第十四話 たった一度の隙。そしてわたしの世界は奪われる
その日、王都の裏路地に、血走った視線が二つあった。
通りを挟んだ向かい――騎士団長の私邸を凝視している。
「……司祭様。あそこです」
脂の浮いた声で囁いた男は、王都で店を構える服飾店の店主だった。
「……あの悪魔の城に、可哀想な聖女様が囚われているのです」
「おお、なんとしたること……。見るからにまがまがしい。あの窓の鉄格子、ただの鉄ではないな。アダマンタイト合金……いや、対魔封印が施された特別製か」
彼らの視線の先には、フレアによって物理的・魔法的に要塞化された屋敷があった。
「ふむ、許せません。か弱い少女を、よもやあのような檻に閉じ込めるとは。……必ずや救い出し、我々の愛で満たして差し上げねば」
司祭が唇をなめる。その目は信仰心ではなく、ドロドロとした独占欲ににごっていた。
彼らは三日三晩、不眠不休で屋敷を監視し続けた。
だが、隙がない。
あの「過保護な女騎士」は、片時も少女の側を離れないのだ。
(くそッ、また! またあの魔女め、窓越しにこっちをにらんだ!)
店主は震えた。
数百メートルは離れているのに、フレアの殺気が肌を刺す。
あきらめるべきだという本能と、あの少女の魔性を求める欲望がせめぎ合う。
二人に限界が近づいたそのときだった。
「……動いた」
屋敷の扉が開き、フレアが一人で出てきたのだ。
しかも、ひどく急いでいる。
彼女は鬼気迫る表情で、「滋養強壮……秘薬……店主を締め上げねば……」とうわ言のようにつぶやきながら、市場の方角へと疾走していった。
「おお、まさに奇跡……! 神が我々に好機をお与えくださった!」
またとない機会。
この一瞬を逃せば、二度はない。
二人の男は立ち上がった。
本来は攻城戦で使う破城槌と、司祭の魔法のスクロールを手に。
欲望のままに、夜の王都を走り出す。
*
フレアが公務(私用)で数時間、屋敷を空けた、ほんのわずかな隙の出来事だった。
「小さいの、ただいま戻ったぞ! 見てくれ、貴様の滋養強壮に最高と言われる秘薬を……店主を締め上げて手に入れてきたぞ!」
意気揚々と扉を開けたフレアの凛とした声が、部屋の空気に溶けて消えた。
手にした小瓶が床へと滑り落ちる。
パリン、という硬質な音が、やけに大きく響いた。
無人となった寝室。
窓ガラスは割られ、冷たい風が吹き込んでいる。
そしてベッドの上には、昨夜あれほど丹念に巻き上げ、今朝もまた巻き直したばかりの「守護の繭(ドラゴニック・ニット)」が、無残に切り裂かれて散乱していた。
「……嘘、だ」
一瞬の間。
次の瞬間、フレアの瞳から温度が完全に消え失せた。
彼女はゆっくりと歩み寄り、震える手で、切り裂かれた聖なる布の断面をなぞった。
鋭い刃物で、乱暴に断ち切られている。
「……なんと雑な切り口だ」
ポツリと漏らした声は、地を這うように低かった。
「獣が爪で裂いたかのようではないか。……許せぬ」
ピシリ、と音がした。
フレアが踏みしめた足元の床板が、何の前触れもなく爆ぜたのだ。
怒りで制御を失った覇気が、物理的な圧力となって周囲をきしませる。
壁に亀裂が入り、窓枠がガタガタと震え始めた。
「私の『小さいの』が、このような無粋な手合いに触れられたかと思うと……この一帯ごと、焦土にして消毒してやりたい気分だ!」
フレアの背後で、覇気が炎のようにゆらめいた。
*
王都の外れ。
かつてはワインの貯蔵庫として使われていたらしい、打ち捨てられた半地下の一室。
カビと湿気が充満する淀んだ空気の中で、少女は冷たい木の椅子に縛り付けられていた。
寒い。
肌に直接触れる風が冷たい。
体温を保ってくれていた「繭」はもうない。むき出しの手足には、粗末な縄が食い込んでいる。
(寒い……。怖い……。あの布があったら、こんなに震えなくて済んだのに……)
数日前「動きにくい」と思ったはずなのに。
今の少女は、フレアのあの暑苦しいほどの過保護な拘束を、どうしようもなく恋しく思っていた。
しかし、目の前の男たちには、あの布の残骸は「虐待の証拠」としか映っていなかった。
「可哀想に……。見てください司祭様、震えております」
脂ぎった顔をゆがませ、恍惚とした表情で少女を見つめるのは、あの日の市場の店主だった。
以前のような生気はない。頬はこけ、目は血走っている。何かに取り憑かれたような異様な風体だ。
(うわ……なにこの人、気持ち悪い……)
本能的な嫌悪に身を縮めた。
そして隣には、狂信的な眼をした司祭が立っていた。彼もまた、その肥えた体に、獲物を狙う獣のような瞳を宿していた。
「ふむ。許しがたい。高潔なる騎士団長の裏の顔が、あれほどサディスティックな背教者であったとは……」
「ええ、ええ。呪いの布で簀巻きにするなど……まさに悪魔の所業。いったい、どれほど酷いことをされていたのでしょう……」
司祭が、なぐさめるように少女の肩に手を伸ばそうとする。
ビクリと反応し、椅子ごと後ろへ逃げようとした。
(触らないで! やだ、目が怖い!)
