第一話 愛の檻の入り口は、ただ一人のために閉じられた
「報告しますッ! 団長がいません!」
騎士団詰め所に大声が響いた。
昼下がりのけだるい空気が一瞬で吹き飛び、何人かの騎士が驚いて書類を取り落とす。その主は入り口の扉を勢いよく開け放った若手騎士の有望株――カイルだ。
彼は迷いのない足取りで副団長の執務机へと突進してくる。
書類の山に埋もれていたカレンはこめかみを揉みながらゆっくりと顔を上げた。
「何ですか、カイル……。そんなに大声を出さなくても聞こえていますよ」
「いやー、団長の席に行ったらもぬけの殻じゃないですか! で、机の上にこんな『お手紙』が置いてありまして!」
カイルは屈託のない笑顔で、一枚の羊皮紙を差し出した。
カレンはそれを受け取り、目を落とす。
『辞表 一身上の都合により騎士を辞する』
そこに書かれていたのは、あまりに簡潔で絶望的な一文だった。
筆圧の強い見事な筆致。無駄に洗練された「止め」と「払い」。
添えられたメモには、さらに達筆な文字で小さく『※本部人事課宛に提出のこと』と書き添えられていた。
「……」
カレンの思考が停止した。
胃が重くなる。
目の前では、カイルが「うわぁ、相変わらず綺麗な字ですよね、団長!」と的外れな感心をしている。
「カイル」
「はい!」
「今すぐ全騎士団員を招集してください。緊急事態です」
「えっ、そうなんですか? わかりました!」
カイルが執務室を飛び出していく。
残されたカレンは、辞表を握りしめたまま、がくりと机に突っ伏した。
「……あの、馬鹿フレアぁぁぁ……ッ!」
* * *
人類最強の騎士、フレア。
金色の髪と氷のような美貌を持ちながら、共に働く女性からは「年中仕事のことしか考えてなさそう」ともっぱらの評判の人物だ。彼女が職場放棄をするなど、天地がひっくり返ってもあり得ない。
あの仕事人間が? 部下を千尋の谷に突き落とすのが趣味のあの鬼が?
緊急招集に集まった騎士たちの間で、憶測が飛び交う。
「誘拐……? いや、団長をさらえる人間なんてこの大陸にいないし……」
「まさか、陛下との不和? 予算会議でキレたとか?」
ざわつく騎士団たちに、さらなる爆弾が投下された。
王宮からの使者が、血相を変えて駆け込んできたのだ。
「き、緊急事態! 国王陛下が卒倒されました!」
「「はあぁ!?」」
騎士たちの声が重なる。使者は息を切らしながら続けた。
「フレア様のご出奔を知り、『余のせいか……? 先日、あの子を連れてこいとしつこく言い過ぎたのを根に持って……?』と泡を吹いて……!」
「自業自得じゃないですかやだー!」
カレンは頭を抱えた。
フレアと国王が、同時に機能不全におちいったのだ。
一騎当千の国防の要が、理由も告げずに姿を消した。隣国に知れ渡れば、即座に侵略戦争が始まりかねない。
「探して! 草の根分けても探し出してください!」
カレンが檄を飛ばす。
「団長がいないと、溜まりに溜まった『対魔獣討伐の書類』の山が崩れるぞ!」
「そっちかよ!」
騎士団員たちは総出で王都の捜索を開始した。
まだ彼らは知らなかった。
その「震源」が詰め所のほど近く、団長の私邸にあることを。
カイルがフレアの執務机から持ち去った辞表の下、辞職の正当性と「育児がいかに聖なる営みか」を説く、分厚い数十枚のレポート。それが綴じられていることに、副団長が気がつくまでは。
* * *
時間は少しさかのぼる。
今朝のフレアの私邸。
「いってらっしゃい、フレアさん……」
玄関先で、小さな少女が手をふっていた。
いつの間にかフレアに「リトルリリィ」という名をつけられた、吸精種の少女である。
可愛らしいエプロンドレス姿。
頭には、純白のベールがかぶせられていた。
そのベールをエナンよろしく押し上げる尖った角と羽。本来ならまがまがしいはずのそれらは、フレアに毎日磨かれて、今はつやつやと輝いている。
一度現れてしまったそれは、もう戻らない。だが、この「聖女のベール」の認識阻害があれば、その異形は人の目には映らない。
教会の宝物庫から「借りてきた」という聖遺物。フレアは少女に、外気に触れる際は必ずこれをつけるよう、くどいほどに言い聞かせていた。「玄関先も外だ」と。
玄関のたたきは、小さなほうきで丁寧に掃き清められていた。少女なりに「ちゃんとしよう」としたのだろう。その痕跡が、あちこちに残っている。
ふるふると揺れる小さな手。ベールから覗く口元がほころんでいる。
朝日に照らされて、その姿ははかなく、しかし、きらきらと輝いて見えた。
フレアは足を止めた。
その脳裏を、過保護の嵐が駆け巡る。
――痛ましい。
少女が笑っている。朝日を浴びて、小さな手を振っている。
だがフレアは「知っている」のだ。あの笑顔の下に隠された、健気な嘘を。
見送りのたびに、あの子は本当は泣いているはずだ。自分が去った後の静けさの中で、独りひざを抱えて震えているだろう。
なのに、愚かな保護者を心配させまいと、無理に口元をゆがめているのだ。
(嗚呼、なんたる献身。なんたる自己犠牲。これ以上、あの子に嘘をつかせるわけにはいかぬ)
フレアは決意した。
やはり四六時中、自分が側にいてやらねば――と。
少女はただ「今日も天気いいな」と思っていただけだが、過保護フィルター越しには「寂しさを必死にこらえる天使」に見えていた。
先日、自分が留守の間に少女が体調を崩し、衰弱して死にかけた。まだその時の罪悪感が、フレアの理性をむしばんでいたのだ。
フレアはマントをひるがえす。
その顔には、戦場に向かうとき以上の悲壮な決意が浮かんでいた。
「行ってくる」
「うん……がんばって、ね」
少女のたどたどしい声が、フレアの背中を押す。――と、フレアは勝手に解釈した。
彼女は屋敷を出ると、足早に騎士団詰め所へ向かった。
ただし、正門からではない。裏口から侵入し、誰にも気が付かれぬまま書架で区切られた自席に辞表を置き、そして音もなく去ったのだ。
所要時間、わずか三分。
神業としか言いようがない、超高速の「退職劇」だった。
* * *
そして現在。
カレンたち騎士団の面々は、フレアの私邸の前に集結していた。
屋敷は静まり返っている。
だが、その静けさは不気味だった。建物全体が、うっすらと光る何かに包まれている。
「団長ーっ! お昼まだでしょう? 差し入れ持ってきましたー!」
カイルの第一声に、周囲の騎士が一斉に額を押さえた。
「ダメ。屋敷全体が『城塞化結界』で覆われてます」
カレンがいまいましげに指摘する。
これは拠点防衛用として最高峰の結界だ。アリ一匹も通さない。
無造作にノッカーを叩こうとしたカイルが、指先からバチッ!と紫電を浴びて吹き飛んだ。
「がっ、ががが! さすがです、団長……! 万全の、構え……っあぎゃぁぁぁ!」
地面に転がったカイルが、口から煙を吐いて静かになった。
「完全に引きこもる気ですね……」
カレンは結界の向こう、カーテンの閉ざされた窓を見上げる。
この要塞を物理的にこじ開けられるのは、世界でただ一人。
――中にいる、少女だけだ。




