第九話 離れるだけで息ができない。孤独という名の誤謬
勇者が王都の星になった、その数時間後。
屋敷の前に、王城からの使いが並んでいた。
「フレア・イグニス団長! 至急、出頭してください!」
「勇者への暴行、国宝級魔道具の破損、および市民への暴行、その他諸々の件で査問会が開かれます!」
フレアは舌打ちをした。
勇者を撃退し、ようやく平和な時間が戻ってきたと思った矢先だ。
「ええい、五月蝿い! 少し待っておれ!」
フレアは使者を怒鳴りつけると、屋敷の中へ戻り、少女の両手を強く握った。
いつになく熱く、そしてわずかに震えているように見えた。
「すまぬ、小さいの。少しだけ……少しだけ留守にする」
その表情は苦渋に満ちていた。
だが、さすがに今回は無視できない。なにしろ国王陛下直々の呼び出しだ。ここで逃げれば、それこそ騎士団すべてを敵に回すことになる(まあ、勝てるだろうが、この屋敷が戦場になるのは避けたい)。
「だが案ずるな。私の功績と発言力を持ってすれば、こんなものは形式的な手続きに過ぎん。すぐに終わらせる」
「……」
「一日だ」
フレアは人差し指を立てた。
「一日で戻る。日が変わるころには必ず帰宅する。だから、それまで良い子にして待っていてくれ。戸締まりは厳重にな。誰が来ても開けるなよ?」
少女は不安げな瞳で、それでもフレアを信じてコクンとうなずいた。
フレアはその頭を一度だけ名残惜しげになでると、マントをひるがえして戦場(査問会)へと向かっていった。
*
一日目。
少女は張り切っていた。「留守番くらいできる」と証明したかったのだ。
彼女はいつものように、モップで廊下を拭き、洗濯物を畳んだ。
フレアさんはすぐに帰ってくる。
夜、一人でベッドに入るとき少しだけ怖かったけれど、フレアの匂いが染み付いた枕にしがみつけば眠ることができた。
まだ大丈夫。明日の朝にはフレアさんが帰ってきていて、「よく頑張ったな」とほめてくれるはずだ。
そう信じていた。
――ガサッ。
深夜、窓の外で不穏な物音がした。
乾いた葉を踏むような、あるいは何かが外壁を引っかくような音。
(……ただの、猫だ。風で枝が揺れただけだよね?)
そう自分に言い聞かせても、体が震えて止まらない。
なんだかすごくお腹が空いて、全身がどんどん冷たくなっていく。
普段なら気にならない音が、どうしても怖い。
(……いやだ。獣だ。外には恐ろしい獣がいて、私を見つけて、食べにくる)
フレアが言っていた。『街は獣の群れ』だと。
そんなはずはない。ここは世界一安全な場所なのに。
分かっているのに、怖くて、怖くて、涙が止まらなくなった。
あの地図に書かれた赤いバツ印が、現実の闇に浮かび上がってくる。
少女は飛び起きた。心臓が早鐘を打ち、冷や汗が背中を伝う。
怖い。怖い。フレアさんがいない「守りのない城」なんて、ただの張りぼてだ。
少女は震える手で窓をおおう厚手の布を閉め切ると、工具箱から目張り用の粘着布を取り出した。
ビッ、ビッ、と音を立てて、窓枠の隙間を塞いでいく。
さらにその上から、予備のシーツを釘で打ち付けようとして、カナヅチを持つ手が震えて上手く打てない。
それでも安心できず、ベッドのマットレスを引きずって窓際に立てかけた。
重い。体が鉛のように重い。
息が切れる。視界がチカチカする。
ただでさえ少ない精気と体力を、この無意味な「追加工事」で無駄遣いしてしまったことに、彼女は気づいていなかった。
結局、一睡もできないまま夜が明け、二日目の朝が来た。
フレアは、帰ってこなかった。
(……おかしいな)
少女は窓の外を見上げた。
不安と共に、体の奥底から「寒気」がはい上がってくるのを感じた。
お腹が空いて、力が抜けていく。
指先が冷たい。心臓が早鐘を打つ。世界が少しずつ、彩度を失っていくような感覚。
(怖い……寒い……)
少女はリビングの隅でひざを抱えた。
そのときだった。
コン、コン。
玄関の扉が叩かれた。
「……いるんでしょう? カレンです」
少女はビクリと肩を跳ねさせた。
カレンさんの声だ。
普段なら安堵するところかもしれない。彼女は優しそうな人だし、フレアの友人だと知っている。
(カレンさんなら、大丈夫かな……?)
一瞬、こごえた心がゆらぐ。
だが、その甘い期待を、脳内に響くフレアの声がかき消した。
『甘いぞ! それは演技だ! 敵は善人の顔をして近づいてくる!』
『敵は言葉巧みにドアを開けさせようとする!』
『決して耳を貸すな!』
『お菓子(甘い言葉)は罠だ!』
あれは、フレアを安心させるために付き合ってあげていただけの「ごっこ遊び」だったはずだ。
だが今の彼女には、その極端な教えこそが唯一の頼りになってしまっていた。
(……罠だ)
少女の虚ろな瞳から、生気が消えた。
あれは敵だ。フレアさんがいない隙を狙って、わたしの聖域を壊しに来た侵略者だ。
少女はフラフラと立ち上がると、玄関へと向かった。
そして、のぞき穴の下の隙間から、一枚の紙をスッと差し出した。
「ん? これは……」
ドアの向こうでカレンがそれを拾う気配がする。
そこには、震える文字(※フレアが書いた手本をなぞったもの)で、こう記されていた。
『 拒 絶 』
「……またこれですか」
カレンのあきれたような、しかしどこか悲しげな声が聞こえた。
「フレアが捕まって帰れないんです。心配だから、食事を持ってきたんだけど……。開けてくれない?」
(甘い言葉だ! だまされないぞ!)
