第十話 やはりあなたはわたしの太陽。凍えた心は熱に溶かされて
――漆黒の闇。
意識の底で、少女はただ静寂に包まれていた。
もう、痛みも寒さも感じない。
最後に思ったのは、大好きな騎士のこと。
嘘つき。
でも、大好き。
このまま、誰にも知られずに消えていく。
そう思った、瞬間だった。
――ガシャァァァンッ!
突如、玄関の扉が爆発のような勢いで開かれた。
蝶番が悲鳴を上げ、積み上げられた椅子や傘立てが盛大に崩れ落ちる。
「小さいのぉぉぉーーーッ! 今戻ったぞ! 寂しかったろう、辛かったろう! このフレア、あまりの心配に査問会を『腹痛』という古典的な理由で早抜けして飛んで帰ってきたぞ!」
その声を聞いた瞬間、死にかけていた少女の視界が、ほんのりと明るくなる。
(……あ。フレアさん、帰ってきた……)
フラリと上体を持ち上げ、どうにか迎えようとする少女。
だが、フレアはその顔を見た瞬間、血相を変えて駆け寄った。
「……っ!? おい、小さいの、その顔色は……。いかん、ひどく衰弱しているではないか!」
フレアは慌てて少女を抱き上げた。
腕の中の体が、恐ろしいほど軽い。そして、冷たい。
あと数分もすれば消えてしまいそうだ。
「冷たい……! 脈も弱い! 一体何があった! やはり、私がいない間に不逞な輩が侵入したのか!? いや、結界に反応はなかったはず……!」
フレアの声が震えている。
そして、彼女の視線が部屋の惨状をとらえた。
「これは……ッ!?」
窓枠には何重にも貼られた目張り用の粘着布。
立てかけられた寝台の詰め物。
玄関には、なぎ倒された椅子や傘立て。
足元で、中身の飛び出した弁当箱が転がっていた。
丹念に時間をかけて火を通しただろう煮込みが、床の泥にまみれて汚物のように散らばっている。
そして、落ちていた一枚の紙――『拒絶』。
「私がいない間、貴様はずっと戦っていたのか……? 見えない『恐怖』と、たった一人で!」
「……(ふるふる)」
少女は首を振った。
違う。ただ、寂しかっただけ。
だが、フレアは涙を流しながら、その小さな頭を抱きしめた。
「すまぬ……! こんな小さな手で、必死に城を守ろうとして……! 私が愚かだった。貴様を『安全な家』に置いてきたつもりで、その実、この暗闇の中に置き去りにしていただけだったのか……! こんな冷たい場所に、一人きりで……!」
(……違う、フレアさん。わたし、なんだか、すごく、寒くて……)
力なく手を伸ばし、フレアの冷たいブレストプレートに触れた。
硬い金属の奥に、やわらかな温もりを感じる。
ああ、これが欲しい。この温かい場所にいれば、楽になれる。
だが、フレアは混乱のあまり、少女の素振りに気づかない。
「すぐに医者を呼ぶ! いや、私が背負って連れて行く! 王都一番の名医に診せるのだ! しっかりしろ! 死ぬな、死んではならん!」
そのままフレアが踵を返し、外へ出ようとした、そのとき。
もうろうとした意識の中で、少女の背筋が凍った。
(だめ……!)
もし医者に見せれば、服を脱がされる。
背中の小さな羽の跡も見つかるだろうし、心音だって人間とは違うかもしれない。
そうなれば、「魔物」だと、バレてしまう。
さらに、妄想が入り混じった恐ろしい想像がよぎる。
あの市場の男たち。教会の司祭。
自分の正体を暴き、石を投げ、追いかけ回し、欲望の目で見てくる人間たち。
(外に出たら、またあんな目に遭う。……きっと殺される!)
のどの奥で、言葉にならない悲鳴を上げた。
声帯が引きつり、ヒューっというかすれた音だけがもれる。
残ったありったけの力を振り絞り、フレアの胸をドンと押し返した。
そして、その腕から転げ落ちるように床へはい出した。
「な……っ!?」
フレアが驚きに目を見開く中、涙を流しながら、必死に首を左右に振った。
後ずさり、部屋の隅へと逃げようとする。
その際、背中を隠すように、壁にギュッと体を押し付けた。
ガタガタと震えながら、拒絶の意思を示す。
(いやだ、行きたくない! お願い、どこにも連れて行かないで!)
