第3話 社交界デビューは突然に
「リリアーナ様、ご準備はよろしいでしょうか?」
アメリアの声が、遠い国の言葉みたいにぼんやりと響く。鏡に映る私は、深紅のドレスを身にまとい、社交界で「氷の令嬢」と呼ばれる姿……のはずなんだけど、心の中は、不安と期待で嵐が吹き荒れてる。
え? 氷の令嬢が自称だって? 違うわよ、皆がそう呼ぶの! 本当は、夢見る乙女なのに……って、何度言わせるのよ!
「準備は万端よ、アメリア。エミールもほら、見てこの可愛さ!」
私の隣には、フリルたっぷりのベビー服を着せられたエミール。もう、天使以外のなにものでもないわ! まあ、この子がどこから来たのか、いまだに謎なんだけどね。
「旦那様は、もう馬車の中でお待ちですわ。エミール様は私が先にお連れします」
ささっとエミールを抱っこしていくアメリア。私は小さく息を吐き出した。ユリウス様ったら、今日も安定の無表情なんだろうな。今日はエミールのお披露目なんだから、少しは愛想良くしてほしいんだけど……。
期待と不安を胸に、私は侯爵家の広大な庭を抜け、馬車へと向かった。今日、私とユリウス様、そしてエミールは、王都で開かれる大規模な夜会に出席する予定。エミールにとっては、初めての社交界デビューだ。
馬車の扉を開けると、ユリウス様が、エミールを腕に抱いて座っていた。エミールは、すやすやと気持ちよさそうに眠っている。
「ユリウス様、エミールを……?」
驚いて尋ねると、ユリウス様は、人差し指を口に当て、「しーっ」という仕草をした。
「……起こさないように」
ぼそりと呟くユリウス様の声は、いつもより少しだけ優しい気がした。
え、何これ尊い! 無口で無表情なユリウス様が、エミールをあやす姿、聖母子画みたい! これが父性……? いや、違う。とにかく、神々しい!
私は一人で感動の渦に巻き込まれていた。ユリウス様は、そんな私には目もくれず、窓の外の景色を眺めている。……いつもの平常運転ね。
馬車は、王都の中心部にある、ひときわ大きな建物に到着した。今夜の夜会の会場だ。門をくぐると、きらびやかな光が目に飛び込んでくる。会場は、巨大なシャンデリアがいくつも吊るされ、着飾った貴族たちが談笑している。おとぎ話の世界に迷い込んだみたい。
「ローゼンクランツ侯爵夫妻のご到着です!」
執事の声が響くと、会場の視線が一斉に私たちに注がれた。私は、背筋をピンと伸ばし、優雅に微笑んでみせた。氷の令嬢、リリアーナ、華麗に参上よ!
「まあ、リリアーナ様、お久しぶりですわ!」
「エミール坊ちゃま、なんて可愛らしいのかしら!」
貴婦人たちが、次々と私に話しかけてくる。私は、社交辞令を返しつつ、内心ではユリウス様の様子を気にしていた。
ユリウス様は、予想通り、無表情で貴族たちの挨拶を適当に受け流している。でも、エミールを抱いているせいか、いつもより少しだけ雰囲気が柔らかい……気がする。
「ローゼンクランツ卿、エミール坊ちゃまは、どちらに似ていらっしゃるかしら?」
一人の貴婦人がユリウス様に尋ねた。私は心臓が飛び出しそうなほどドキドキしながら、ユリウス様の答えを待った。
「……両親に似ている」
ユリウス様は、短く答えた。両親って、私たち夫婦のことよね? ユリウス様、初めて私たちのことを「両親」って言った!
やったー! 私たちをエミールの両親だって認めてくれたのね! 嬉しい! ……って、ちょっと待って。私、感極まって涙ぐんでない? 氷の令嬢が泣くなんて、絶対ダメ!
「あら、リリアーナったら、泣きそうなの? よほど嬉しいのね」
「当然よ。だって、私たちの子ですもの」
そう答える私に、別の貴婦人がヒソヒソと耳打ちしてきた。
「リリアーナ、嬉しいのはわかるけど、あそこの旦那様を見てご覧なさいな。眉間に皺が寄っているわ。少しは旦那様のフォローをしなくちゃだめよ」
確かに、ユリウス様にだけエミールを任せっきりだったわ。
慌ててユリウス様のそばに駆け寄ると、見慣れない男性が近づいてきた。
「これはこれは、ローゼンクランツ侯爵。お噂はかねがね」
その男は、いやらしい笑みを浮かべていた。確か、バルタザール男爵とか言ったかしら。侯爵家の遠縁らしいけど、評判は最悪。腹黒で、権力欲が強く、いつも誰かを陥れようと企んでいるって噂よ。
「エミール坊ちゃま、ですか。お可愛らしい」
バルタザール男爵は、エミールに手を伸ばした。その瞬間、私の背筋に悪寒が走った。
「バルタザール卿。何の用だ?」
ユリウス様が、低い声で牽制する。その声には、明らかに怒気が含まれていた。
「私はただ、エミール坊ちゃまが『どこぞの馬の骨とも知れぬ赤子だ』ということを憂いているのです」
「……なんだと?」
ユリウス様の声が、さらに低くなった。
「バルタザール男爵、失礼なことをおっしゃらないでくださいまし! エミールは、私とユリウス様の大切な子供ですわ!」
私は思わず声を荒げた。バルタザール男爵は、ニヤリと笑みを浮かべる。
「ほう、大切な子供、ですか。しかし奥方、エミール坊ちゃまの出生については、まだ何もご存じないのでは?」
バルタザール男爵の言葉に、私は息をのむ。エミールの出生? 確かに、気になってはいたけど……。この子、一体どこから来たのかしら? まさか、ユリウス様が何か隠しているんじゃ……?
ユリウス様はいつも通りの無表情だったけど、その目は、何かを隠しているように見えた。
ユリウス様? まさか、エミールについて何か知っているの!?
私の心臓が、早鐘のように鳴り始めた。