少女は涙目で、必死に近くの椅子を引きずった。
ズズズ……ガタン。
ドアの前に置く。即席の障害物だ。
「……そんなに私が信用できませんか?」
カレンの声が遠ざかる。
無理にこじ開ければ、それこそ少女を怖がらせてしまう。
カレンは良識ある大人だった。だからこそ、引いてしまった。
「わかりました。無理強いはしません。……食事、ここに掛けておきますね。気が向いたら食べてください」
カチャリ、と何かがドアの取っ手に掛けられる音がした。
そして、足音が遠ざかっていく。
少女は積まれた家具に背中を預け、ズルズルと床に座り込んだ。
守りきった。
バリケードは完成した。誰も入ってこられない。
……誰も、助けに来られない。
その事実に気づいたのは、熱で意識がぼんやりし始めた夜のことだった。
(……ぁ……)
カレンの悲しそうな声が、耳の奥で何度も繰り返し響く。
唯一の救いの手を、自ら拒絶してしまった。
後悔しようにも、もう体には立ち上がる力も残っていなかった。
夜が更けるにつれ、高熱が少女の意識を狂わせた。
熱いのに、寒い。
体の芯が凍えているのに、皮膚が焼けるように熱い。
ベッドにたどり着くことすらできず、冷たい床の上でうずくまりながら、少女は悪い夢を見た。
遠い昔の記憶。
人間だったころの自分が、誰かの手を求めて泣いている。
灰色の街並み。行き交う人々は皆、自分を無視して通り過ぎていく。
――寂しい、寂しいよ。ねえ、誰かわたしの声を聞いて。
場面が変わる。暗い森の中。
魔物として生まれ変わり、本能のままに愛を求めたけれど、全ての生き物が自分を恐れて逃げていく。
得体の知れない魔物を見る目。恐れと嫌悪の視線。
――寒い、寒いよ。どうしてわたしを避けるの? わたしはただ、温もりが欲しいだけなのに。
そして、フレアの記憶。
いきなり現れて、乱暴に抱きしめてくれて、温かくて、やわらかくて。
初めて、自分を「魔物」としてではなく、「守るべきもの」として見てくれた人。
――やっと、見つけたのに。
『一日で戻る』
あの言葉は嘘だったの?
わたしがいけない子だから、捨てられたの?
嫌だ、嫌だ。一人にしないで。
視界の端で、幻覚の影が踊る。
窓の向こうから、無数の目が覗いている気がする。
フレアが作ってくれた要塞が、今では少女を閉じ込める牢獄のように感じられた。
*
そして、三日目。
少女の時間は、ゆっくりと終わりを迎えようとしていた。
世界は闇に包まれていた。
実際には外は晴天だったが、少女の視界にはもう、灰色の霧しか映っていなかった。
カサカサに乾いた体が、限界を訴えていた。
体温が感じられない。手足の感覚がない。
思考がまとまらない。
のどが渇いても水を取りに行く気力すらない。
布団の中で丸くなり、ただ時が過ぎるのを待った。
(……ふ、れ……あ……さ……)
カサついた唇が、音のない助けをつむごうとして、力なくふるえる。
助けて。誰か。
でも、外は敵だらけ。
教会も、お城も、街の人も、カレンさんでさえも。
誰も信じられない。
信じられるのは、あの金色の騎士だけ。
ふと、少女は思い出した。
以前、フレアがくれた「おまもり」のことを。
『本当に困ったとき、これを鳴らせ。私がどこにいても駆けつける』
そう言って渡された、小さな金色の鈴。願いを込めれば、遠く離れたフレアに信号が届くはずのおまもり。
少女は震える手で、ポケットから鈴を取り出した。
仕事の邪魔になるから、絶対に使わないと決めていたそれ。
これが最後の希望。
フレアさん。助けて。怖いよ。
(……鳴って)
祈りを込めて、その願いを注ごうとする。
しかし――鈴は沈黙したままだった。
光りもしない。音も鳴らない。
今の彼女には、お守りを動かすだけの力なんて一滴も残っていなかった。
カラン……。
指先から力が抜け、鈴が床に転がり落ちた。
コロコロと転がって、ソファの下の暗がりへと消えていく。
呼気だけが、やるせないため息となって漏れ出た。
手を伸ばそうとしたが、指一本動かなかった。
ただ、遠ざかっていく金色の輝きを目で追うことしかできない。
ああ、ダメなんだ。
もう、声も届かない。願いも届かない。
わたしはここで、誰にも知られずに消えていくんだ。
かつて森の中で、誰にも愛されずに死を覚悟したときのように。今度もまた、一人ぼっちで。
少女はリビングの中央で、フレアが脱ぎ散らかしていたガウンに埋もれていた。
そこから微かに香る、鉄と汗と、お日様のような匂い。
それだけが、彼女をこの世界につなぎ止める命綱だった。
(一日で戻るって言ったのに……)
(うそつき……)
涙も枯れ果てた瞳が、ゆっくりと閉じられる。
意識が深い海の底へと沈んでいく。
――次に目が覚めたとき、目の前に大好きな人の顔がありますように。
そんな、叶うかどうかも分からない祈りを最後に、少女の時間は停止した。
届かなかった祈り、途切れた意識。
だが、その絶望を切り裂くように、最強の足音が帰ってくる。
次回、過保護の暴走が、少女の孤独を物理的にも精神的にも(主に物理で)埋めつくす。




