1
千年帝国と呼ばれる国がある。光の女神ルミナスの加護を与えられたとされる、大陸最古の国。その皇族、アヴァロン王朝の血族もまた、光の女神の加護を賜り、長命である。
第五側妃レーテは今や、忘れられた妃だ。
元は、ガルシア伯爵家の長女。婿を取り、家を継ぐ立場だった。しかし、婚約者であった第六皇子、アダルセリスに皇位が転がって来たことで、事態が変わった。
先代の皇帝ディオレサンスは血気盛んで、戦好き。皇帝だった頃は周辺諸国に戦を仕掛けまくり、最終的に戦死。それでもこのグランツ帝国が無事なのは、外交に長けた元皇太子と、一騎当千の実力を持つ兵達、そして聖女のお陰。だがディオレサンスの死後すぐに、父親によく似て戦好きな第二皇子が皇太子を暗殺した。理由は、平和を求める皇太子が即位したら、戦がなくなるから。しかし結局、第二皇子も皇太子暗殺の黒幕として捕らえられ、皇位継承権を剥奪された。
これにより、皇位は第三皇子が継ぐはずだった。しかし、第四皇子、第五皇子が、皇太子の婚約者であり、次期皇后と目されていた公爵令嬢に横恋慕。その新たな婚約者となる予定だった第三皇子を暗殺し、熾烈な争いを繰り広げた。だが、二人してお互いの策にかかり、死亡。公爵令嬢は自身が皇子三人の身を狂わせたことを嘆き、自ら修道院へ。
そんな酷いとしか言いようがない経緯から、アダルセリスは末っ子皇子から皇帝へ。幸いだったのは、一連の騒動で混乱した国を数年で立て直せるほど、アダルセリスが優秀だったことぐらいか。
しかし、レーテは皇后にはならなかった。いや、なれなかった。
先帝が戦死する少し前、聖女セレスティーネが老衰で亡くなった。聖女は希少な光魔法の使い手の中から一人だけ選ばれる、女神の代理人だ。新たな聖女に指名されたのは平民の少女、ルチア。彼女が年頃の若い娘だった為、修道院に行ってしまった公爵令嬢の代わりに、皇后にも選ばれた。
レーテは家を継ぐ為にも、アダルセリスとの婚約を取り消すつもりだった。アダルセリスのことは好きだったが、仕方ないと諦めて。だが、妹、オルテンシアの恋人が侯爵家の四男で、継ぐものがないことから、考えを改めた。貴族の子女でも、嫡子でない者は、貴族に婿入りか嫁入りをしない限り、平民になってしまう。王家から、レーテに側妃の地位を用意するという報せがあったこともある。レーテは次期女伯爵の地位を、オルテンシアに譲り渡した。
元々、レーテよりもオルテンシアの方が頭が良かったというのもある。レーテが後継者だったのはあくまで、未来の夫となるアダルセリスが優秀だったから。アダルセリスの助力込みで、長女のレーテに継がせても問題ないとされただけ。
だが、レーテは側妃になって後悔した。グランツ帝国では皇帝のみ、重婚が認められている。皇帝は最低でも六人、妃を娶らなければならないという決まりがある。それは、アダルセリスも同じ。かつて、グランツ帝国に六つの公爵家があった頃の名残りだ。当時は、六つの公爵家それぞれから一人ずつ、妃を迎えていた。
本当ならば、レーテだけの夫になるはずだった。アダルセリスの妻も、レーテだけのはずだった。愛する夫を他の女と共有する。それが、レーテには耐えられなかった。ならば、アダルセリスではない他の人と結婚して、お互い唯一の伴侶となる方がマシだったかもしれない。
レーテは側妃一年目にして体調を崩し、自身の宮に引きこもるようになった。それでも、特に問題はない。妃はあと五人もいる。幼少期からずっと婚約していたのだからと、お情けで妃に迎えられた伯爵令嬢よりも、身分も教養もある側妃達と、唯一無二の聖女たる皇后が。
気が付けば、二十年が経っていた。
レーテが暮らす宮殿は通称、ラピスラズリ宮という。後宮にある六つの宮殿にはそれぞれ、宝石の名前が付いている。
レーテはこの宮殿を気に入っている。レーテの唯一の自慢である、鮮やかな瑠璃色の瞳と同じ色をした宝石の名を冠しているから。だが同時に、悲しくもある。幼かった頃、アダルセリスとお揃いだと言って笑った記憶があるから。
その宮殿の敷地内には、小さな教会がある。元はなかったのだが、体調を崩し、教会へ行くことが難しくなったレーテの為に、アダルセリスが建ててくれた。
