第二話 素敵なあなたでいて。わたしが一緒にいてあげるから
玄関の扉が閉まってから、まだ三十分も経っていなかった。
「あれ? フレアさん……忘れもの?」
玄関の扉が開き、見慣れた金髪が揺れる。
少女は廊下の奥から小走りで駆け寄った。ついさっき「いってらっしゃい」と手を振ったばかりなのに。
フレアは少女の姿を目にした瞬間、満面の笑みを浮かべた。まるで長い旅から帰還した騎士のように、堂々と、そして嬉しそうに。
「案ずるな。もう大丈夫だ」
マントをさっそうと外しながら、フレアは少女に向けて優しく微笑んだ。その瞳には、「待たせたな」と言わんばかりの自信に満ちた光が宿っている。
「……ん?」
少女は首をかしげた。
何が「大丈夫」なのかわからない。
だが、フレアは少女のとまどいに気づかない。
むしろ、喜びを噛みしめるような表情で、足早にリビングへ向かった。
ソファにどさりと身を沈めたフレアは、待ちきれないとばかりに少女の腕を引き、膝の上に乗せた。
* * *
それから、二時間が経った。
フレアはほとんど口を開かず、慈愛に満ちた目で少女を眺め、ただ髪を手ですき続けていた。
時折、深い満足げなため息をつきながら。
「フレアさん……きょう、おしごとは……?」
「私の今日の仕事は貴様を愛でることだ」
フレアはそう言って、目を細めて少女の頭を優しくなでた。少女もまた、くすぐったくて、思わず目を細めてしまう。
(……嬉しいけど)
「ずっと、ここにいてくれるの……?」
「ああ。ずっとだ。……今日から、ずっとな」
フレアの声は穏やかで、どこか晴れやかだった。
まるで長い旅を終えた人のような、安らいだ表情。
(なんだろう。フレアさん、すごく嬉しそう)
少女は首をかしげたが、深くは考えなかった。
フレアが幸せそうなら、それでいい。
温かい膝の上でなでられていると、心地よくて、思考がぼんやりとしてくる。
* * *
さらに時間が過ぎた。
昼食を済ませた後も、フレアは飽きることなく少女を膝に乗せたまま髪を撫で続けていた。
気づけば、窓の外の光が傾き始めている。
いつもなら「今日の着替えはどれにする」とか「おやつは足りているか」とか、忙しなく動き回っているのに。
(今日のフレアさん、静かすぎる?)
思い出す。
あの日、急な報告でカレンさんや騎士たちが屋敷にやってきたときのこと。
居間の真ん中に立つフレアさんの背中がとても大きく見えた。何かを言うたびに、騎士たちが次々と姿勢を正してうなずく。
――カッコいい。
そう思った。
この人は、みんなに頼りにされている。たくさんの人を守っている。
いつかこの人みたいになりたい。
毎晩、寝る前の添い寝のときに、「おしごと、がんばって」とつたない言葉で応援していた。それはフレアが騎士団長であることを、誇りに思っているからだ。
――なのに。
今のフレアは、違う。
ソファに沈み込み、自分の髪を撫でることしかしない。
それ自体は、嬉しい。とても嬉しい。
けれど――。
(おかしい……)
そのとき。
外から、防音壁を通りこした、くぐもった声が聞こえてきた。
『団長ー! 早く戻ってきてくださいー!』
『書類だけでも! サインだけでもォォ!』
少女に、稲妻のような衝撃が走った。
(団長……? フレアさんは、今日、お仕事に……)
そこで、ようやく気がついた。
――今日から、ずっとな。
あの言葉の意味が、今になって少女の胸に突き刺さる。
(まさか……辞めたの……? お仕事……)
思い出す。
あの日、フレアが辞表を握りしめていた朝のこと。「騎士を辞する」と宣言した、あの重い覚悟の目。
少女は必死だった。
声が出せないから、身振りで、手振りで、涙を流しながら願った。
――辞めないで。仕事に行っていいの。夜は一緒に寝るから。だから、お願い。
それで、やっと、フレアは折れてくれた。「辞表は一旦保留だ」と言って、胸元にしまってくれたはずだった。
(なのに……!)
フレアは、あの辞表を提出したのだ。少女の知らないところで。何も相談せずに。
――きっと、良かれと思って。
(わたしのせいで……!)
愛されているのはわかる。守られているのもわかる。でも、だからこそ。
フレアが積み上げてきた大切な場所を、自分のせいで奪いたくなんてなかった。
「きこえる……。みんな……フレアさんが、ひつよう……」
「私には不要だ。貴様がおればよい」
(……だめ)
胸の奥で、何かが弾けた。
「……だめ!」
少女はフレアの胸から飛び降りた。
床に着地し、小さな足でしっかりと立つ。
「う、うれしいけど。いやなの……。カッコいい、フレアさんがいい……。じゃないと……もう、お話……しない」
「な……ッ!?」
フレアの顔が凍りついた。
ひるがえって、少女はタタタッと玄関へ走る。その途中、壁にかけてあったベールをわしづかみにしてかぶる。
フレアがあわてて手を伸ばすが、少女のほうが早い。
「城塞化結界」の制御盤に手を伸ばす。本来は子供の手には届かない高さだが、近くにあった台座を迷わず使った。
(開いて!)
