第二十四話 プロジェクトS 〜贖罪の共犯者たち〜 ★
ある日の王都の救護院。
白い壁に囲まれた静かな部屋に、二人の男が横たわっていた。
一人は王都一と言われていた服飾店の店主。もう一人は、信徒から王都で最も慕われた聖職者。
どちらも、かつては「立派な」体躯と肩書きを持っていた。だが、今は見る影もない。骨と皮だけの体。そしてうつろな目。
店主が路地裏で発見されたときは、誰もが「魔物に魂を売った報い」と噂した。
「……ここは」
店主が目を覚ました。
記憶がない。なぜ自分がここにいるのか。なぜこれほど痩せているのか。何ひとつ思い出せない。
ただ、胸の奥に「何か」が残っていた。
(守らなきゃ……)
何を? 誰を? わからない。けれど、この衝動だけは消えなかった。
そして、隣のベッドで司祭も同じ夢を見ていた。
* * *
数週間後。
店主は細々と回復を続けていた。
一方、司祭は驚くべき立場にあった。
彼の変化を「断食の奇跡」と人々は讃えた。
その誤解は瞬く間に既成事実となった。彼がうつろな目で宙を見つめれば「神託を受けた」と噂され、よろめけば「神の試練に耐えている」とあがめられた。
人々は、彼の激ヤセを、神への献身の証だと信じたのだ。
短い期間でかつて以上の尊敬を集め、大聖堂での地位は揺るぎないものになっていた。
しかし、司祭自身は違和感を感じていた。
なぜ自分が断食をしたのか、覚えていない。ただ、胸の奥に「何か」が残っている。
(……あの子を、守らねば)
誰もいない礼拝堂で、司祭はつぶやく。
ステンドグラスから差し込む光が、彼の痩せた顔を照らしていた。
記憶はない。けれど、魂が覚えている。
あの眼差し。あの温かさ。あの「赦し」のような感覚。
(私は罪を犯した。何をしたかは覚えていない。だが、誰かが私を赦してくれた)
これは妄想だ。
少女は司祭を赦した覚えなどない。ただ、精気を吸い尽くしただけだ。
しかし、空っぽになった魂は、それを「浄化」と解釈した。
「……教義を書き換えねば」
司祭の目が、狂信の光を宿す。
守らねばならない「誰か」がいる。誰なのかは分からない。だが、必ず見つけ出す。
それが、己の存在意義となった。
* * *
服飾店の地下。
ランタンの灯りだけが揺れる中、二つの影が向かい合っていた。
石造りの壁が冷たい空気を帯び、二人の吐く息が白く曇る。
司祭と店主。
やせ細った二人だが、その瞳には同じ炎が宿っていた。
「……来てくださいましたね、司祭様」
店主が口を開く。
彼の手は震えていたが、声は落ち着いていた。
「ふむ。お互い、覚えていませんな。なぜ自分がこうなったのか」
「ええ。……ただ、一つだけ確信があります」
「……何でしょう」
「我々は、罪を犯した」
店主の言葉に、司祭は沈黙した。
記憶はない。だが、魂が覚えている。自分たちは何かとんでもないことをしたのだ。
「ふむ……そうでしょうな。これほど空っぽになるまで消耗したのです。相応の報いを受けたのでしょう」
「ですが」
店主が顔を上げた。
枯れ木のような体。だが、その目には異様な光があった。
「だからこそ、贖わねばなりません」
「……ふむ」
「その『誰か』を守ることで。……たとえ覚えていなくとも、魂が求めているのです。これが正しい道だと」
二人は、静かに見つめ合った。
痩せこけた顔。骨ばった手。誰が見ても哀れな姿だ。
だが、その目は真っ直ぐに前を見据えていた。
「「守らねばならない」」
沈黙。
ランタンの炎がちりちりと音を立てる。
それから、司祭がテーブルに羊皮紙を広げた。
「ふむ。……私は、教義を書き換えました」
『聖女様の口づけ、および抱擁は、魂の穢れを吸い出し浄化する『救済』である』
