第4話 『消せない記憶』
【Take8】
「コーヘイ、今なにしたん?」
怪訝そうな声が響く。
前に見たのと同じ顔の表情、同じ声の抑揚。
けど、まったく同じものじゃない。これは早戻しじゃなくて繰り返し。
今まで遥名が涙を流した分、眼元のラインが濃い赤に滲んでいる。
覚悟なら決めた。俺は予め準備していた言葉を舌に乗せる。
「遥名の……嫌な記憶を消した」
「は?」
素っ頓狂な声を聞く。わけがわからないといった様子だ。
伏せていた眼を上げ、俺は正面から遥名と向き合った。
「遥名は、自分がなんで俺の家にいるか思い出せるか」
「コーヘイんちにおる理由……あれ? そういやなんでウチここにおるんやろ?」
キョロキョロと視線を巡らせる。頭を捻る。
俺は最初から正解を提示することにした。
「今日嫌なことがあって、それを忘れるために俺の家にきたんだよ。今、遥名がここにいる理由を思い出せないのは、俺がその記憶ごと消したせいだ」
そんなことできるわけないやん、そうツッコミを受けてもおかしくない場面。
それをしなかったのは、きっと俺の口調があまりに真剣だったからだろう。
「記憶を、消した……?」
「ああ。遥名にそうしてほしいって泣きつかれた」
「ウソや、ウチそんな覚えないで」
「それも忘れてるんだ」
もう舌戦をやらかすつもりはない。
俺は最短距離で本題に切り込むことにした。
「スマホを見てくれ。俺が忘れさせた出来事はそこに書いてある」
直球の懇願に、遥名が狼狽えたような反応を見せる。
「いや待って。それっておかしいやろ。だってウチがコーヘイに記憶消してって頼んだんやんな? 今スマホ見てもたら全部元の木阿弥になってしまうんとちゃうの?」
もっともな疑問だが、それだって見越している。
だから返事も考えてあった。
「一緒だって気づいたから」
「それ、どーゆー意味よ?」
学びならばもう得た。
俺は遥名に、それを伝えてやることができる。
「1回や2回じゃないんだ。俺はこのやりとりを何度も繰り返してる。俺が止めても、遥名は絶対にスマホを見る。その都度、俺はショックを受けた遥名の記憶を消し直した。今もし我慢することができても、いつか必ずそれを知る。知って、傷つくことになる。だから記憶を消去したって同じなんだ」
言って、俺は穴が開くほど遥名の顔を凝視した。
どこを掘っても荒唐無稽な話だ。何度も繰り返した俺だって思う。
なんなら今すぐ立ち上がって、呆れてこの場から去ってしまっても仕方がない。経験差のある中で、それだけのことを自分が言っている自覚はあった。
だけど遥名はそうしない。長年連れ添った幼馴染の直感が知らせている。
俺が嘘など、一言も言っていないことを――。
しばらく待つと、躊躇するように口を開いた。
「まだよく信じられへんけど、コーヘイの言っとることが本当やったとして、それってウチがどうしても忘れたい記憶なんやろ?」
「ああ」
深く頷き返すと、遥名はらしくもなく悄然として。
「そんなん見るん、ウチ怖いよ……」
わかっている。勇気が要求されることなのは。
だけどここでずっと立ち止まっていたら、前には進めない。
同じ場所で、一生繰り返し続けることになる。だから――。
「そのための幼馴染だろ」
「へ?」
素っ頓狂な声を出す遥名に、俺は似合わない笑顔を作ってみせた。
「遥名は最初、それをひとりで見た。けど今は傍に俺がいる。こんなんでも一応は気心の知れた幼馴染のつもりだ。少しは気が楽になると思わないか?」
「……コーヘイ……」
恐怖に竦んでいた遥名の瞳が、開かれていくのが見える。
「無闇に前向きなのが遥名だろ。俺に、いつもの遥名を見せてくれよ」
「う……うん、わかった」
決意を秘めた力強い頷きが返ってくる。
遥名はスマホを取り出すと、真剣な表情でそれを操作した。
順調に動いていた指が止まる。例のメッセージを見てしまったのだ。
「ウソや、そんな……なんで先輩に彼女がおるんよ……!?」
当の本人が忘れているだけで、何度も切り開かれた傷口。
それを見続けてきた俺の本当の仕事は、ここからだ。
静かに深呼吸して、スマホを見たまま動けない傷心の彼女に告げる。
「なあ遥名……俺じゃ、ダメか?」
声をかけられ、顔を上げた遥名が俺を見る。
無表情で、眼元にこぼれそうな涙を湛えたままで。
「……は?」
まるで時間が止まったような感覚はしかし、遥名自身の声が解除した。
「はああああああああああああああああああああああああああああっ!?」
ズザザザザーっと音を立てて、遥名が床に尻を付けたまま高速で後ずさる。
ドスンと部屋の壁に背中をぶつけたところで逃げ道がなくなった。
背中と腕を限界まで壁にくっつけて、真っ赤な顔で俺を見てくる。