本来ならフレアの魔力認証がなければ解除できない最高位の魔導封印。
だが、封印は少女の魔力を感知した瞬間、まるで主人を迎えるようにあわい光を放った。
『認証:最優先保護対象-リトルリリィ。権限レベル:マスター』
カチャリ。
戦場の砦をも完全に守護する世界最高峰の結界が、少女の手によりあっけなく解除された。
「あ……」
扉の向こうには、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった騎士たちの顔があった。
彼らは開いた扉と、その向こうに立つ小さな少女を見て、一瞬で理解した。
『この方が……! 閉ざされた城門を開いてくださった……!』
逆光の中で揺れるそのシルエットが、彼らの目には慈悲深き聖女のように映ったのだ。
実際は、ベールの下で角が光っていただけなのだが。
「フレア! いい加減にしてください!」
カレンが詰め寄ろうとするが、フレアは鋭く平手を突き出して、それを制した。
「待て。少し時間をくれ」
それだけ言い捨てると、少女を抱えて、騎士たちの返事も待たずに扉を閉める。
バタン! という拒絶の音が、その場に響き渡った。
扉の外で、騎士たちは呆然と顔を見合わせた。
カイルだけが、涙ひとつ浮かべずに首をかしげていた。
カレンが胃をおさえながら扉をにらんだ。
あの小さな少女が、団長を説得してくれるかもしれない。その望みに賭けて、彼女は扉をじっとにらみ続けていた。
そっと床に下ろされた少女はフレアに振り向き、小首をかしげて言った。
「おしごと……行こ。わたし……みてるから!」
「……何?」
フレアの動きがぴたりと止まる。
「そう……わたしが、いっしょにいてあげる。だから……ね?」
少女の瞳が、まっすぐにフレアを見つめている。
フレアの脳裏に、無数の問題が浮かんでは消える。
――仕事場に連れていく?
だが、騎士団本部には男どもがいる。私は「指一本触れさせぬ」と誓ったのだ。
フレアは少女とともにあるために辞職した。それなのに、その少女を男だらけの職場に連れていくのでは、道理が立たない。
扉の向こうで騎士たちが待っている。書類の山、未決裁の案件、積み上がった責務が脳裏をよぎる。
私は既に辞表を提出した。撤回など……。
いまだ少女の目は揺るぎもしない。「カッコいいフレアさんがいい」と、その小さな口が言ったのだ。
目を閉じ、深く息を吐いた。
私の目の届く範囲に、常にいるならば。
私の腕の中にいるならば、護り切れる。
ベールがあれば、その魅力にも気づかれまい――。
カチリと。
フレアの中で、何かが切り替わる音がした。
「本当に、私と共に来ると言うのだな?」
「うん……!」
「一瞬たりとも離れぬと、誓えるか? 厠もだ」
「はなれない……! トイレも……いっしょ!」
少女の必死な声に、フレアの表情がわずかにゆるんだ。
そして、静かに、しかし確かな声で言った。
「よかろう。ならば、私も誓おう」
フレアは片膝をつき、少女と目線を合わせた。
「辞表は撤回する。貴様が私の側にいる限り、私は騎士であり続けよう」
少女の目が、ぱっと輝いた。
「ただし」
フレアの声が厳しくなる。少女の頭に手を伸ばし、被っているベールの位置を丁寧に直した。
「このベールは、絶対に外すな。よいな?」
少女はこくりとうなずく。
このベールは、ここに来たばかりのころ国王に謁見するために使った「聖女のベール」だ。あのとき、これを被っている間だけは、周囲の視線や反応が普通だったことを覚えている。
(うん。これがあれば、大丈夫)
「よし。それならば貴様のその輝かしい魅力は誰にも映らぬ」
二人は自信満々だった。
かつては有効だった「隠れ蓑」が、今となっては神々しさを飾り立てる額縁でしかないことに、二人は気づいていない。
* * *
しばらくして。
玄関の扉が、再び開かれた。
「明日より復帰する。今日は戻れ」
祈りながら待ち続けていた騎士たちの前に、フレアが姿を現したのだ。
その背後、ダイニングの入り口から、純白のベールに包まれた小さな影が顔を覗かせている。
騎士たちの顔に、涙がこぼれた。
『団長……!』
『戻っていただけるのですか……!』
騎士団長の有無を言わせぬ圧力。そして背後の少女から漏れ出る、言葉にできない神聖な気配。
騎士たちは一斉に姿勢を正し、思わずその場でひざまずいた。
カイルだけが奥に向かって、親しげに手を振っていたが、すぐ周囲の騎士たちに「不敬だぞ!」と引きずり倒された。
カレンは深くため息をつき、そっと目を閉じた。
胃薬は明日も必要になるだろう。
こうして騎士団長との「同伴出勤」という狂気の伝説が幕を開けることになる。




