10 看板娘の心意気
五月二十四日
戦場での空中サーカスは、少しばかり時間を稼ぐのに役に立ったらしい。あれ以来ブランドル軍の攻勢が止まり、越境攻撃も減った。戦力を立て直しているのかもしれないし、あれこれ考えすぎているのかもしれない。
とにもかくにも、連合軍のブリタニー半島撤退に取っては好都合だった。気がつかれないように前線から兵を抜き、後方の砲兵を引き上げ始めた。ブレスト港は大忙しで彼らを運び出す。おびただしい船の列が港に連なっていた。
綺羅や洋一たちも忙しい日々であった。〈翔覽〉航空隊は連日出撃して撤退を支援していた。前線上空のパトロールや、敵砲兵陣地を攻撃する九式艦爆の護衛など。十式艦戦に六番(60㎏)小型爆弾を積んで敵飛行場の襲撃もやった。空で撃墜するよりも地上で破壊する方が楽なのは判ったが、あれはちょっと怖かった。
彼ら自身は奮闘し、負けてはいなかったのだが、それで戦場は押し返せない。昨日はマラン少佐達ノルマン空軍をアジャンまで脱出させる任務だった。戦闘機を戦闘機で護衛するのはおかしな話だが、ノルマンが確保している土地も随分と遠くなってしまった。航続距離の短いシルバーフォックスやハイランダーでは飛ぶだけで精一杯の距離で、途中で捕まったら空戦もできない。
彼らはブリタニー半島に残っていた最後のノルマン航空隊であった。これでここに居る飛行機は、いざとなれば自力で本土に帰れる秋津陸海軍機だけとなった。寂しくなってしまった。
そんな中で洋一は綺羅のお供で再びブレスト港へと訪れていた。前に来たときよりも追い詰められた空気が街全体を支配していた。避難民どころか乗船待ちの兵士達がひしめいている。
綺羅の会議が長引きそうだと云うことで食料の買い出しは洋一がやることになった。市場の品数も減ったし、前回から十二日しか経ってないのに、値段が二割増しになっていた。
今回はそれほど買えないな。洋一は預かったポンドと後ろに詰め込んだ荷物を見比べる。他人の金での買い物はどうにも気苦労が多い。
そういえば。洋一は前回と同じ道をたどりながら思い出した。あの店は、どうしているかな。
寄り道も前回と同じに、カフェの前に車を止める。時間がずれたのか、店を開けているのか微妙な雰囲気だった。
「はろー」
中に入るとやはり客は一人も居ない。ドタドタと音を立てながら店の裏からこの前の娘が現れた。
「はいはい、ちょっと待ってねって、おや、この前のアキツの水兵さんじゃないか」
洋一の顔を見て、少女は笑ってみせた。
「ちょっと待ってね、この時間、客が来ないから火を落としちゃって」
手早くガスコンロに火を付けるとヤカンを載せる。
「今日はあの美人の将校さんは一緒じゃないのかい?」
「彼女は仕事があるから自分だけで買い出しさ」
まあやはり印象に残るのはあちらだよな。洋一は頷いた。
「アキツってすごいんだね。女で将校なんてこっちじゃ聞いたことがないよ」
「秋津でもあの人一人だけだよ」
ほんとに、どういった経緯でなったのやら。
カップを並べて珈琲の準備を進めて、あとは湯が沸くのを待つだけ。そこでふと少女は顔を上げた。
「そうだ水兵さん」
「ヨウイチだよ、ヨウイチ・タンバ」
「あたしはマリアってんだ。よろしくなヨーイチ」
ガスコンロの火を少し絞りながらマリアは云った。
「カフェの前に、運動がてら少し手伝ってくれないかな」
屈託無く笑うその笑みは、どこか断りづらい。
「こっちこっち」
そのまま店の裏手に案内される。小さな植え込みのある小さな裏庭があった。
「はいこれね」
そうして手渡されたのはシャベルだった。
「そうだねぇ、ここかな、ここの石掘り返して」
いくつか並んでいる踏み石の、ちょうど真ん中を彼女は指し示した。何でこんなことを。一度肩をすくめると仕方なくシャベルを踏み石の脇に当てる。
脚をシャベルに掛けて力を入れて踏み込む。テコの要領で踏み石が持ち上がった。ひっくり返すと湿った土が顔を覗かせた。
「さっすが力持ちだねぇ」
お世辞を云ってマリアは穴を覗き込む。そこに持っていた箱を置いてみた。
「これが収まる位に掘ってね」
大した大きさではない。よく見ると珈琲豆の缶だった。
「なんなのそれ?」
もしかしてノルマンでは珈琲豆をそうやって保管する習慣でもあるのだろうか。
「中身はこれさ」
そう云ってマリアは持ってきたものを広げて見せた。赤、白、青の三色旗。
「それって」
「そう、我らがノルマン共和国の、国旗さ」
感慨深げに眺めてから、彼女はそれをたたみ始めた。
「これからブランドルのジャガイモ野郎に尻尾振って生きていかなきゃならないんだ。でもそれがいつまでも続くわけじゃない。その時まで、これは隠しておかなきゃね」
珈琲缶の中にたたんだ国旗を詰め込んだ。押し込んでしまえば随分と小さくなってしまう。
「脱出船には、乗らないの?」
ブレスト港は脱出のために集まった船でひしめいている。