「なっ、なななな、なにゆーとんのよコーヘイ!? あんたバッチリ見とったやろ!? 今ウチ失恋したとこやったやろ!? 冗談言うてええタイミングちゃうやろっ!?」
まさしく混乱の極みといった様相で、口をわななかせて幼馴染が言う。
無理もない反応だと思いつつ、訂正すべきところは訂正することにした。
「冗談なんかじゃねえよ。真顔のままだろ」
「ま、真顔で冗談言うヤツもおるやろ? ほ、ほらあの俳優とか?」
竹中直人は真顔で冗談言うんじゃなくて、笑いながら怒るやつだろ。
とかく、真剣な話をしたいときに気を散らされるものがある。
眼前にある該当部位からやや斜め上に視線を逸らしつつ、俺は言った。
「遥名、足、足」
「……足?」
遥名の視線が俺から下方に向かう。やがてショートパンツという防御力の低い出で立ちながら無防備に、あけっぴろげなまでに御開帳した自分の両脚を眼にした。
「うっきゃあああああああっ!?」
まるで乙女みたいな悲鳴を上げて、遥名は秒で内腿同士をくっ付けた。
「コーヘイのスケベ! ヘンタイ! なに見とるんよっ!?」
「そ、そっちが勝手に見せつけてきたんだろ!?」
いやまあ、白くてスラっとしててキレイな足だなーとか思わなかったといえば嘘になるけど……。
閑話休題。俺は頭の中を本題に切り替えた。
「返事、今聞いてもいいか?」
「そ、そんなん絶対無理! ただでさえ頭ん中バグっとんのに……」
うーっと唸りながら両手で頭を抱える遥名。
じっと待ちの姿勢を取ると、チラっと眼を上げてこちらを窺ってくる。
「……い、いつから?」
「遥名と出会ったときから」
とか言えればカッコも付くんだろうけど、悲しいかな事実は違う。
「今日、遥名に泣きつかれた瞬間だよ。あのとき、自分の気持ちに気づいた」
「い、今までずっとフツーの幼馴染やったのに、そんなん気の迷いとちゃうん?」
痛いところを突いてくるが、誤魔化すつもりもなかった。
「わからん」
「わ、わからんて……」
ズルっと、まるでコントのように壁に背を預けたままずり落ちる遥名。
それでも、この気持ちまで笑いにするつもりはない。即座に言い足す。
「遥名を放っておけなかったのは本当だ。大事な幼馴染を、あのサッカークソ野郎なんかに傷つけられたままにしたくなかった」
「さ、サッカークソ野郎て。先輩は一応、ウチの想い人なんやけど……」
歯切れ悪く言う遥名だったが、俺としては今さら言葉を選んでやる義理もない。
「クソ野郎なのはたしかだろ」
「せ、先輩のことよー知りもせんクセに、コーヘイが言っていいこととちゃうやん」
「知ってるよ」
言うと、遥名の顔から険が抜けて、ぽかんと口を開ける。
「へ? なんで……」
「だって遥名、俺に向かって散々ノロケてたろ。今日は先輩とどうこうしたって」
それは二カ月ほど前に始まって、告白に臨む前日まで続いた。遥名が俺の家にくる頻度が増え、サッカー部のキャプテンについて話題を振り始めたのだ。
『ウチのサッカー部にな、メッチャカッコええ先輩がおるねん!』
遥名の口から、男の話を聞くのは初めてだった。
ショックというより、俺の幼馴染もそんな年頃に差しかかったんだなあとしみじみと思ったことを覚えている。
置いていかれる寂しさよりも、あこがれの人と上手くいって幸福になれればいいと、そう最初は思っていた。
違和感を覚えたのはいつだったろうか。
俺は遥名とサッカー部キャプテンとの関係性の歪さに気が付いた。
たしかに仲は良かった。傍目には恋人同士に見えるくらいに。
二人は一緒に帰ったり、カフェに寄ったりして、親睦を深めているようだった。
おかしいのは、遥名の語る話に他の登場人物がまるで出てこないこと。
高校生の身空で人目を忍ぶ付き合いをする意味はない。校則で男女交際が禁止されているわけでもない。なのにそんなことをする理由は、その先輩自身に後ろ暗い心があるからじゃないのか。
俺の不安は、最悪のかたちで証明されることとなった――。
『誤解させてごめん。今俺には付き合ってる彼女がいるんだ。だからもう、部活動以外では二度と話さないようにしよう』
遥名のスマホに届いた簡素なメッセージからは、悪意は感じられない。
けれどそれは、いっぱい迷ってずっと悩んで、勇気を振り絞って告白してくれた女の子に向けていいものじゃない。一世一代の告白への答えをその場で拒否して、あとで一方的にスマホに送りつけていいものなんかじゃ絶対にあり得ない。
結論からいえば、その先輩にとって遥名は股がけ用の女の子だった。
告白されて、彼女にバレそうな事態になったから、鬱陶しがられて切られたのだ。
だからいつも元気に笑っている遥名が、あんなにも泣いていたのだ。
「……コーヘイは、最初から全部気づいとったん?」
