第8話 『男が弱いもの』
「てーんてんててーんてて、てててててんてん、てーんてて、てててーんてーん……」
それは俺の聞き知った音楽だった。
阪神ファンなら一度は聞いたことのある馴染みの応援歌、六甲おろし――そのイントロを、唐突に遥名が口ずさみ始めたのだ。
前奏に歌詞はないため著作権的になんら問題の見られない行為。だというのに、俺の脳裏にはこの時点で既に嫌な予感が生じている。
遥名はなおも前奏を口ずさみながら、それに連動させて自分のバッグから阪神公式応援グッズの団扇をもったいぶって取り出して見せた。
「……あのー、遥名さん?」
ただならぬ雰囲気に腰が引け、思わずさん付けで呼んでしまう。
遥名はニヤける口元を団扇で隠して、くひひと不気味に笑った。そして――。
「だって今週の金曜は、天王山やもんなぁ?」
団扇の後ろでにやぁっと口が裂ける光景が、見えるはずがないのに見えた。
瞬間的に遥名の真意を悟った俺は、慌てて口を挟んだ。
「い、行けないって前に言ったぞ? 今月マジで金欠なんだって!」
それは嘘偽りない事実であったのだが、推しの球団のこととなると眼の色どころか全身の色すら黄と黒の縞々に変えかねない遥名にとって、あまりに矮小な悩みだった。
「まあまあ。移動費なんてはした金みたいなもんやし。なんとかなるなる~」
「ここ關東だぞ!? あの日の試合ってたしか甲子園球場でだったよな!? 往復いくらかかると思ってんだよ!?」
マジで死活問題なので割とガチ目に詰めたつもりだったが……。
「えー? そーなんー? ウチわすれてしもとったわー!?」
「オイコラ、棒読みで都合の悪いことだけ都合よく忘れたフリすんな!! とにかく俺は行かない! いや、行けないからな!!」
今月のバイトはこれ以上増やせないし、なんなら木金は出席日数がヤバい講義がみっちり詰まっている。いくら阪神の重要な試合だからって、おいそれとブッチなんてできるはずがない。
……しかしそれで遥名が止まるなら、苦労はしない。
ふだんの生活でも立場劣勢になるとたまに小学生モードになるのだが、このときもそうで、まるでガキんちょみたいに俺の袖を引っ張ってくる。
「コーヘイも行こー? デートー。一緒に甲子園デートー」
「で、デートって。前に一緒にドーム行ったとき、お前ガチで応援しすぎて俺のこと完全に放置してたの忘れてないからな……」
あれ、割とマジでトラウマになったので猛省を促したいんだが……。
しかし当人は今気づいたみたいな感じでキョトンとした。
「あれ? せやったっけ?」
「いや忘れてるとか……」
「そんな些細なことはどうでもええねん」
キッ、と遥名の表情が一瞬にして真面目寄りに変わる。
些細? 俺のトラウマが些細……?
ショックを受ける俺を置き去りに、遥名は腕組みして考え込む。
「問題は、最後に立ちはだかるのが永遠のライバル巨人ってことや。聖地甲子園での伝統の一戦が天王山になるの、実に象徴的やとコーヘイも思うやろ?」
もちろん俺はそんなこと1ミリも思ってないのだが、思ったことになった。
「ともかくや。ウチが行かんと始まらへん。コーヘイも行こ!」
「だからお金がな……」
「そんなんウチが貸したるから!!」
力説してくるが、彼女にお金を借りるとかどんだけ情けない彼氏なのか。
「そりゃ限界まで切り詰めたらなんとかならなくはないけど……」
「お? 手応え変わったで? あと一息ってトコやな」
しまった、と気づいたときには時既に遅し。
合わせた掌を顔の横に、遥名がおねだり用の笑顔で俺の顔を見てくる。
「ウチのこと、甲子園に連れてってほしいっちゃ!!」
「ちょい待ち! 混ざってる混ざってる!」
「一生のお願い! 阪神の3年連続アレがかかっとんねん!」
パン、と顔の前で手を合わせて、俺のことを拝んでくる遥名。
ここまでされたら俺も弱い。しばらくごはんと味噌汁生活になるか……。
「わかったよ……」
「ほんまに!? 男に二言とかなしやで!?」
「ないよ。一緒に行こう」
「わー!! ありがとメッチャうれしいわ!!」
ぱあっと華やぐ笑顔を炸裂させ、パチパチと拍手する遥名を見て思う。
……俺、こいつの泣き顔にも弱いけど、やっぱり笑顔に一番弱い。