そもそも彼は紅葉に興味がない。義骸化された視覚システムは色彩の微妙な変化を数値で解析することはできるが、それを「美しい」と感じるかどうかは別の問題である。
だがしかし、至高天の王女が弟を連れてくるという事態は、紅葉の色づき具合などとは比較にならない重大事であった。
弟とは何者なのか。
第一王女は惑星を握り潰す。第二王女は恒星間生物を「えいっ」で消し飛ばす。では弟は何をするのか。銀河を折り畳むのか。宇宙を巻き戻すのか。あるいはもっと想像もつかない何かをするのか。
シュリンプの義眼が赤く明滅した。感情昂揚の自動反応だが、今回は恐怖によるものであった。




