第9話 『脳味噌ブルーロック先輩の華麗なる没落』
この世には、天国もあれば地獄もある。
かくて地獄は降臨した。具体的に言うと、全校生徒の面前で平手打ちを食らい、その日のうちに女の子に彼女を奪われたサッカー部キャプテンの脳内に生まれた。
容姿、頭脳、体力、コミュ力。およそあらゆる要素で他者から秀でた彼にとって、それは自身が初めて味わう挫折というものだったのかもしれない。苦しみはひとときも心を去らず、毎日の練習で疲れて果てているのに夜も眠れない。彼の面相は、日に日に別人のようにやつれていった。
チームメイトからも慰めは得られない。かつてシュートを外してもドンマイと肩を叩いてくれた彼らとの間には、大きなわだかまりが生まれていた。
すべては身から出た錆。優秀な頭脳でそれがわかってしまうからこそ、キャプテンの方からも彼らに近づくことはなかった。ただ、彼らが自分とサッカーをしたがっていないという雰囲気だけは、ひしひしと感じていた。
そしてインターハイ初戦。
彼はスターティングメンバ―としてフィールドにいた。
橘南高校サッカー部の実態は、抜きんでた地力を持つキャプテンを中心としたワンマンチームに近い。好悪の感情以前に、彼の存在を欠いては勝利など覚束ないと全員がわかっていたのだ。
キックオフからわずか1分。早速点が入る。
先取点を取ったのは橘南イレブンではなく、今大会唯一の格下と目されていた相手チームの方だった。敵陣深くまで攻め入っていた不動の背番号10であるキャプテンが隙を突かれてボールを奪われ、一気呵成のカウンターでやられたのだ。
その後も、彼の動きは精彩を欠いた。
本来ならば攻撃の起点、決定力に大きな力を発揮する彼の大不振は、ゲームの流れに大きな影響を及ぼす。
スコアは前半を終えて0-7。サッカーという競技の点差としては、既に致命傷を負ったものと言っていい。奇跡でも起こらない限り9割方敗北という劣勢状態にもかかわらず、誰もキャプテンに声をかけようとしなかった辺り、彼の人望もまたあの事件によって完全に尽きていたようだった。
そして運命の後半戦キックオフ。
笛の音と同時にボールを託された彼に異変が生じる。
「……フィッヒ」
当時フィールドにいたチームメイトは後に語った。
あれは、彼の最後の糸が切れる音だったと。
キャプテンはボールを地面に置いたまま、くるりと反転する。そして尋常じゃないスピードでフィールドを逆走し、自軍のゴールへと素晴らしいシュートを蹴り込んだ。
完全に虚を突かれた上、味方からのボールは手で止められない。
橘南のゴールキーパーは蹴り込まれたシュートになすすべがなかった。
スコアはこれで0-8。それは数字以上の重みとなって橘南イレブンにのしかかる。自軍キャプテンの手によるオウンゴールの1点がなにを意味するのか、それを悟らない者はこの場にはいなかった。
そして悪い予感は当たる。おそるおそるキャプテンに出したパスを、彼は敵チームの選手へとパスしたのだ。
それだけじゃない。チームメイトが水際で相手選手から奪い返したボールをさらに奪い、自軍ゴールに向けてシュートする。これで9点目。
それからも、キャプテンの敗退行為は続いた。
それは味方のひとりが敵に寝返ったどころの話ではなかった。
橘南は元より彼のワンマンチーム。彼ひとりが果たす貢献度は、他のチームメイト全員を合わせたものよりも大きい。また、プロ確実とまで謳われた彼はチーム内外に強権を持ち、監督の代わりに采配権まで握っていた。
つまるところ橘南イレブンは、20人を相手取って戦っているような状態だった。
その上、ガンであるその選手を監督の采配でもって交代させることもできない。
地獄のような40分が経過し、笛の音が鳴る。
ついに、後半戦のロスタイムが始まったのだ。
かくて異様な光景が顕現した。キャプテンひとりの姿を除き、フィールド上から橘南イレブンが忽然と姿を消したのだ。世にも珍しい、ロスタイムのボイコットだった。
このとき、相手チームの選手たちはすっかり戦勝ムードに酔っていた。余裕は遊びを生み、遊びは玩具を求める。彼らは自軍ではなく、敵方のキャプテンに向けてパスを出し始めた。
キャプテンはボールを受けると、自分を見てニヤニヤしている彼らのことなどおかまいなしに、それを無人のゴールへひたすら蹴り込み続けた。
最終スコアは0-108。橘南高校サッカー部は、くしくもキャプテンが振り回された煩悩の数と同じだけの失点を喫することとなった。
なお、キャプテンを視察に訪れていたプロのスカウトは、彼が一度目にオウンゴールを決めた時点で呆れて帰ってしまっていたそうだ。
こうして橘南高校サッカー部の熱い夏は、あっけなく幕を降ろすこととなった。