皇帝の追憶 前編
千年帝国と呼ばれる国がある。光の女神ルミナスの加護を与えられたとされる、大陸最古の国。その皇族、アヴァロン王朝の血族もまた、光の女神の加護を賜り、長命である。
皇帝アダルセリスは本来ならば、皇帝になるはずがない人間であった。
母、サティファは、父である先帝、ディオレサンスが侵略した国の元王女。捕虜のようにこのグランツ帝国へと連れて来られた。それだけではなく、美貌を見初められたことから、離縁された第五側妃の後釜にされ、皇子を産んだ。だが、故郷と家族を奪われ、その仇に良いようにされた母は心身を壊して、早々に亡くなった。
その直後のこと。アダルセリスの婚約が決まった。 相手は、生まれたばかりの伯爵令嬢。アヴァロン王朝と同じく、建国以来から続く太古の血筋を引き、その証たる瑠璃色の瞳を持つ。彼女、レーテ・ガルシアは、未来の女伯爵になることが内定していた。
婚約が決まってから、アダルセリスはガルシア伯爵家が治める領地で、婚約者と共に育てられることになった。
既に母は亡く、後ろ盾もない。ならば、将来、女伯爵の夫として、妻と共に治める土地に行かせた方がいいだろうという考え。皇位争いから、さっさと手を引いてくれという思惑もあったかもしれない。参加する気は元からなかったが。
ガルシア領での生活は一転、穏やかなものだった。歳下の婚約者は未来の妻というよりかは、妹のようで可愛らしい。自身に弟妹がいない、以前に、兄姉とも全く親しくないというのもあるだろう。
「あじゃりゅちぇりちゅ」
「アダルセリス」
「あー」
「あーじゃない」
レーテはアダルセリスの名前が全く言えなくて、試行錯誤を重ねて「アディ」と呼ばせることにした。考えたいくつものあだ名のうち、言えたのがそれだけだった。「アー」は論外。
だが気が付けば、身分というものを理解したのか、ただの「アディ」から「アディさま」になっていた。
更に、姉よりも滑舌が良かったはずのレーテの妹、オルテンシアもそう呼び始めた。ちょうど、大好きな姉の真似をしたいお年頃だったようだ。
ただ、レーテが歳の割に発育が良いのは許せなかった。アダルセリスの方が四歳も年上なのに、身長はほぼ同じ。レーテに片想いをしていた領民の少年からは、歳下の女に背丈を越されていると馬鹿にされたが、絶対、越されてはいない。そうに決まっている。
十を過ぎる頃になると、アダルセリスの命を狙う暗殺者が差し向けられるようになった。皇子で皇位継承権を持つからと、一応学ばされた帝王学を、齢十歳ながら全て習得したことが漏れたのかもしれない。天才と名高い長兄、レオンバルトにも匹敵するのではないか、という声も密かにあるとか。中には、人間ではなく魔物を操って差し向けて来る者もいた。
だが、その全てが返り討ちにされた。アダルセリスの護衛騎士達がしたのではない。レーテが。
彼女は補佐系を得意とするはずの光魔法の使い手ながら、何故か攻撃系魔法に長けていた。その十八番とも言えるのが、雷。ただの電流ではなく、空から落とす。まるで、女神が罪人に下す神罰のように。
歳下の女の子に守られるのは癪だった。しかし、同時に、ただの妹的存在ではないのだと突き付けられた。普段はどこにでもいる少女。だが、誰よりも強く勇敢、敬虔な女神の信者として清らかで、神々しい。異性として惹かれるようになるのに、そう時間は掛からなかった。
それは、婚約者同士なのだからなんの問題もない。だが、ただの政略だ。数千年以上続く古き血を守る為に、同じだけ長い歴史を持つ末裔同士をくっつける。結末は同じ夫婦でも、中身は変えたい。同じだけの想いが欲しいと願うのは、人として当たり前ではないだろうか。
だが、個人的には特に苦労することもなく、レーテもアダルセリスに想いを寄せてくれた。多分、その時が一番幸せだった。手を繋いで領内をデートして、人目を盗んで抱擁し、口付けを交わす。その幸福は、レーテが長命のアダルセリスを置いて逝くまで続くと、信じて疑わなかった。
事態が急変したのは、アダルセリスが二十一歳の時。
