第十二話 壊さないために縛って。安らぎという名の蓑虫(みのむし)
フレアの「添い寝生活」は、少女に劇的な回復をもたらした。
毎晩、特級騎士の濃厚な精気を吸い放題なのだ。枯れ木寸前だった少女の肌は、数日で桃色に輝くような艶を取り戻していた。
(……んぅ)
朝。少女が目を覚ますと、視界が肌色で埋めつくされていた。
呼吸が苦しい。
見上げれば、フレアの豊かな胸が眼前に迫っている。少女はフレアの腕の中に、抱き枕として完全に埋まっていたのだ。
「おはよう、小さいの。今日もあどけない寝顔だな。食べてしまいたいほど可愛いとはこのことか」
頭上から降ってくる甘い声。
抜け出そうともがくが、びくともしない。
結局、朝の身支度が整うまで、少女は「お人形」のように扱われることになる。
「さあ、朝食だ。あーん、しろ」
(……自分で食べるから)
少女は必死にスプーンを奪おうと手を伸ばすが、騎士の腕は鋼鉄の檻のごとくびくともしない。
「ならん。貴様の腕の筋肉はまだ発達途上だ。スプーンを持つ労力さえ惜しい。私が咀嚼して口移しで……というのはさすがに衛生的にどうかと思うから、せめて運ばせてくれ」
拒否権はないようだ。
スプーンが口に突っ込まれる。美味しいけれど、視線が重い。
「着替えの時間だ! 今日はこのフリル地獄……いや、天使の純白ワンピースだ!」
(……ひらひらが増えてるよ)
少女はフリルの山を見て、あからさまに嫌そうな顔で首を振った。
だが、フレアには通じない。
「何を言う。貴様の可憐さを引き立てるには、これくらいの布量が必要だ。さあ、腕を通して……うむ、尊い! このまま額に入れて飾りたい!」
フレアの愛は、もはや濁流だった。
息苦しい。けれど、決して不快ではなかった。
(……ちょっと重いけど、平和だな)
だが、その安堵の裏で、胸の奥がざわめく。
(……でも)
胸の奥に冷たい棘が刺さったような感覚を覚えた。
フレアの腕の中は温かい。
なのに、心のどこかで、言いようのない不安が広がっていく。
(フレアさんは、こんなに優しいのに。……わたしは、嘘をついてる)
鏡を見るのが怖くなっていた。
肌艶が良くなるたび、自分の体が人間からかけ離れたものになっていく気がして。
最近、フレアと一緒にいても、すぐにまた「お腹」が空くようになった。
もっと欲しい。もっと濃いものが欲しい。
そんな、得体の知れない渇きが、体の奥底で口を開けている。
(もし、私がもっとお腹を空かせて……フレアさんを食べちゃったらどうしよう)
あの大好きな笑顔が、失望にゆがむ瞬間。
優しい手が、私を拒絶して突き飛ばす瞬間。
(怖い……。自分が、怖いよ……)
少女はフレアの服の裾をギュッと握りしめた。
* * *
ある深夜のことだった。
少女は意識を深い霧の中に沈めたまま、ふらふらと、しかし確かな足取りでベッドを抜け出した。
隣で眠るフレアにも気づかれぬほどの、忍び足。
(……ん、あれ……?)
少女が意識を取り戻したのは、肌を刺すような冷たい夜風のせいだった。
パチ、と目を開ける。
そこは自分の寝室ではなかった。屋敷の庭ですらなかった。
見知らぬ、うすぐらい路地裏だった。
(うそ……ここ、どこ? わたし、フレアさんとお布団で寝てたはずなのに……)
混乱する少女の耳に、こっつ、こつり、と不規則な足音が近づいてくる。
「……おい、嬢ちゃん。こんな夜中にどうした?」
背筋に冷たいものが走る。
目の前には、酒のにおいをただよわせた大柄な男が一人。千鳥足で近づいてくる。
少女の本能が告げる。これは「敵」ではない。「餌」だ。
少女の瞳が、妖しくうるむ。のどが渇く。
(だめ、見ないで! 逃げなきゃ!)
理性の少女は必死に否定する。
だが、本能に支配された体は言うことを聞かない。
少女は無防備な姿勢で小首を傾げ、うるんだ瞳で上目遣いに男を見つめた。
「ひっ、う……!? なんだ、可愛いな……。おじさんが、家まで……」
男の目がとろんとにごる。
少女がおびえればおびえるほど、その儚げな可憐さが毒となり、男の理性を砂糖菓子のように溶かしていく。
(いやだ、体が勝手に……! わたし、この人を食べちゃうの!?)
その指先が、少女の震える肩に触れようとした瞬間。ぬるりとした欲望の熱が、肌を焦がすように伝わってきた。
少女の脳髄が、捕食の歓喜に打ち震える。意思に反して、口元が獲物を迎えるようになまめかしく開く。
ダメ。食べたくない。気持ち悪い。でも、止まらない。
(いやっ! いやだっ!)
あらがえない本能が、男の喉笛に喰らいつこうとした――その時だった。
「其処に直れェェェッ! 不届き者ォォォッ!」
ドゴォォォォンッ!
