第十五話 化け物のわたしを、どうかあなたが殺してください
なんと重きことか!
まるで世界の理そのものが、このフレア・イグニスを否定せんとのしかかっているようではないか!
地下室の床にひざをつき、私は歯を食いしばった。
ミシミシと、愛用のプレートアーマーが悲鳴を上げている。
戦場ならば、ぶつかれば城壁も粉々にする硬度を持つこの鎧が、今はただの鉄くずのようにきしむ。
(これは対魔重圧結界か……!)
ドラゴン級の大型魔獣を捕獲するための術式。本来ならば、人間一人が対象になるような罠ではない。
だが、今の私の体には、あの「小さいの」からゆずり受けた膨大な力が宿っている。
それが災いし、結界が私を「極大級の危険な魔物」と誤認し、最大出力で拘束しているのだ。
「ぐぅ……ッ! 動か、ぬ……! 貴様ら、このような卑劣な罠を……!」
床に手をつく指先から、ポタポタと血が滴り落ちる。
きしむ音は、鎧のものか、自分のものか。
だが、そんな身体的な痛みなど、目の前の光景に比べればそよ風にも劣る。
「やはり魔に魅入られた者は脆い。さあ、悔い改めなさい」
神の言葉を騙る薄汚い司祭が、こちらを見ながら、私の天使に歩み寄る。
震える少女。
彼女は、自分に向けられた敵意におびえ、助けを求めるようにチラリとこちらを見た。
あの瞳が言っている。
「助けて」と。
「守って」と。
なのに。
私は、動けない。
(おお、愚かなる私よ! これも私の慢心が招いた悲劇だとでもいうのか!)
敵地に無防備に踏み込み、あろうことか私自身が人質となり、あの子を絶望のふちに立たせてしまった。
太った男が私に歩み寄り、不恰好に刃を向けて来る。その背後で、『やめて』と声を出さずに叫ぶあの子の瞳が、恐怖に凍りついた。
直後。
私の『小さいの』、その小さな体からただよう気配が変わった。
おびえきっていた震えが止まり、代わりに――背筋が凍るような、底知れぬ沈黙が広がる。
よせ……! 何が、何が起きようとしているのだ!?
まさか、あの内なる呪いが……この卑劣な者たちの悪意にあてられ、暴走しているというのか!
やめろ。そちら側に引きずられてはならぬ。戻ってこい、私の「小さいの」……!
叫ぼうとしたが、重圧で肺が潰され、呼吸すらままならない。
視界の端で、少女の背中の服が盛り上がるのが見えた。
おぞましくも美しい、魔性の翼。
それが広げられた瞬間、私の心臓もまた、凍りつくような絶望に塗りつぶされた。
*
世界の時が引き伸ばされ、熱だけが鮮明になる。
(……あ、つい)
背骨が焼けるように熱い。
けれど、それは不快な熱さではなかった。
凍えていた体が、芯から溶かされていくような、恐ろしいほどの心地よさ。
メリメリ、と内側から骨がきしむ音がする。
痛くはない。むしろ、窮屈だった殻を破るような開放感があった。
手足が、熱を帯びてわずかに引き伸ばされていく。
背中の服が弾け飛び、そこからぬれた翼が広がる感覚。
頭皮が裂け、硬い角が天に向かって伸びていく感覚。
変わる、なんて生ぬるいものじゃない。
内側にいた「なにか」が、殻を突き破って生まれてくる。
――「孵化」だ。
仮初めの殻を脱ぎ捨てて、本当の姿が生まれ落ちる。
視界全体が真っ赤に染まった。
ドクン、と心臓が跳ねる。
それは恐怖の鼓動ではない。
もっと体の奥底、魂の深いところで眠っていた「別の生き物」が、目を覚ました音だった。
地下室の空気が一変した。
甘くて、頭がくらくらするような、花の蜜を毒になるまで煮詰めたような匂いがあふれ出す。
それは、隠しようのない夜の魔物の匂い――魅了の香りだった。
「…………ぁ」
店主は、悲鳴を上げることすら忘れていた。
ただ、間抜けた音をもらして口を開け、だらしなくよだれをこぼす。
握っていた短剣が指から滑り落ち、チャリン、と硬い音を立てて床を跳ねた。だが、彼はその音にも気づかない。
