皇帝の追憶 後編
レーテが妃になって、病に伏せて、二十年が経った。
レーテに会えない日々は、恐ろしく長い時間だった。だが、その愛情が褪せることはない。
レーテの方にはもう、愛情は残っていないかもしれない。それでも、アダルセリスは構わない。退位した後からでも、また一から信頼を築き直せふように、努力するつもり。
ただ、憎たらしいものもある。レーテにではない。余計な死者を出した一部の異母兄達と、レーテを妃に望んだ自分。いっそ、婚約者と添い遂げることを諦めて、手を離すべきだった。他の男に任せればよかった。たとえ夫にはなれなくとも、友人のままではいられたかもしれない。
何度そう思っても、やはり、レーテの隣に自分以外の男がいることは許せない。レーテに関しては、今は見守りの態勢。動くのは、退位する時。もうそろそろ。
そんな中で、レーテから「話がある」と連絡が来た。レーテから二十年ぶりかの誘いが来たことは、飛び上がりそうなほど嬉しかった。だが同時に、その内容を考えて、気が沈む。ガルシア家に戻りたいとか、修道院に入りたいとか、そう言われたら、自分はどうするのだろうか。退位後、一緒にいてほしいと言ったら、レーテはどうするのか。
聞きたくなくても、会いたい。会って話すことを望まれただけで、勝手に少し、許された気になった。ずいぶんと単純だと自嘲するが、もう自分でもどうにも出来ない。浮かれていた。
仕事を後回しにして、宰相や文官に文句を言われながら、執務室を出た。
数年ぶりに会ったレーテは、相変わらず痩せていた。
元は、ややふくよかなぐらいだった。だが、側妃になってから、どんどんと痩せた。それでも、その美しさ、愛しさは変わらない。長命な一族である皇族のアダルセリスと同じように、結婚当初からの若さを保っている。
数年前も、数年ぶりにレーテを見て驚愕した。うんと痩せた。だが、顔は、若さは変わらないことに。
実は皇族の落胤ではないかと、内密に調べたこともある。しかし、そんなことは一切なかった。
母方の実家に皇女が降嫁したことは何度かあるが、数代以上前の話だ。その皇女とレーテの間にいる、レーテの母を筆頭にした先祖達も普通の人間と同じく老いて、年齢二桁で死んでいる。
次に父方、ガルシア伯爵家の先祖を調べて、アダルセリスはまたも驚いた。レーテの祖父、先々代伯爵トールを含め、数代に一度の頻度で、歴代当主の中に、皇族と同じく長命で老いが緩やかな者が複数いた。その理由は調べてもわからない。
ただ気になったのは、ガルシア家が主に長子相続をしていること。性別は問わない。過去、どこかの研究家が出した統計を見ると、ガルシア家がダントツで、女性当主が多い。それでも、数千年にも及ぶガルシア家の歴史から見れば少ないが。
ふと、過去に浮かんだ疑問を思い出した。先帝ディオレサンスの時代まで、グランツ帝国は基本的に男子相続。皇位継承権も皇子のみが持っていた。だから、末っ子でも皇子だったアダルセリスに皇位が転がってきた。
貴族も、たとえ長子が女だったとしても、その下に男が生まれれば、爵位はその弟の方へ行く。だが、女一人しか生まれておらず、弟が生まれる可能性があるというのに、レーテは生まれてすぐにガルシア家の跡取りと定められた。結局、後に生まれたのは妹一人だけだったから、そこまで深くは考えなかったが。
「ガルシア家の長子になにか、秘密がある……?」
そう予想しても、それ以上はわからなかった。
レーテは相変わらずベッドの上の住人だったし、顔色も悪い。だが、彼女の話の内容は離縁の申し入れなどではなかった。教会で、光の女神から神託を賜ったかもしれないと言う。
「モンスターインベイドが近いうちに来ると。それも、このグランツを滅ぼせる規模の」
「ですが、本物の神託かはわかりません。わたしの幻覚かもしれませんし」
「それはないだろう」
そこまで重篤に心を病んではいない。……はず。
アダルセリスはレーテの話を聞いて思い出した。魔界で魔物の動きが活発になっているという報告を。だから、レーテの言葉を信じた。
いや、そうでなくとも、レーテの言うことならばなんでも信じたい。皇帝としてではなく、個人的に。
しかし、何故、光の女神ルミナスは、今代の聖女であるルチアではなく、一光魔法の使い手に過ぎないレーテに神託を降ろしたのか。女神がレーテに言った「オスカルの乙女」、「オスカルの後継者」とは、どういう意味なのか。わからないことがある。
それから、アダルセリスは騎士、軍人、魔法師、医師、光魔法の使い手を招集。魔界との国境、フォーサイス辺境伯爵領に出兵した。メンバーの中には、皇后でもある聖女ルチアと、彼女が産んだアダルセリスの子供達ーー光魔法の使い手でもある皇太子クリストファーと、皇女マリアーネもいる。