ガルシア家は先祖代々、敬虔な光の女神の信者だ。幼い頃から毎週日曜日に家族で教会で祈りを捧げるのが日課だった。それは、アダルセリスも知っている。
今日もレーテは、教会へ行く。基本的に、体調が良い日は毎日赴く。少しでも歩かないと、ただでさえ少ない体力が更になくなる。主治医にも、少しでも体力を付けるようにと言われている。教会との往復はちょうどいい距離だ。
教会の奥にある祭壇の前に跪き、胸の前で手を組む。心の中で光の女神への祝詞を述べる。数分にも満たない時間だが、身心が清められ、スッキリとする。気のせいかもしれないが。
「レーテ様、」
後ろに控える付き添いの侍女が、レーテの名を呼ぶ。普段ならばありえない。レーテの祈りを邪魔してはならないと、決められているから。
レーテは反応しようとした。どうしたの、と。祈りを遮られても、レーテは怒らない。嫉妬に身を焦がして体調を崩したのだから、少しでも穏やかな気持ちで在り続けたいと思って。
だが、身体が動かなかった。祈りをしている体勢のまま、閉じた瞼を持ち上げることすら出来ない。まるで、金縛りに遇ったかのよう。何事かとパニックになる前に、耳鳴りがした。
『オスカルの乙女、レーテ。そなたに神託を授けましょう』
見知らぬ女性の声が聞こえる。どこか優しく、だが、厳かな。
もう乙女なんて歳じゃないです、なんて言えるような雰囲気ではない。
『このグランツ帝国の破滅を、防ぎなさい』
同時に流れ込んで来たのは、この国が辿る未来の映像。その内容のおぞましさに、レーテは息を呑む。
「何故、わたしなのでしょうか」
声が出た。
『あなたがオスカルの正統なる継承者、オスカルの乙女だからです』
なんですか、それは。
そう聞く前に、身体の硬直が解ける。床に倒れ込んだレーテに、侍女が駆け寄る。
「レーテ様! 大丈夫ですか!?」
一気に疲れた。身体が重い。本当は大丈夫だと言いたいけど、指一本どころか、口さえ動かない。
「誰か! レーテ様が!!」
侍女が叫ぶ。教会の外に控えていた護衛騎士達の足音を聞きながら、レーテの意識は闇へと落ちた。
目が覚めると、ベッドの上だった。いつも使っている、自分のベッド。レーテは上半身を起こそうと、身体に力を入れる。
「レーテ様? 目覚められたのですね」
側にいたらしい侍女が身体を支え、手伝ってくれた。
彼女、ジゼルは、一緒に教会に行った子ではなく、レーテの実家からついて来て、長年仕えてくれている。このラピスラズリ宮における侍女達のまとめ役でもある。
「ありがとう……。わたしは……」
「レーテ様は教会でお祈りの最中、倒れられたのです」
「あぁ、そうだった……」
差し出されたコップを受け取り、水を飲む。一気に飲んでしまって、喉が渇いていたことに気が付いた。
「供をしていたタリアによると、突然、ステンドグラスから差した光がレーテ様に当たって、その光が消えたと思ったら、レーテ様が倒れられたと」
その不自然な様子に、侍女のタリアはレーテの名を呼んだのか。
「そうだったんだ。……わたしもよくわからないんだけど――」
レーテは、先程の謎の体験のことを話す。
「それは……光の女神ルミナスからの神託ではないでしょうか」
ジゼルが言う。レーテもそれを疑ったが……。
「まさか、ありえないよ。聖女のルチア様ならともかく、なんでわたし?」
「レーテ様も光魔法の使い手……神に選ばれた御方ではありませんか」
ジゼルの言う通り、レーテは希少な光魔法の使い手で、聖女候補の一人でもあった。
だが、レーテも家族も、レーテが聖女に選ばれると期待したことはない。聖女に求められるのは、光魔法の中でも、治癒、浄化、結界など、補佐系魔法の実力。聖女である皇后ルチアも得意とする。しかし、レーテはそれらがあまり得意ではない。逆に、攻撃系魔法が得意。ただ、聖女は聖騎士達に守られる存在なので、戦える必要はない。
「ですが、これから起こる未来、レーテ様の御力が必要なのかもしれません」
「でも……」
レーテが見せられたのは、大量の魔物の侵攻によって、グランツ帝国が滅びる未来。