司祭は聖印を構えようとした。しかし、指先が石のように固まって動かない。
二人の顔から、血の気が失せていく。
だが、その瞳に宿っているのは恐れではなかった。
畏怖。混乱。そして――。
「死んでもいい」とすら思わせる、心臓を直接握り潰されるような甘美な絶望。
彼らはただ、瞳孔を限界まで見開き、その「化け物」を見つめていた。
逃げ出したいという生存本能が、愛でたいという呪いのような熱に、じりじりと焼き潰されていく。
(……美味しそう)
少女の瞳孔が、妖しく縦に裂けた。
絶望に言葉を失い、ただ浅い呼吸を繰り返す二人の音が、心地よい拍動となって鼓膜を打つ。
命乞いも、もう届かない。
代わりに、別の「情報」が鮮明に見えるようになった。
男たちの体から立ち上る、ゆらめく生命の揺らぎ。
ドクン、ドクンと脈打つ血管の中を流れる、赤い温かな命の流れ。
温もりだ。
寂しくて、寒くて、凍えそうな心を埋めてくれる、極上の熱。
あれを取り込めば、きっとこの寂しさは消える。
独りぼっちの不安も、フレアさんがいなくなる怖さも、全部とろとろに溶かして、一つになれる。
ゆっくりとした動きで、音もなく目の前まで忍び寄った。
二人の首に、そっと手を添える。
まるで愛しい人に触れるような、優しい手つきだった。
「あ……」
店主も司祭も、逃げようとしなかった。
少女の指先が触れた瞬間、彼らの体から力が抜け、ぼんやりと夢見心地な顔へと変わっていく。
抵抗する気力が、湯気のように吸い出されていくのだ。
ズズズッ。
少女の手のひらから、白いモヤが渦を巻いて吸い込まれていく。
のどを焼くような攻撃性、いびつにふくれあがった正義感、そして、どろりとにごった欲望。
それらが「熱」となって、少女の内側へと流れ込んでくる。
甘い。
しびれるほどに甘美な、いのちの味。
(もっと……もっとちょうだい……)
理性が、本能という名の快楽の海に沈んでいく。
自分の中の「人間」が必死に警鐘を鳴らしているけれど、その声はどんどん小さくなっていく。
あともう少し吸えば、この人たちは空っぽになる。
ぬけがらになって、二度と動かなくなる。
それでいい。
だって、フレアさんを傷つけようとした悪い人たちだから。
わたしが全部食べてあげれば、もう誰も悲しまない。誰も傷つかない。
(――だめ)
最後の一線を越えようとした、その瞬間。
少女の奥底に残っていた、小さな、けれど決して消えない「願い」が歯止めをかけた。
(人殺しになったら……フレアさんに、もうなでてもらえなくなる)
ビクリ、と指先がふるえた。
途端に、流れ込んでくるそれが「汚らわしい泥」のように感じられた。
パッ、と手を離す。
二人の男は白目を剥き、ドサリと床に崩れ落ちた。
カラン、と乾いた音が響く。
静けさが戻った地下室で、少女は我に返った。
甘ったるい匂いが充満している。
自分の手を見る。
さらに、割れた窓ガラスに映る自分の姿を見る。
まがまがしいねじれた角。黒黒しい翼。そして、人を襲った直後の、妖しく光る縦長の瞳孔。
(……あ)
「……小さい、の……?」
背後から、重圧を振り払おうとするフレアのかすかな声が聞こえた。
少女の心臓を、冷たい手がわしづかみにした。
振り返れない。
振り返れば、そこには軽蔑のまなざしがあるはずだから。
(見られた。見られちゃった。……ああ、もう、全部おしまいだ)
家族ごっこは終わりだ。
フレアさんの「可愛い小さいの」は今死んだんだ。ここにいるのは、人を襲った汚らわしい魔物だけ。
(……消えなきゃ)
少女は翼を羽ばたかせた。
もう、どこかでひっそりとのたれ死のう。
割れた窓の隙間へ向かって、少女は逃げるように飛び出そうとした。
「待て! どこへ行く!」
その瞬間。
ギィィィィィィンッ!