「小さいの……? なぜだ、なぜ逃げる? 私は貴様を助けようと……」
フレアの手が空を切る。
唐突に、フレアの脳内で、すべてが最悪の形でつながった。
『行きたくない』『怖い』『知らない人に触られたくない』
「……嗚呼、なんたること」
フレアはその場に崩れ落ちるようにひざをついた。
やるせなさに染まった声がもれる。
「私の不在が、この子の心をここまで追い詰めていたとは……! 医者に見せるということは、即ち『知らない男』に肌を晒すということ。それが、傷ついた幼子にとって、どれほどの苦痛か……私は、そんなことにも気づかず、無理強いしようと……!」
フレアは、外へ向かおうとした足を止め、ゆっくりと引き返した。
「済まぬ、私の落ち度だ……! 貴様を一人にした私が、この世で一番の愚か者であった! もういい、医者などいらぬ! どこへも行かなくていい、誰もこの部屋には入れさせん!」
フレアは少女を強く抱きすくめ、その震えを鎮めようと必死に背中をさすった。
「私が守る。貴様が怖がるもの全てから、私が盾となろう。だから、泣くな……!」
(フレアさん……)
フレアの首元に顔を埋め、声を出さずに、わんわんと泣きじゃくった。
その間にも、密着した箇所からフレアの熱い生命力が少女へと流れ込む。
それはただの体温ではなかった。
火のように熱く、蜂蜜のように甘い、高密度の何か。
吸精種にとっての「極上の食事」が、枯れ果てた血管へと奔流となって注ぎ込まれていく。
(……甘い。……おいしい)
少女の中心にあった見えない亀裂が、黄金の蜜で満たされていく感覚。
飢えていた細胞の一つ一つに、命が戻っていく。
手足の先まで血が通っていく。
視界がはっきりと形を成し、凍えていた魂が再び灯を取り戻す。
無意識に、フレアの首筋に顔を寄せ、深く息を吸い込んだ。
――もっと欲しい。この人の全部が欲しい。
渇望は、流れ込むいのちで優しく満たされ、やがて甘い睡魔へと変わっていった。
……やっぱり、フレアさんと一緒にいれば大丈夫。
フレアの腕の温もりに包まれ、漏れ出す精気を貪るように吸い込みながら、安らかな眠りに落ちていった。
しばらくして。
少女の呼吸が安定し、静かな寝息を立て始めたのを確認して、フレアはつぶやいた。
「……やはり、この子の心の穴を埋められるのは私だけなのだな」
その碧の瞳から、先ほどまでの迷いは消え失せていた。
代わりに宿るのは、静かな、しかし深い「決意」。
薄暗い部屋の中で、切れ長の瞳が見開かれ、異様に爛々と輝いている。
「医者にも任せられぬ。男たちには指一本触れさせぬ。他の誰にも守れぬ。……ならば、答えは一つだ」
フレアは、眠る少女の小さな手を、傷つけないように注意深く両手で握り込み、己の運命を決める誓いを立てた。
「私が、貴様の全てになる」
誓いを立てた直後、フレアの行動は早かった。
彼女は少女をベッドに寝かせると、部屋中のクッション、毛布、ぬいぐるみ(いつの間に買ったのか)をかき集め始めた。
「隙間風一本たりとも許さん。冷気も、孤独も、二度とこの子の肌には触れさせん!」
バサァッ! ボフッ!
フレアは豪快かつ繊細に、少女の周囲に壁を作り始めた。
それはもはやベッドというより、巨大な鳥の「巣」だった。
少女を中心に、半径二メートルがふわふわの要塞と化す。
「よし。そして仕上げは……私だ」
フレアは鎧を外し、薄着のガウン姿になると、その「巣」の中に自らもぐり込んだ。
少女の背後からおおい被さるように腕を回し、自分の体温で完全に包み込む。
これなら、どんな悪夢も近づけまい。
(……ん……ふれあ、さん……)
口の開閉でのみ寝言を漏らして、少女が身を寄せてくる。
その愛らしさに内心で絶叫しながらも、フレアは守護者の顔でその頭をなで続けた。
だが、フレアは決して楽観視していたわけではない。
少女の症状――彼女の認識では『孤独による衰弱』――が、自分が寄り添うだけで完治するかは未知数だ。
最悪の事態に備え、専門家の知恵は必要。しかし、男の医者は論外。
フレアは寝室の机に向かい、羊皮紙を広げた。
脳裏に浮かぶのは、学生時代からの悪友であり、今は辺境で診療所を開いている一人の女医の顔だった。
(あやつなら、口は悪いが腕は確かだ。何より、男に媚びぬ鉄の女だ……)
さらさらとペンを走らせる。
『至急、頼みたいことがある』
それは、誇り高いフレアが初めて他人に助けを求める、必死の救難要請だった。
少女の涙は、フレアの心に深い傷を刻んだ。
「二度と一人にしない」――その誓いは、やがて一国を揺るがす決断へと変わる。
次回、フレアが提出した一枚の辞表が、激震を走らせる。