経緯を語って聞かせると、遥名が神妙な顔で窺ってくる。
「否定できればいいって思ってたよ。けど、この部屋で遥名からあのメッセージを見せられて、自分の読みが正しかったって思った」
怒りの心ごと潰すように、ぐっと拳を握り込む。
そしてもう一度、俺は素直な自分の心を伝える。
「俺は、あいつみたいにカッコよくない。スポーツもできないし、遥名を楽しませることだってできないかもしれない。けど俺は、必死な思いで告白してくれた女の子の気持ちを、無下にして踏みにじるような真似は絶対にしない」
そう断言して、心の中で誓った。
そして好きな女の子の顔を真っ直ぐに見た。
「そんな男が相手じゃ、ダメか?」
「……コーヘイ……」
もはや茹でダコのように、真っ赤な顔になってしまっている遥名。
その気持ちは、まだ境界線上の波間に揺らいでいるように思えた。
こちら側に引き寄せるよう、俺はなおも呼びかける。
「いいか遥名、俺はお前のことが――」
「ま……待って!!」
耳まで真っ赤にした遥名が、手の甲でわななく口元を隠した。
向かい合う俺から微妙に視線を逸らすと、火照るのか自分の頬に両手を当ててうーっと唸ってから、いつもは聞かないか細い声を出す。
「お、女の子が弱っとるときにそんなこと言うの、ほんまに反則……」
「ああ、俺は反則上等の最低男だよ。姑息で卑怯者のウジ虫野郎だ」
もはや脳味噌を1ミリも動かさずに勢いだけで開き直ると、今度は遥名がギョギョっとドン引きしたような反応を見せる。
「う、ウジて。いくらなんでもコーヘイはそこまでアカンヤツやないやろ……?」
どっちやねん、と突っ込みを入れたい思いを我慢して待っていると、遥名が俯き加減のままモジモジとし始める。
少しだけ顔を上げて、こちらの様子を窺ってくる。
「あのな、そっから先言うたら、本気でもう取り消せんようになるで?」
「構わない。最初からそのつもりだ」
「自慢やないけど、ウチって大概メンドクサイよ?」
「その分イイ女だよ。問題なんてない」
「隠しとったけど甘えん坊さんやし、ワガママとかもガンガン言うタイプやで?」
「ずっと幼馴染やってきてたろ。そんなのもう全部知ってるって」
俺が紡ぐフォローの言葉を受けて、ウルウルと瞳を潤ませてゆく遥名。
けど、その次の言葉を紡ぐのには、些か躊躇があるようだった。
何秒か迷って、それからおそるおそる口にする。
「先輩のこと……まだ好きかもしれへんよ?」
根がやさしい遥名は人を試したりなんてしない。
だからそれは、俺の覚悟をたしかめるための質問ではなく、それでもいいのかという確認のための一言。
力強く頷いて、俺は答えた。
「俺が忘れさせる。今は無理でも、何年かかっても絶対、お前にあいつのことを忘れさせてやる」
遥名の前まで歩んで、その顔を真っ直ぐに見詰めて告げた。
「遥名、お前が好きだ」
「うん……ありがと」
この夜、のべ9回もの記憶消去と遥名の涙を経て、俺たちは正式に付き合うことになった。
◇◇◇
青い時間は足早に過ぎる。
あれからすぐ、遥名はサッカー部のマネージャーを辞めた。すっぽりと空いた時間の使い道は早すぎる受験勉強に充てられた。遥名は志望大学のランクを2つ上げ、そこを目指して日々努力することに決めたのだ。
「ウチはやるで!!」
失恋の痛手から一転、完全に吹っ切れた遥名の燃え盛る情熱は本物だった。
その熱に当てられて、俺も志望大学のランクを3段階引き上げることにした。幼馴染の関係から晴れて恋人となった身として、遥名と同じ大学を目指そうと日夜勉強に励むことにしたのだが――。
「コーヘイ、そこちゃう。AやなくてBや」
「は? Aが正解で合ってるだろ」
「昨日も言うたやん。使てる公式自体が間違っとるんやって」
「そんなわけが……うお、マジだ!?」
「フォフォフォ。まだまだ修行が足らんのぉ」
どういうわけだか勉強の要領だけはすこぶる良い遥名の進行ペースに付いてゆけず、神経をガリガリと削られた俺は、勉強時間を増やすことで無理矢理それに対応した……。
そのせいか、高2の夏から受験日当日までの記憶はあやふやだ。勉強時間の増大による肉体的負荷は慢性的な睡眠不足を招き、俺の眼元には今もって完全には消えていないクマの痕跡が残っている。
ともかく努力、努力、努力の日々だった。
隣に遥名がいてくれなかったら折れていたかもしれない。
それでもあいつが俺を見切ったりすることはなくて、だから俺も心からそれに応えたいと思った。そして――本気の努力が実を結ぶ。
「コーヘイ、合格おめでと!!」
「遥名も、おめでとう」
ハイタッチを交わす俺たちの正面の掲示板に、2人の受験番号がたしかにあった。
――壮大なネタバラシは、この1年後に起きる。