道中には、懐かしきガルシア領がある。
本来ならば、アダルセリスはこの地の女領主の夫として、レーテを支え、ガルシア領を守るはずだった。だからこそというわけでもないが、モンスターインベイドは早々に食い止めなければいけない。ガルシア領、延いてはこの国と民を守る為に。
だが、魔界から出て来た行列は、今までにない規模のものだった。数も、強さも。これがグランツ帝国を滅ぼす。なるほど、想像に難くない。明らかに劣勢だった。
レーテが来るまでは。
白馬に乗った黒髪の美少女は本来なら、大層美しく、様になっていただろう。
ただ、美少女――レーテが乗っていたその白馬に、優美さは欠片もない。筋骨隆々の屈強な巨体は、なにも知らない者が見れば、それこそ魔物に見える。アダルセリスは一目でガルシア産の馬だと気が付いたが。
それからは怒涛の展開。
レーテが跪き、祈りを捧げると、曇天から一条の光が差して、レーテを照らした。その姿はなにより神々しく、誰もが息呑む。
「――雷よ」
かと思えば、魔物の大行列に雷が落ちた。一つだけではない。無数に。レーテがよく、そこらの刺客や魔物にやっていたのとは、規模も段違い。雨のように、黄金の雷が降り注ぐ。
アダルセリスと同じく瑠璃色のはずの瞳は、黄金に染まっていた。それを、アダルセリスは幼少期から度々目にしている。レーテが雷を落とす瞬間に、色を転じて輝く瞳が、アダルセリスは一等好きだ。
「そういえば、古い文献で読んだことがあります」
不意にそう言ったのは、クリストファーだった。
「グランツ帝国が興る前、この土地で魔界から魔物の進行を止めていた一族が、オスカル――神の槍と呼ばれていたと。彼らは光の女神より、雷の権能を与えられたとも。そして、オスカルはグランツ帝国建国と共に別の名に変え、今もグランツ国内から魔界に睨みを利かせていると」
アダルセリスは息を呑んだ。
それが答えだ。オスカルこそ、ガルシアのかつての名。雷の権能を女神に与えられたーー皇族、アヴァロン家と同じく女神の加護を持つから、レーテもアダルセリスと同じく長命で、その分、老いが遅いのだろう。
だが、その権能は歴代当主の中でも数代に一人にしか発現しない。ゆえに、それ以外の者は普通の人間と同じなのだ。
間もなく、雷が止む。モンスターインベイドの侵攻と共に空を覆った分厚い雲が、風に乗って消えていく。
グランツ帝国の滅びは、避けられた。
安堵と高揚が、残されたグランツ軍に広がる。女神の奇跡だと、誰かが言った。
その時、
「レーテ!?」
レーテの身体が傾く。地面に倒れる前にアダルセリスが受け止めた。その顔色は蒼白く、硬く目を閉ざしている。アダルセリスの血の気も引いた。
「おい、レーテ!! しっかりしろ!!」
「陛下、揺さぶるのはちょっと……」
クリストファーが慌ててアダルセリスを止める。
「治癒!! 治癒魔法!!!!」
半ばパニックになっているアダルセリスは、皇后も子供達も聞いたことがないほどの大声が出ている。
「陛下、落ち着いてください。今かけますから。母上とマリアも手伝ってください!」
「わ、わかりましたわ……!」
聖女とその子供達、三人で、レーテに治癒魔法をかける。
だが間もなくに、怪我人の治療に当たっていた医師が駆け付けた。アダルセリスの護衛騎士の一人が担いで来た。
この騎士、ルドルフは、アダルセリスが幼い頃から仕えている最古参。なので、レーテのこともよく知っている。二十年も皇帝の来訪がなく、妃の中で唯一子供もいない、「忘れられた妃」と揶揄されていても、アダルセリスの寵愛がレーテにあることも。
「よくやった、ルドルフ――って、男じゃないか!」
「我儘言わないでくださいよ! 緊急事態なんですから!」
最愛の妃に、診察目的だろうが他の男が触れるなんて――と戦慄くアダルセリスを押さえられるのも、ルドルフぐらいだ。
「あー、これは、過労ですね。あと、魔力を一気に消費し過ぎたんでしょう。でも、枯渇しているわけではないので、寝ていれば良くなります」
アダルセリスは胸を撫で下ろす。
今のレーテは身体が弱いのだ。最悪、命に関わっているのかもしれないと思った。レーテを失うかもしれないと恐ろしかった。
「念の為、すぐにラピスラズリ宮に帰そう。空飛ぶ馬車を用意しろ」
空飛ぶ馬車。もしくは、ペガサスの馬車。その名の通り、ペガサスが引く、空を走る馬車だ。障害物がない分、早く着く。主に、遠距離での移動に使われることが多い。
アダルセリスは眠るレーテと護衛のルドルフを連れ、空飛ぶ馬車で一足先に帝都に戻った。