初めは、皇帝であった父、ディオレサンスが戦死した。戦好きで、即位以来、周辺諸国に戦を吹っかけては戦火を広げた。だが、どこかの国に彗星の如く現れた傭兵に斃されたらしい。それは別に、そのうちあり得ると思っていた。戦とはそういうものだ。
跡を継いで即位するのは、皇太子となった長兄、レオンバルト。ほとんどの者に異論はなかった。ディオレサンスがめちゃくちゃにした周辺諸国との関係を結び直し、この国が必要以上に恨まれないように尽力した立役者でもあるのだから。しかし、父帝の喪が明け、即位する前に暗殺された。
首謀者は、第二皇子ピエール。彼は父親似で、大の戦好き。いつもディオレサンスについて出兵していたほど。暗殺理由は、平和の為に尽力してきたレオンバルトが皇帝になったら、戦が出来なくなると思ったから。ピエールは皇位継承権を剥奪され、辺境の離宮で生涯、蟄居する。
次の皇帝に選ばれたのは、第三皇子、リンクベルト。レオンバルトと同じく、皇后を母に持つ。
その妻となる未来の皇后は、元々レオンバルトの婚約者であった公爵令嬢、マルガレーテ・フェルスベルク。だが、フェルスベルクの白百合と名高い才色兼備の美女に横恋慕した二人の皇子がいた。
それが、第四皇子ノヴァーリスと、第五皇子グレーフィン。双子同士でもあり、共謀してリンクベルトを暗殺。しかしその後、どちらが皇帝となってマルガレーテと結婚するか揉め、仲違い。最終的に、互いが仕掛けた罠に引っかかり、揃って命を落とした。奇しくも、命日は同日となった。
そして、マルガレーテは三人の皇子を破滅させてしまったという自責の念から精神を病んだ。次期皇后の地位を辞して、自ら修道院に入った。
以上、一連の騒動により、皇位継承権を持つ皇子達はアダルセリス一人となり、彼が皇帝になることが決まってしまった。
本当ならば、レーテとの婚約も白紙になる予定だった。レーテはガルシア伯爵家を継がなければならない身。いや、それ以前に、レーテには皇后に相応しい才能も、地位もなかった。だが、それをアダルセリスは認められなかった。どうしても、レーテと、最愛の女性と結婚したかった。
ゴネにゴネて、第五側妃の枠をもぎ取った。だが、それから困った。ガルシア女伯爵となる為に生きて来たレーテに、それを蹴って自分と共に皇宮に来て欲しいと、言う勇気がない。
アダルセリスがレーテへの言葉を考えている間に、臣下達が動いた。レーテに第五側妃の地位を用意したと告げ、選択を迫った。他の男と結婚して女伯爵になるか、アダルセリスと結婚して側妃になるか。
結果、レーテは第五側妃になる道を選んだ。
しかしそれは、消去法のようなものだったと、アダルセリスは知っている。妹のオルテンシアが、継ぐ爵位を持たない侯爵家の四男と交際していると知っていたから。妹を溺愛するレーテならば、第五側妃という新たな道を示されたことで、妹とその恋人の為にガルシア伯爵家の次期当主夫妻という地位を譲ると。
そうして、アダルセリスはレーテと夫婦になった。子供の時から思い描いていたものとは、全く違う形で。
でも、問題ないと思った。アダルセリスに妻が六人いても、その寵愛は揺るぎないと自負している。アダルセリスの寵愛はレーテ・ガルシア、ただ一人だけのものだから。
だが、そんなことはなかった。レーテはアダルセリスが思うよりも遥かに潔癖だった。
不貞を蛇蝎の如く嫌っているのは知っていた。ただ、その理由を読み間違えた。敬虔な光の女神の信者であるレーテは、女神に永遠を誓って結婚した者がその契約に背くことを嫌悪していると思っていた。だが、そうではなかった。
実際は、ただ一人ではなく、複数に心や身体を与え、委ねることを嫌っていた。互いにただ一人であるべきだという思想があった。だから、重婚を許されている皇帝も、複数の妻を迎え、抱いた時点で、レーテの嫌悪の対象だった。
それにアダルセリスが気が付いたのは、レーテを妃に迎えて半年も経たない頃。とうとう、レーテに拒絶された時。
「体調が優れないから、今日は相手できない」
そう言われても、アダルセリスには仮病だとわかった。わからないはずがない。生まれてから一度も、病気も大怪我もしたことがないのだから。
だが、その嘘はいつの間にかに事実となった。