店主がそれを読み、静かにうなずく。
「すばらしい。……では、それに見合う服が必要ですね」
「服?」
「尊き御身を守るための鎧です。ですが、ただの鎧ではいけません」
店主は震える手で、複数のデザイン画を取り出した。
無駄な装飾を排した、だが一目見てその聖性が感じられる純白のローブ。
それは、異様なほど緻密に描き込まれていた。
「防刃。耐火。精神防御。……そして」
店主の指が、スカートの側面を指す。
「……スリットです」
「ふむ?」
「動いたとき、一瞬だけ見えるのです。……『絶対領域』が」
司祭が眉をひそめる。
「ふむ……なぜそんなものが必要なのですか」
「わかりません」
店主は澄んだ目をうつむかせて首を振った。
「ですが、手が勝手に動いたのです。……これが正しい形だと、魂が叫ぶのです」
司祭は黙ってうなずいた。
そして店主は次のページをめくる。
「さらに袖の設計です」
「袖?」
「腕を上げたときだけ、一瞬だけ見えるのです。……脇が」
「……ふむ」
「なぜかわかりませんが、これもまた、魂が」
店主の手が震えていた。
彼の中で、職人としての矜持と、何か別の衝動がせめぎ合っている。
店主はぶんぶんと首を振った。
長い沈黙。
司祭は深く息を吐いた。
「……神の導きなのでしょう。ならば、きっとそれも必要なものです」
司祭も羊皮紙を取り出した。
「私からも提案があります。裏地に、聖典から抜粋した祈祷文を刺繍しましょう」
「読めるでしょうか?」
「きっと読めません。ですが、肌に触れる布であることに意味があるのです」
「……なるほど。それもまた神のお導きです」
二人は立ち上がり、握手を交わした。
枯れ枝のような手と手が、しっかりと結ばれる。
「我々はおそらく罪人です。ですが」
「ふむ。だからこそ、守る」
それは狂気に満ちた誓いだった。
しかし、二人の目は澄んでいた。確かにそこには歪んだ決意と、意思の輝きがあったのだ。
* * *
その頃、騎士団本部では奇妙な噂が広まっていた。
『英雄フレア・イグニス騎士団長が、尊き御方を護衛している』
誰が言い出したのかわからない。だが、その姿を目撃した者たちは、確信を持って語り継いだ。
純白のベールに包まれた小さな聖性。
触れた者は涙を流し、見つめられた者は己の罪を悟り、近づいた者は浄化される。そして、あの「冷血の騎士団長」が見せる慈しみの表情。
噂は伝わるたびに尾ひれがついた。
『あの方を見たか? 我々の罪を見透かしているようだった』
『いや、俺が聞いた話では、あの御方は空を見上げただけで雲が晴れたらしい』
『そんなものじゃない。あの御方が笑えば、枯れ木に花が咲くという話もある』
実際は、眩しくて目を細めていただけだった。
空を見上げたのは、鳥が気になっただけだった。
笑ったのは、フレアの髪についた花びらが可愛かっただけだった。
だが、誰もそんな真実など求めていない。
『あの御方様のためなら、命を捧げても惜しくはない』
『俺たちは……選ばれた。あのお方様の傍にはべることを許された、誉れ高きお役目に』
騎士団員たちの目は、日増しに輝きを増していた。
カレンは胃薬を追加注文した。
* * *
やがて、その噂は街にも広まり、あの二人の耳にも届いた。
その言葉を聞いた瞬間、二人の心臓が跳ねた。
記憶はない。顔も知らない。だが、魂が共鳴した。
――あの子だ!
こうして、「プロジェクト聖女」は動き出した。
それは、記憶を失った二人の男が、名も知らぬ少女のために全てを捧げると誓った、狂気と献身の物語の始まりだった。
もちろん彼らは覚えていない。自分たちが守ろうとしている「聖女」が、かつて自分たちを枯れ木にした張本人であることを。