それから数日後、アダルセリスは遅れて帝都に帰って来たクリストファーと共に、グランツ帝国一の大きさを持つ大教会へ足を運んだ。
「ここの書庫で読んだんです」
目的は、オスカルについて調べる為。クリストファーが昔、読んだという書物を先に探してみる。
「あ、これですね」
一時間ほど籠ってようやく、クリストファーが見つけた。
元々、魔界からやって来る魔物を討伐する為に、光の女神ルミナスが雷の権能を与えた一人の男がいた。それが、聖人オスカー。その雷の権能を受け継いだ末裔が、オスカーの後継者、オスカルを名乗るようになった。
オスカル一族はその後、光の女神の加護を持つ男、グラディス・アヴァロンに忠誠を誓い、グラディスが初代皇帝となって興したグランツ帝国で、爵位を賜った。その際に、名をガルシアに改めた。
ーーと、古文書に記述されている。
「カッコいいですよね! なんか、ロマンって感じがします! その末裔で、雷の権能を継いだのがレーテ妃殿下なんですね!」
クリストファーがちょっと興奮したように言う。
「そういえば、おまえは冒険者になりたいとか言っていたな」
アダルセリスが言うと、クリストファーは僅かに目を見張る。だが、すぐに笑顔になって頷く。
「はい! いつか皇帝になったら、生前退位して冒険者になるつもりです」
「現在進行形だったか」
「でも、陛下が死ぬまで皇帝なのなら、私は皇帝にならずに息子に継承権を譲ってもいいですか?」
そういうことは稀にある。寿命は長いし、その分、長い期間、繁殖能力がある。だが、皇族という存在な為か、結婚して子供を作るのは早い。その為、生涯皇帝を務めたら、玄孫以降の子孫が生まれ、成人して、皇位を継げる状態にあったりする。それで、寿命が数十年違う程度の子や孫を通り越して、先が長いその下の子孫に皇位を譲った皇帝が、複数いる。
「それは無理だな。私は近いうちに退位するつもりだ」
「あ、そうなんですね」
まだ、限られた側近にしか言っていない。だが、クリストファーはあっさり受け入れた。アダルセリスの寵愛がレーテにあると知る者は、病床のレーテにこれ以上の心労を与えない為にも、アダルセリスが早期に退位し、レーテ以外の妃とは離婚するのだろうと察しているからだ。
そして、アダルセリスは生前退位後、レーテと共に第二の人生を歩みたい旨をレーテに伝えた。モンスターインベイドへの勝利を祝うパレードの道中で。
「レーテ。愛している」
「わたしも。わたしも、ずっと、愛してる」
アダルセリスは目を見開く。
レーテが自分も離婚したいと言うのなら、嫌だけど受け入れるつもりだった。だが、アダルセリスはずるいから、レーテの弱味に漬け込んで、それでもレーテがアダルセリスを拒むのならのこと。
雷の権能を継いだレーテは、皇族と同様に長寿だ。その寿命が皇族と同じなのか、それよりも少し短いのか、長いのか。それはわからない。同じく長寿っぽかったレーテの祖父、トールは心臓病により急死してしまったので。
だが少なくとも、レーテの両親や妹、信頼する侍女達も、レーテよりも先に死んでしまうだろう。そうなれば、人付き合いが苦手なレーテが頼れるのは、アダルセリスぐらいだ。
それについて説く気満々だったのに、あっさりと受け入れられたことに驚いてしまった。
「えっ。ほ、本当か?」
自分の幻聴かと思って、つい、聞いてしまったぐらい。しかも、レーテからアダルセリスへの愛情は、まだ残っていると言う。
「なぁに? 疑うの?」
よそよそしい敬語が消え、結婚前の親しげな口調に戻った。くすりと笑うその顔に、かつて見た嫌悪はない。
ここが人前じゃなければ、レーテの前でもなければ、多分、泣いていた。
「ごめんね。わたし、ずっと、嫌なことばかり考えて、アディさまを拒絶してた」
レーテが顔を逸らす。他意があるわけではない。今はパレード中。集まった民衆に微笑んで、手を振るのがお仕事。なのに夫婦で見つめ合っているわけにはいかないと、思い出しただけだろう。
「でもなんだろう。最近はそうでもないんだよ。嫌なこともあるし、子供の頃に思い描いていた未来とは全く違うものだけど、大切なものは変わらないんだよね。それを守る立場にあることも、同じ」
一瞬だけ、レーテが振り返る。アダルセリスと同じ、金の粉を散らした瑠璃色の瞳が、溢れるような希望を宿して輝く。かつてガルシア領で、一緒にここを守ろうと約束した時と、同じように。
まるで、憑き物が落ちたような。後から、その印象に間違いはなかったと知る。
もうそこには、半ば無理矢理、妃にされた少女はいなかった。いるのは、女神に望まれ、天に轟く雷を継承する、生気に満ちた女性。
もう二度と、彼女を忘れる者はいないだろう。かつて、鮮烈なその光に、アダルセリスが魅入られたように。