「親父はこの近くで百姓している。百姓は土地を離れては生きられないよ」
土の中に旗を入れた珈琲缶を納めながらマリアは云った。だれもかれもが、簡単に故郷を捨てられるもものではないらしい。
「うちはカトリックだから大丈夫とは云ってるけど、世の中そんな甘いもんじゃないと思う。だからまあこんな希望が欲しいんだよ」
こんな小さな缶が、解放されたときの希望なのか。洋一は複雑な思いでそれを眺めた。
踏み石を戻して、周囲の土をならす。こうしてしまえば元と殆ど変わらない。
「自分でも変な気分だよ。元々別に国旗になんか興味は無かった筈なんだ。けどこの前ロリアンから下がってきた兵隊が騒いでたんだ。前線上空にノルマン国旗が描かれたって」
ちゃんと下から見えていたのか。よかった。洋一は少し安堵した。
「空軍の跳ねっ返りの中にも骨のある愛国者がいるって、みんな奮い立っていたよ。それを聞いていたら、なんだかこっちまで感化されちまってね」
あの奇妙な編隊飛行は大勢の人に見て貰えて、こうして多くの人の心を支えることができた。ちゃんと意義はあったのか。狭い庭から見上げた空に、彼らの軌跡が見えるような気がした。
「おっとそろそろかな。手伝ってくれたお礼に、今日の一杯はあたしの奢りだよ」
店に戻るとちょうど湯が沸いていた。布の上に挽いた豆を敷き、その上からお湯を注ぐ。珈琲の香りが店内を支配する。よく見ると彼女は二杯分の珈琲を用意していた。
「はいよ、ミルクいるかい」
そのうちの一杯を洋一は受け取る。
「いや、今回は何も入れないのに挑戦するよ」
なんだか今日は、珈琲にちゃんと向き合わなければいけない気がした。香りを味わってから、洋一はそれを口に含んだ。
深い苦みの中に、僅かな酸味とほのかな甘みが口に広がる。温かい液体が身体の中心に流れ込み、そしてそれ以上に中から力が湧き上がってきた。
「うん、美味しいよ、多分」
おかしな云い方だが、洋一の偽らざる感想であった。
「多分ねえ。ま、どういたしまして」
そう云って笑うと、マリアも向かいに座ってカップを傾けた。
「ところで、手伝ったのがなんで自分なの? 他の人でも良さそうなのに」
何しろ洋一はここに来たのが二度目なのだ。ほぼ赤の他人である。
「家族とか近所の人に頼むと、知らなくていいことを抱えさせてしまうからね」
これから先、彼らはブランドル軍の占領下で暮らさなければならないのだ。不都合な情報が、どこから漏れるか判ったものではない。
「そこへ行くとあんたはアキツの兵隊だ。明日にでもここを離れておさらばするなら、知られても問題ないだろ」
まあそうかもしれないが。
「なんか、ごめん」
こうして向かい合って座っているのに、これからの両者の運命が隔絶している事を思い知らされた。
「気にするなって。この間の連中はまあむかつくけど、あたしらを助けるためにアキツが来てくれたんだ。そんなあんた達に、珈琲の一杯も奢っておきたいんだ。これが自由で美しきノルマンなんだって」
そう云ってマリアは珈琲を掲げて見せた。
「それとまあ、覚えていてほしいんだ。あたしが死んだら、あの旗は誰にも知られずに埋もれたままになっちまう。それはちょっと寂しいよな」
マリアは珈琲の液面を眺める。彼女の未来と同じように暗く、見通せない。
「だから海の向こうに一人は知っている奴がいる。そう思えれば頑張れる、多分」
そう云って気丈に振る舞う少女を見て、洋一は頭を巡らせていた。
なんとか彼女たちを救うことはできないだろうか。避難船の切符は相当高いと聞くし、コネがないと手に入らないだろう。二等飛行兵曹の自分にそんなコネは無い。
ならいっそのこと綺羅様に頼んでみたら。良い考えのようにも思えたが、洋一は首を振った。なんだかそれは筋違いのような気がする。それにすべてがうまくいってマリアの家族を逃がすことができても、それは問題の解決にはならない。どこまで行っても自分は無力なのだ。
「うん、忘れないよ。絶対に」
ほんの些細なできることを、やるしかないのだ。洋一は珈琲を大きく傾けて身体の中に納めた。胃の辺りが少し痛かった。
「ごちそうさま、美味しかったよ。また今度、来るから」
何年先になるのだろうか。それでもあの旗を翻すときはきっと来るはずだ。
「あんたたちも気をつけなよ。アキツの旗を庭に埋めるようなことがないようにね」
「その時は埋めた場所を君に覚えておいてもらうよ。中京は大須、丹羽履物店。小さなお稲荷さんがあるから、その下ね」
「なんだよそりゃ」
くだらないことだが、口に出してみると確かに気持が落ち着いてくる。こんなささやかなものを頼りに人は奮い立つのか。扉の外に出て、洋一は空を見上げた。
さあ自分でできることをしなければな。洋一は荷物を満載した〈くろがね〉に乗込んだ。まずは綺羅様のお出迎えに荷物運び。そして〈翔覽〉に戻ったら。
自分のできること、空の闘いが待っているのだ。




