第6話 『女帝降臨』
『橘南高校ウィル・スミス事件』。
今も後世に語り継がれる伝説の幕開けは、俺たちがあの夜を経験してわずか数日後に起こった。錚々たる名門校が揃い踏む中を勝ち抜き、我が校のサッカー部が念願のインターハイ初出場を勝ち取ったのだ。
壮行会の実施は、翌週の全校集会後に持ち越された。最大の功績者であるサッカー部のキャプテンがインターハイでの活躍を誓う場として、教師のみならず生徒たちからも大きな注目が寄せられていた。
「それでは――くん、前へ」
「はい」
校長先生に呼ばれ、そいつは快活な返事とともに椅子から立ち上がる。
そして、クラス間の通路を抜けて壇上に連なる階段を上ってゆく。
「よく頑張ってくれました。我が校の代表選手として、集まった生徒のみなさんに今大会に向けての抱負を語ってください」
「わかりました」
選手交代とばかりに、校長先生が後方に退く。
その隙間を縫うようにして、キャプテンが講演台の前に立つ。
俺を含む生徒たちの正面に回ったことで、顔がよく見えるようになった。
この時点で既に一部女子生徒からは黄色い声援が上がっている。
悪くない気分だというのは表情から窺える。キャプテンは場が鎮まるまでの時間を周囲を見渡すことでじっくりと楽しみ、今まさに自分が場の中心であるという満足感とともに、マイクのスイッチをオンにした。
「みなさんおはようございます。ご紹介にあずかりましたサッカー部主将の――です。この度は私たち橘南高校サッカー部のために特別な時間を設けていただき、感謝の言葉も……」
流暢な語り口が事故のように途切れる。
体育館全体を見渡していた視線が一点に固定される。
壇上の人物に理由を訊ねる勇気のある者はいなかった。
代わりに何事かと、その視線の先へと興味の矛先を飛ばす。
現実離れした、まるで絵画の中の存在のような美少女がそこにいた。
腰まで届く金の長髪。青玉の瞳に、白く透き通った肌。さながら妖精を思わせるその容姿は、集まった一同に、これも予定されたプログラムの一部かと錯覚させる。
全校生徒が用意されたパイプ椅子に座す中、件の彼女は静かに立ち上がり、壇上のキャプテンのことをじっと凝視していたのだった。
やがて衆人監視の元を、彼女はものともせずにスタスタと歩き始めた。
キャプテンが歩いた足跡をトレースし、正面の階段を上って登壇する。
この後の3分間は、伝説として語り継がれることとなる。曰く――。
『女帝の時間』
もしくは、
『橘南高校サッカー部最後から2番目のロスタイム』
として。
あまりにも流麗な、洗練された動きだったので対応が遅れた。
ステージ脇に控える先生たちも、壇上の校長先生の出足も鈍る。
「君、待ちたまえ――」
校長先生の、慌てふためく声が聞こえるかどうかのタイミングだった。
既に有効射程まで接近していた金髪美少女が、さっと腕を振り上げる。
「……へぶっ!?」
次の瞬間、間抜けな声とともにキャプテンの身体が宙を舞った。
金髪美少女の放った、腰の入った平手打ちが頬に炸裂したのだ。
俺もバッチリ目撃していた。それは見事な一撃だった。無駄のないフォームから力感なく放たれた平手打ちはキャプテンの頬を完璧に捉え、パァンという心地よい破裂音を彼の持つマイクにまで乗せていた。
いともたやすく行われた暴力行為に、校長先生が腰を抜かす。
そのすぐ隣にマイクが落ちて、キーンというハウリング音を響かせた。
金髪美少女は腰を屈めてマイクを拾い上げると、くるりと反転して生徒たちのいる方向へ向き直った。
「わたくし、3年C組に所属する八王子クリスと申します。今しがた頬を張った――さんと、久しく男女のお付き合いをさせていただいておりました」
シーンと静まり返った体育館内に、凛然とした声が響き渡る。
自己紹介を受けて初めて、俺はサッカー部キャプテンの彼女の正体を知った。
八王子クリス。校内屈指の美少女として有名な、1学年上の先輩だ。その名が示す通りスウェーデン人とのハーフで、豊かな金髪と透き通るような青い眼の持ち主である彼女を、陰で『女神』と呼び称す生徒は多い。
見た目は『女神』と呼ぶに相応しい彼女が尋常でない胆力の持ち主なのは、全校生徒に注目されながら表情筋の一本も動かさないことからわかる。
ただならぬ緊張感が支配する中を、極めてクールな口調で八王子先輩が演説する。
「皆々様におかれましては、今しがたの乱暴狼藉、多分にお目汚しのことと存じ上げます。しかしわたくしには、是非お話せねばならぬことがあるのです。――さんは、いいえ、この男はわたくしに隠れ、不特定多数の女生徒と関係を持っておりました。言うなれば、不貞の罪を犯していたのです」
ええええええええええええっ!? という女子の悲鳴がそこかしこで上がる。
爽やかイメージで売っていたキャプテンの株は、この時点で地の底に失墜した。
場のざわめきを咎めるでもなく、じっくりと落ち着きを取り戻すのを待って、八王子先輩が伏せていた眼差しを上げる。
「……本当に、嘆かわしきこと」
唾棄した言葉の真意は、いったいなんだったのか。
八王子先輩の眼差しの意味を理解した者は、この時点ではいなかった。
ふはあっと溜息を吐き、決然とした表情で、マイクを口元に構え直す。
そして彼女は伝説となる。
「殿方の愛は、ひとつでないと聞きます。意中の相手がいながら、他の女性にもうつつを抜かせる。それができるものだと、この度わたくし身を以って痛感いたしました」
そこで、ふっ、と小さな息継ぎを挟み。
「そのような身勝手な愛なら、もうわたくしの人生に必要ありません。その危険性に怯えながら、今後殿方と関係を構築していくつもりもありません。ですからわたくしは、この場をお借りして、皆様にお伝えしたいことがあるのです」
――果たして彼女はなにを言うのだろうか?
この時点で、体育館に集った全校生徒は例外なく前のめりになっていた。
息を呑む数百人から好奇の視線を浴びながら、しかし彼女はたじろぎもしない。
この場の支配者として、威風堂々と己の意思を述べ立てる。
「わたくし、八王子クリスは、彼女を募集いたします。希望者は放課後、わたくしが部長を務める茶道部の部室までご来場ください。厳正な審査と相性を確認したのち、こちらから改めて合否の連絡をさせていただきます」
あまりの出来事に全校生徒が呆気にとられる中を、深々と一礼。
たっぷり数秒もの時間をその所作に使って、八王子先輩は最後に――。
「それでは私情でのお耳汚し、誠に失礼いたしました」
上品に腰を屈めて、足元にそっとにマイクを置いて。
胸を張って立ち上がって、前を向いて歩き始めた。
誰も彼女の歩みを止めない。先生すら止められない。
凍り付いた体育館内の空気を、彼女の身だけが切り裂いて進んでゆく。
さながら流氷に閉じ込められた大型船が、その巨大な体躯と重量を以って、氷を砕きながら進んでゆくかのように。
階段を降りて行きと同じ行路を戻りつつ、彼女は自分の席を素通りした。
そのまま真っ直ぐに歩み続け、体育館奥の出入口の扉を押す。
八王子先輩の姿が外に消え、パタンという扉の閉じる音が響くと同時に、体育館内では堰を切ったかのような歓声と怒号が巻き起こったのだった……。