金色と白が混ざった流星が空から降り立ち、男をゴミ捨て場の彼方まで吹き飛ばした。
もうもうと舞い上がる土煙の中、その人影は立っていた。
寝間着のまま、裸足で、逆立つ金髪を夜風になびかせて。
フレアだ。
「……ッ! ここは……? 俺は一体……?」
ゴミの山に埋もれた男が、ふらつきながら上体を起こした。
殴られた衝撃で脳が揺さぶられ、魅了が霧散したのだ。
彼は目の前に立つ、鬼のような形相の女騎士を見て、ガタガタと震え上がった。
「ヒィッ! き、騎士団長様!? す、すみません! 俺は酔っ払って……そうか、天罰か……!」
男は魅了されていた記憶が曖昧なまま、「騎士団長にぶん殴られた」という事実だけを恐怖と共に刻み込み、脱兎のごとく逃げ去っていった。
「……ッ! 小さいの! 無事か! 怪我はないか! けがらわしい手で触れられはしなかったか!?」
フレアは少女を抱きしめ、全身をくまなく調べる。
少女の体は小刻みに震えていた。
安堵よりも先に、激しい自己嫌悪におそわれた。
(……わたし、なんで……)
フレアに抱かれながらも、呆然として震えた。
違う。そうだ。自分は「寂しがり屋のただの子供」なんかじゃない。
隙あらば人を襲い、精気をすする「化け物」なのだ。
フレアさんが来てくれなければ、今ごろあの男の人を吸いつくしていたかもしれない。
(……怖い。自分が怖い。……汚い)
屋敷に戻った後も、少女の震えは止まらなかった。自分が、ひどく汚れているように感じられてならなかった。
このままでは、また寝ている間に誰かを傷つけてしまう。フレアを悲しませてしまう。
決意し、クローゼットから荷造り用の太いロープを引きずり出した。
そして、涙を溜めてフレアを見上げ、それを差し出した。
(わたしを縛って。どこにも行けないように。誰のこともおそえないように。……わたしが、わたしじゃなくなる前に!)
少女は自分の手足を縛るようジェスチャーで示し、さらにベッドの頑丈な柱を指差した。
「……小さいの? これは……」
フレアは息を呑み、少女の涙を指で優しくぬぐった。そして、ある一つの推論がひらめく。
これは……自縛か?
以前読んだ聖騎士の教本にあった、己の中の魔を封じるための荒行。
つまりこの子は、無意識に暴れようとする自分の体(夢遊病)を、自らの意志で止めようと……!
「……そうか。貴様、そこまで自分を追い詰めていたのか」
フレアの声が震える。
「呪いが、貴様の清らかな意思に反して体を動かそうとするのだな。……貴様は、その身を縛ってでも、何者かの手による連れ去り……あるいは操りを防ごうとしている。……おお、なんと、なんと高潔な魂か……!」
(えっと、ちょっと解釈が違うけど……まあ、結果は同じか)
「分かった。貴様の願い、このフレアが引き受けよう」
フレアはロープを手に取り……それを放り投げた。
(えっ?)
「あのような粗末な縄では、貴様の柔肌が傷つく。……これを使おう。我が家に代々伝わる、『竜髭の編み布』だ!」
フレアはおもむろに、桐箱から一枚の布を取り出した。
一見すると上質なシルクだが、表面にはびっしりと封印の魔術文字が刺繍され、ほのかに線香のようなおごそかな香りがただよっている。
「さあ、じっとしていろ。これが貴様を悪しき放浪癖から遮断する。……古の竜よ、この迷える子羊を守りたまえ……」
フレアはなにやらとなえながら、少女の体を足先から丁寧に、しかし容赦なく巻き上げ始めた。
くるくると、幾重にも重なる布の層。
手足は胴体に密着させられ、指一本動かせない状態に固定される。
少女の体が、巨大な白いサナギになっていく。
「さらに念には念を。この秘術で強化された革ベルトで、物理的な『愛の封印』を施す!」
フレアは恍惚とした表情で、ベッドの柵と少女の簀巻きボディを、ギチギチと音を立てながら固定した。
「完了だ。たとえ呪いが貴様の体を操ろうとしても、この『守護の繭(ドラゴニック・ニット)』からは出ることはできん。……苦しくはなかろう。これは慈愛の重みだ」
(……動けない。本当に、ちょっとも動けない。……でも)
ミノムシのような状態で、天井を見上げた。
不思議と、不快ではなかった。
ガチガチに拘束されているという事実が、逆に「もう私は誰も傷つけない」という安心感を与えてくれる。
それに、竜の髭とやらは驚くほど肌触りが良く、通気性も完璧だった。さすが高級品。
「貴様一人が苦しむことはない。私も、こうやって貴様に寄り添おう」
最後にフレアは、繭状態の少女を抱き枕のようにガッシリと抱え込み、満足げに目を閉じた。
(……あったかい。これなら、もう迷子にならない)
愛の重みと物理的な拘束の重みに包まれながら、深い安堵と共に眠りについた。
男も魔物も自身の本能さえも寄せ付けぬ鉄壁の守り。
だが次回、最も原始的な『生理現象』が、その守りを打ち破る。