ガラスが割れる音じゃない。
もっと分厚い鉄板を――あるいは「世界の理」そのものを、無理やり引きちぎるような、耳障りな破壊音がとどろいた。
地下室の出口をふさいでいた、青白い魔法の光。
かつてドラゴンすら捕獲したという、物理攻撃無効の絶対障壁。
その「壁」に、フレアの指が深く食い込んでいた。
ジュッ、ジュウウウ!
結界が異物を排除しようと火花を散らす。
フレアのガントレットが焼け焦げ、その下の皮膚が裂け、血が噴き出す。
けれど、彼女は止まらない。
痛みなど存在しないかのように、ただ一心不乱に、魔法そのものを素手でこじ開けていく。
「愛の障害というには、あまりに脆い!」
フレアが腕に血管を浮かび上がらせ、裂帛の気合と共に両腕を広げた。
ミシミシ、パキパキと光の壁が悲鳴を上げる。
パリンッ!
光の破片が散らばる中、フレアが飛び込んできた。
速い。風よりも速い。
逃げる少女の翼が空気をつかむより早く、金色の閃光が距離を無にする。
空中で、小さな体が背後から強引に抱きすくめられた。
とても動けそうもない。
逃げ場のない、鋼鉄のように強く、けれど驚くほど柔らかい腕の檻。
ドサッ!
逃がさぬとばかりに組み付いたフレアの重みに引きずられ、二人はもつれて床へと転がる。
(離して! 嫌だ、見ないで!)
(みにくいところを、見ないで!)
必死に暴れた。
獣のようにのどを鳴らし、翼をバタつかせ、角を振り回して抵抗する。
鋭い角がフレアの頬をかすめ、赤い血が滲む。
それでも、腕は緩まない。
むしろ、より強く、より深く、少女を自身の胸へと押し付けるようにかき抱いてくる。
肋骨がきしむほどの強さ。
(わたしは魔物なのに。こんなに、傷つけてるのに)
(離してよぉ……!)
抵抗する力が抜けていく。
やるせなさと、申し訳なさと、それでも心地よい温もりに、心がぐちゃぐちゃになる。
冷え切っていた体が、フレアの体温で満たされていく。
それがどうしようもなくうれしくて、だからこそ、つらい。
不意に、フレアの手が動いた。
少女の背中へ。引き裂かれた服の隙間から伸びる、異形の翼へと。
ビクッ、と少女の肩が跳ねた。
触られる。確認される。
気持ち悪い羽。……人間ではないあかしを。
(嫌だ、ふれないで……! 汚いって言わないで……!)
ギュッと目を閉じた。罵倒が来るのを覚悟した。
けれど。
そっ、と。
フレアの指先は、腫れ物に触れるように優しく、翼の被膜をなでただけだった。
まるで、怪我をしていないかを確認するように。
あるいは、生まれたばかりの赤子の肌をいつくしむように。
そのあまりのやさしさに、少女の心が限界を迎え、ふるえる唇を開いた。
「……こ、ろ……して……っ!」
その口が初めてつむいだ言葉は、かすれた絶叫だった。
お願い、フレアさん。
嫌われる前に、気持ち悪いって思われる前に、その手でわたしを終わらせて。
このままきたならしい魔物として生きるくらいなら、大好きなあなたの手で、私は死にたい。
少女の瞳から、大粒の涙があふれ出し、フレアの頬をぬらした。
魔物としての姿をさらし、人を襲いかけた少女。
もはや言い逃れできぬ現実に、彼女はただ、愛する人による処刑を望んだ。
次回、最終回。フレアの狂気じみた愛が、その絶望すらも打ち砕く。