グランツ帝国が光の女神の加護を賜り、聖女を有している理由は、領土の隣にある魔物の領域――魔界の存在からだと思われる。グランツ帝国は魔界からやって来る魔物を倒す為に武力を鍛え、魔法の腕を磨き、光の女神ルミナスと聖女を尊んでいる。
レーテは光魔法……というよりかは、強力な攻撃系魔法の使い手だ。だが、それは昔の話だと思う。二十年も引きこもっていた為、攻撃系魔法を使う機会はない。昔は貴族令嬢ながら、婚約者であったアダルセリスの暗殺を目論む者達を返り討ちにして来たので、むしろ鍛えられていたが。忘れられた妃と揶揄され、妃の中で唯一子供もいない側妃の命を狙うような暇人はいないだろう。
「陛下にはご報告しましょう」
ジゼルに言われ、レーテは頷く。国の一大事でもある。この国の皇帝に伝えないわけにはいかない。
だが、気は進まない。
「会いたくないから、代わりに伝えてくれる?」
「レーテ様。又聞きよりも、当事者の話の方が正確です。国を揺るがす一大事かもしれないのですから、ちゃんと陛下とお話ししましょう」
ジゼルの言うことは正しい。相手がアダルセリスでなければ、レーテも進んで話しただろう。
「…………わかった」
身分はレーテが上でも、乳姉妹であり、幼少期から仕えてくれているジゼルには頭が上がらない。
すぐさま、使者を送る。
でも、レーテにはそれが気に食わない。本当なら、そんなことをしなくても気軽に会えただろう。そう思ってしまう。ふとした瞬間に、アダルセリスとのもしもを考える。だから会いたくない。会ったらまた考えて、虚しくなる。
「少しでも綺麗な格好でお迎えしましょう」
と、ジゼルに押されて、着替えさせられる。まだ身体が怠いので、コルセットを締める必要がないエンパイアドレス。病床に伏せってから、長年重宝している。
負担にならないよう、小振りのラピスラズリがあしらわれたネックレスをつけ、髪も結わえる。ハーフアップだけど。
四十近いおばさんがする髪型ではないとレーテはいつも思うのだが、侍女達がさせたがる。嫌がらせなどではない。レーテは未だ、少女のように若々しい。美女揃いの他の妃達でも、レーテほどの若さを保っている者は誰一人としていない。それが、侍女達は自慢なのだ。
ただ、敢えて言うなら、アダルセリス。直系の皇族は長命ゆえ、老いも緩やか。アダルセリスも、レーテとそう変わらない若々しさを保っている。
レーテは皇族の血を引いているわけではない。ガルシア家の家族も、歳相応に老いている。三歳下の妹と並べば、母と娘にしか見えない。むしろ、甥や姪とほとんど同い年のように見える。だが、父方の祖父、先々代のガルシア伯爵トールは、年齢の割に若々しい容貌だった。
アダルセリスはすぐに来た。皇帝は暇なのか、それともちょうど時間が空いていたのか。レーテはなにも知らない。アダルセリスと会ったのも数年ぶりなぐらい、今の二人は疎遠だ。レーテが彼の来訪を頑なに拒んでいるということが主な原因だろうけど。
「レーテ」
久しぶりに見たアダルセリスは、変わらぬ美貌と若々しさだった。それはレーテも同じだが、自分ではよくわからない。
金色の髪に、鮮やかな瑠璃色の瞳。その顔を見て、「あぁ、好きだな」と思う。嫌いに、いや、無関心になれたら、どれほど楽に生きられるだろうか。
「お久しぶりです、陛下。このような格好で申し訳ありません。体調が優れないのです」
もう、幼かった頃のように、「アディさま」とは呼べない。
「……あぁ、聞いている。無理はするな」
「寛大な御心に感謝いたします」
レーテはか細い声で言う。
いつからだろうか。アダルセリスに会うと、胸が苦しくなるようになったのは。
「実は、陛下にお話があって、大変失礼ながら、お呼びさせていただきました」
と前置きして、ジゼルに話したことを再び話す。アダルセリスは黙って聞いていた。しかし、表情はどんどんと険しくなる。
「モンスターインベイドが近いうちに来ると。それも、このグランツを滅ぼせる規模の」
「ですが、本物の神託かはわかりません。わたしの幻覚かもしれませんし」
「それはないだろう」
アダルセリスはベッド脇の椅子に腰掛けている。
「確かに近々、魔界の方で魔物の動きが活発になっていると報告を受けている。モンスターインベイドの前兆だろうな」
神託の信憑性が高くなり、レーテは表情を曇らせる。
