第二十話 聖域の攻防。その静けさは、あまりに厳かで
インクと古い紙の匂いが漂う執務室。
重厚な扉が開き、フレアが入ってきた瞬間、室内が静まり返った。
普段のフレアの席は、壁際の書架と大きな執務机に囲まれ、静かに書類が積まれているだけの空間だ。
だが今日は違った。
入室し、自分の椅子に白い「何か」を置くと同時に、フレアは机の周りに巨大なバリケードを築き始めたのだ。
普段からパーティション代わりの書架に囲まれていた自席を、さらに厳重な要塞へと強化していく。
鉄の書架で隙間を埋め、完全に視界をさえぎっていく。
書架の間には、かろうじて顔が見える程度の隙間だけが残された。
「「……」」
カレンと騎士たちは、開いた口が塞がらなかった。
自宅だけでは飽き足らず、職場まで要塞にしようとは、この上司はどこかおかしいのではないか。
カイルがのんきに様子を見ようと近づくと、バリケードの隙間から、フレアの威圧的な声が響いた。
「近寄るな! そこから先は『聖域』だ。書類は投げろ! 私が空中で受け取ってサインして投げ返す!」
「フレア……仕事になりません」
カレンが頭を抱える。
ふと、バリケードの隙間から視線を感じた。
目が合う。純白のベールの奥で、少女がにこりと微笑んだ。ふりふりと手を振っている。
「……」
カレンは胃を押さえた。
あの子だ。間違いない。
(だから復帰を……。そういうことですか)
* * *
安全地帯であるバリケードの内側に隠された少女はクッションの上に座って、絵を描いていた。
フレアに渡された羊皮紙に、二人の棒人間を描く。大きいのと、小さいの。手を繋いでいる。
(わたし、絵下手だよね……)
ふと、影が落ちた。
顔を上げると、フレアが絵を覗き込んでいた。
仕事の手を止めて、じっと羊皮紙を見つめている。
「何だこれは……! この芸術的な線の揺らぎ。この純真無垢な色彩感覚……やはり貴様は天才か!?」
押し殺した絶叫に驚いた。
「いや、天才という言葉すら生ぬるい! この手を繋ぐ二人の姿……まるで古代叙事詩の挿絵ではないか!」
(そんなわけないよ?)
「もしや、これは私か?」
「うん」
「ふ、ふむ……」
フレアさんの整った顔が、ほんの少しだけゆるんだ。
「後に複製して宝物庫に永久保存せねば! 今すぐ国宝指定を申請……いや、そんなことをしては衆目にさらされてしまう。貴様の才能を狙う輩が現れかねん」
(やめてね!?)
顔を赤くして、止めようと口をひらく。
でもすぐに、フレアがバリケードの外に目をやって顔を険しくしたことに気がついた。
外の気配をうかがうように首を動かしている。まるで、誰かが近づいてこないか見張っているようだった。
* * *
絵画もしばらくすると、飽きてしまった。
羽ペンを置いて、部屋の隅にある水場のほうを見る。バリケードのおかげで、そこも隠れて見えないはずだ。
(お茶くらい、わたしがいれてあげようかな……フレアさんピリピリしてるし)
(すぐそこのポットまでだから、大丈夫だよね……?)
ちらりとフレアを見る。
ちょうどそのとき、バリケードの隙間からカレンの手が伸びてきた。
「フレア、これだけは今日中に決裁を……」
ドサッ。分厚い書類の束が机に落ちる。
「……チッ」
フレアが舌打ちしながら、渋々と書類に目を落とした。
羽根ペンを取り、サラサラと署名を始める。
(今だ)
少女は息を殺し、抜き足差し足でバリケードの隙間からはい出た。
小さな体が書架の間をすり抜けていく。
その瞬間、執務室内の空気が変わった。
純白のベールに包まれた小さな影が、水場に向かって歩いている。
そーっと、静かに、床の木目を踏みしめながら。
騎士たちの動きが止まった。誰も声を出さない。
ただ無言のまま、一人、また一人と席を立ち、壁際へと下がっていく。
まるで海が割れるように、人垣が静かに左右へ分かれた。
(? なんでみんな動いてるんだろう……でも、こっち見てないし、大丈夫かな)
少女は首をかしげながらも、そのまま水場へ向かった。
備え付けの魔道ポットからカップに水を注ぐ。こぼさないように、そーっと。
その間も騎士たちは微動だにしなかった。呼吸すら止めている者もいる。
彼らの目には、後光を背負った聖なる幼子が、けがれなき御手で聖水を汲む姿が映っていた。
(よし、こぼさなかった)
少女はカップを両手で抱えて来た道を戻る。
再び、無音のまま人垣が割れ、閉じていく。
バリケードの隙間をくぐり、フレアの膝の上にちょこんと座り直す。
そして、まだ書類と格闘しているフレアの前に、カップをそっと差し出した。
「はい、おちゃ」
「……ああ、すまんな――」
フレアは何気なく受け取りかけて、固まった。
「…………」
ゆっくりと顔を下げる。
金色の瞳が、少女の顔と、カップと、バリケードの外を順番に見た。
「小さいの」
「うん」
「貴様、今……バリケードを、出たのか?」
「えへへ」
「えへへ、ではない!」
フレアが少女を抱き上げ、全身を検分し始める。
「指は五本あるか!? 十本……十本だ。よし! 傷はないな。毒を盛られてはおらんな!?」
「だいじょうぶ……」
少女はされるがままになりながら、小さく笑った。
バリケードの外では、騎士たちが放心状態のまま立ち尽くしていた。
「今、奇跡が往復したな……」
「ああ……俺たちは何を見たんだ……」
誰かがつぶやいた。
「あの御方が……みずから聖水を汲まれ……そして、団長に捧げられた……」
「我々は……その御業を目撃してしまったのだ……」
騎士の一人が、震える手で胸の前に指を組んだ。
「あれ、なんでみんな泣いてるんすか?」
カイルだけが首をかしげていた。
カレンは無言で、常備薬の胃薬を水で流し込んだ。
そこへ、伝令が息を切らして飛び込んでくる。
「ほ、報告! 隣国の外交官、ガストン卿が到着されました! 今すぐ団長に面会したいと……!」
「ああっ! もうそんな時間!?」
カレンが驚愕に顔をしかめる。
最悪のタイミングだ。
「ええぇ、待って、今この状況で面会なんて――」
「通せ」
バリケードの中から、低く冷たい声が響いた。
フレアが、少女を抱きしめながらゆっくりと立ち上がる。
書架の隙間から見えるその顔には、張り詰めた笑みが浮かんでいた。
「私の愛しい天使との団欒を邪魔する愚か者が来たか」
少女を抱く腕が、ぎゅっと強くなった。
まるで、大事な宝物を隠すように。