必死の拒絶。
だが、そのおびえた仕草さえも、彼らの脳内では都合よく変換される。
「なんと痛ましい……。怯えきっているではありませんか。大人の手がこれほど怖いとは、よほど『悪い教育』をされたのでしょう」
「ふむ、安心なさいませ、聖女よ。我々は神の使徒ゆえ。貴女を檻から解き放ち、正しき愛で管理して差し上げましょうぞ……」
(違う、違うの! あれはわたしが頼んだの!)
必死に首を振るが、声は出ない。
少女の目元に涙が浮かぶ。
その瞬間、制御を失った「魅了」の毒が、目に見えない香りとなって地下室に広がった。
「っ……!?」
店主と神父の動きが止まる。
二人の呼吸が荒くなり、少女を見る目に、より一層濃密な「濁り」が混じる。
「ふむ、ふむぅ……なんと神々しい……。やはり貴女は聖女に違いない……」
「この、心臓をわしづかみにされるような衝動……。これこそが信仰……いや、愛ですね……!」
(ひっ……!?)
必死の思いで無意識にあふれた毒が、逆に獣たちの劣情に油を注いでしまった。
店主が、耐えきれないとばかりに手を伸ばしてくる。
その指先が、少女の震える肩に触れようとした、瞬間。
ズズズズズ……ッ!
突如、地下室全体が揺れ始めた。
天井からパラパラと塵が落ちてくる。
ワイン棚が倒れ、瓶が砕ける音が響く。
「な、なんだ!? 地震か!?」
男たちがうろたえる間もなく、轟音が響いた。
ドゴォォォォォンッ!
分厚い鉄の扉が、あめ細工のように真ん中からねじ切れ、内側へと吹き飛んだ。
鉄の塊が壁にめり込み、もうもうと土煙が舞い上がる。
「――見つけたぞ。ドブネズミ共」
煙の向こうから、地獄の底から響くような声がした。
砂煙を切り裂いて現れたのは、抜き身の騎士剣を提げたフレアだった。
だが、その姿は異様だった。
まさに戦女神のような立ち姿。だが、全身から立ち昇る金色の覇気があまりにも濃く、空気が陽炎のようにゆがんで見える。
店主は悲鳴を上げながら、腰を抜かして後退った。
「ひ、ヒィッ!? なんだその姿は! やはり人間ではない! 噂通りの魔女……いや、悪魔の類か!」
「ふむ! 出おったな悪魔め! 聖女を暴力で支配し、玩具にする非道な騎士め!」
怯える店主とは対照的に、司祭は一歩も引かなかった。
その目には恐怖など微塵もない。あるのは、自らの正義を疑わぬ狂信と、悪を断罪するゆがんだ歓喜だけだった。
「神の御名において、聖女様は我らが守る! ……悪魔よ、聖なる檻に繋がるがよい!……対魔聖域、展開!」
司祭が叫ぶと同時に、床の魔法陣がまがまがしく発光した。
それは本来、ドラゴン等の強力な魔力を持つ大型モンスターを捕獲し、その動きを封じるための『対魔重圧結界』。
人間相手には効果が薄いはずの術式だ。
しかし。
「なっ……がはっ……!? 体が……っ!」
フレアのひざが、ガクンと折れた。
見えない巨人の手が、彼女を地面へと押しつぶす。
今のフレアが身にまとう覇気が、結界に「極大級の魔物」として誤認されたのだ。
「ぐぅ……ッ! 動か、ぬ……! 貴様ら、このような卑劣な罠を……!」
フレアが床に手をつく。
その口端から、一筋の血が流れる。
彼女は少女へと手を伸ばそうとしたが、その手は空を切って地面に叩きつけられた。
(いやっ!)
少女の顔が絶望に染まる。
「ははは! 見ろ! 聖なる力にひれ伏したぞ! やはり魔性の類だったのだ!」
店主が勝ち誇ったように笑い、転がっていた錆びた短剣を拾い上げる。
その切っ先が、動けないフレアののど元に向けられる。
「このまま浄化して差し上げましょう! 汚らわしい悪魔め! 死んで罪を償いなさい!」
(やだっ! フレアさん!)
視界が、涙でゆがむ。
自分を守るために来てくれたのに。
自分のせいで……いや、自分を「救いが必要な可哀想な子」としてしか見ない、この勝手な人間たちのせいで、大好きな人が殺されようとしている。
――許せない。
わたしのフレアさんを傷つけるやつなんて、いらない。
中で、何かが音を立てて壊れた。
(もういい。わたしがどうなってもいい。……この人たちを、絶対に許さない)
ドクン、と心臓が異形のリズムを刻んだ。
背中の服が盛り上がる。
黒い翼が、服を突き破るようにして大きく広がった。
地下室の空気が一変する。
フレアの覇気とは異なる、甘く、冷たく、そして命に関わるような濃い「妖気」があふれ出した。
「正義」を信じる悪党、「愛」ゆえに魔物と化した騎士。
すれ違う善意の果てに、真の怪物が目を覚ます。
次回、絶望の咆哮と共に、■■■■■が顕現する。