レーテは我慢したのだと思う。それがアダルセリスへの愛ゆえか、妹の為かはわからない。だが結局、母のように心身を壊した。
それから、アダルセリスはレーテの元に行くことをやめた。これ以上、嫌われたくなかったし、レーテの負担にもなりたくない。
せめてと、女神への祈りを毎週の習慣にしているレーテの為に、彼女に与えたラピスラズリ宮の敷地内に小さな教会を建てた。身体が悪くとも、気軽に教会に行けるように。
花も、毎週のように贈った。
「レーテには秘密にしてくれ。ただ、レーテの側に置いてくれるだけでいい」
そう、レーテの乳姉妹である侍女に頼み込んで。
だが、アダルセリスは皇帝で、レーテはその側妃。子供を産むどころか、皇族として公務をこなすことも出来なくなったレーテは、はっきり言って側妃にすら不適合。離婚するべきとの声が、多くの貴族や、他の妃達からも上がった。
アダルセリスはそれに対し、レーテの有用性を説き続けるしかなかった。ただでさえ稀少な光魔法、その中でも更に使い手が限られる攻撃系魔法の使い手。幼少期から、暗殺を狙われたアダルセリスを守り続けてきた実績がある。
レーテを知る古参の護衛達も証言し、後押しをしてくれた。まだ十にも満たなかった頃から、レーテはどの護衛騎士や魔法師よりも強かった。人間も魔物も、刺客全てはアダルセリスに指一本触れる前に無力化した。恐らく、このグランツ帝国で最も攻撃系魔法に長けている。
そこまで明言されれば、貴族達も黙らざるを得なかった。貴重な存在は手元に置いておくべき。今は使えなくても、近いうちにまた、使えるようになるだろうと。
だが、レーテは一向に回復の兆しを見せない。聖女であるルチアにも、レーテの病を癒してほしいと頼んだことがある。光魔法の適性があるレーテならば、自分で治せるだろうと断られたが。
その通りだ。何故、レーテは自らを癒さないのだろうか。離婚されたいから? そう、悩む日もあった。
レーテの家族、ガルシア家の者達にも、レーテとは離婚した方がいいと言われた。それは、レーテとアダルセリス、どちらの為も思って言ってくれたことだとわかる。ただ、アダルセリスはまだ、諦められなかった。
レーテは多分、アダルセリスが皇帝のうちは、良くならない気がする。
長男のクリストファーが、長兄レオンバルトを彷彿とさせるような天才だったこともあり、早期の退位を考えた。
皇帝は生前退位する場合、六人いる妃のうち、最低でも五人と離婚しなければならない。この国で重婚が認められているのは、現役の皇帝、ただ一人のみ。退位すれば、その対象から外れる。
アダルセリスはレーテ以外の妃と離婚するつもりだ。そして、レーテとやり直したいと思う。ただ一人の夫と、ただ一人の妻として。一から新しい夫婦として、関係を築き直したい。
だが少なくとも、皇太子クリストファーの成人まで待たなければいけない。その時、もうレーテは三十後半になる。
皇族のアダルセリスは、普通の人間よりも長寿で、それに伴って老いも緩やか。四十なんてまだまだ若い。
だが、皇族ではないレーテは違う。人生の半分近くを奪われて今更、第二の人生を始めてやり直そうと言われて受け入れられるものなのか。
しかし、そんな悩みを飛ばしたのは、レーテの父、ライス・ガルシアだった。
「陛下は将来、娘を必ず選んでくださると約束してくださいますか」
その問いに、アダルセリスは一二もなく頷いた。
「勿論だ」
「では、大変、手のかかる娘ですが、どうか、もう少しだけお待ちいただきたく思います」
この時は、父親ゆえ、娘のことがわかるのかと思った。
アダルセリスにも子供は複数いるが、ライスのように、純粋に彼らを愛し、理解することは難しい。妃達にも、彼女達が産んだ子供達にも、出来うる限り誠実でいたいとは思うが、夫や父親というよりは、皇帝として接しているのが現状。
後から思えば、ライスはレーテの寿命が、皇族のように長いと知っていた、もしくは気が付いていたのだろう。
もしかしたら、ただ離婚させては、自分達の死後、レーテが孤独になるだけだと思ったのかもしれない。同じく長寿のアダルセリスが側にいてくれたらという思惑があったのかも。