魔界の近くには、ガルシア伯爵家の領地もある。社交界のオフシーズンは基本、両親と妹一家はそちらにある本邸で暮らしている。最悪、モンスターインベイドに直撃されかねない。
「……皇后陛下はなにも仰っておりませんの?」
本当は他の女の話など出したくないが、仕方ない。
「聞いていないな。そもそも、神託を賜ったことはないようだ」
「そうですか」
そんなこともある。女神が神託を授けることすら稀だ。歴代聖女の中には毎日のように神託を授かっていた者もいるようだが、数百年前、世界中で戦争が絶えなかった頃の話らしい。
「では、どうしてわたしなんかに……」
「推定女神は、オスカルの乙女、継承者と言っていたそうだな」
「はい」
「レーテが継承者として思い至るのはガルシア伯爵家だが、なにか言い伝えとかはないのか? 建国から血が続いている家の一つだろう」
グランツ帝国には多くの貴族家が存在するが、建国から続く一族は、数えるほどしか残っていない。家名は残っていても、血が代わっていることはよくある。
そんな中でも、ガルシア家は建国以来、細々とながら血を繋いでいる。瑠璃色の瞳が、その古い血の証。同じく建国から続くアヴァロン王朝に生まれたアダルセリスも同じ色の瞳を持つ。だから、第六といえど、直系の皇子が婿入りする予定だったのだ。数千年続く、古き血筋を守る為に。
「存じ上げません。もしかしたら、祖父ならばなにかを知っていたかもしれません。ですが、祖父は急死してしまいましたから……」
先々代当主であるレーテの祖父、トールは、レーテが十歳になる前に亡くなっている。突然死で、爵位もまだ、長男であるレーテの父、ライスに継承していなかった。もしも口頭で伝えることがあったならば、それは出来ないままだっただろう。本当にそんな話があるかは知らない。
「とりあえず、義陛下かオルテンシアに聞いてみてくれ」
オルテンシアは幼少期、どこへ行くにもレーテに付いてきて、レーテと同じことをしたがった。だから、アダルセリスもオルテンシアをよく知っている。
ちなみに、アダルセリスはレーテよりも四歳年上。
「わかりました。では、わたしにガルシア領に行く許可をください」
「は?」
レーテの申し出に、アダルセリスの表情が崩れる。
「なにが『では』だ。許可するわけがないだろう」
「直接、父と妹に聞いて参ります。ついでに、モンスターインベイドが来たら防衛に協力して来ます」
「駄目だ。許さない」
ぐっとアダルセリスが上半身を乗り出す。その分、顔が近くなる。レーテは反射的に顔を逸らした。
普通なら、夫の顔が近づこうが、妻は平気なのかもしれない。きっと、他の妃達も。だが、レーテはアダルセリスに会うのは数年ぶり。
というか、結婚して間もなくに体調を崩してから、閨も共にしていない。だから子供もいない。レーテが望んだのもある。子供を産んで、その子を皇位継承権に巻き込みたくないと言えば、アダルセリスは許してくれた。彼自身がそれにより、大きく未来を変えられたからというのもあるだろう。
「わざわざ危険地帯に行く必要はない」
「わたしの故郷です。家族も、領民もいます。それに、わたしの攻撃魔法はご存知でしょう」
多分、ずっと鈍っている。思った以上に使えなくなっているかもしれない。それで、死ぬかも。
「あぁ、知っている。身を以て」
ずっとその魔法に守られてきたのだから。
アダルセリスは頷く。しかし、どこか絞り出すように言う。
「だが、おまえは私の妃だろう」
「そうですね。ただし、忘れられた。なにもしていない妃」
でも、別にいいと思った。ここで公務も妊娠もせず、ただ伏せって引きこもっているだけの穀潰し。そんな妃が一人減ろうが、むしろ、喜ばれるだけだろう。そして、新たな妃に名家の令嬢か、他国の王女が迎えられるはずだ。アダルセリスは四十過ぎだが、肉体は若いまま。二十代と変わらない。問題なく子供も作れるし、皇帝の子供が多くても損はない。
「陛下もご存知でしょう。わたしは、ガルシア女伯爵となる為に育ちました。わたしに今の立場は荷が重かったけど、せめて、やれることはしたいんです」
折れたのはアダルセリスだった。一週間後、レーテは結婚して初めて、故郷に戻った。