第4話 揺れゆらペットボトル
夏の本格的な気配が忍び寄る、学校では体育祭に向かって動き出す時期。
クラス対抗の種目は【男女合同ダンス】。
その初回練習で体育館へ向かう最中、体操着姿の真夏と林檎は口論未満の言い合いをしていた。
「カメラ代? 真面目にバイトした方が早いでしょ?」
林檎が幾度目かの呆れ声を放った。
隣を歩く真夏は子供のように「正論禁止!」と口を尖らせる。
「京と彼氏になるなんてね」
「仕方ないだろ。もう付き合っちゃったんだから」
「一体どこの誰に甘い話を吹き込まれたの?」
「夢瑠のマネさん」
「信用できる? それに、」
「林檎心配しすぎ。ほっといてくれよ」
「あーっそ。もう知らない」
ぴりりと険悪な雰囲気になる。
おかげで、授業が始まった後の二人一組の練習を林檎に断られてしまった。
だらだらと冷や汗をかく真夏。
反対側には男子グループもいるが、さすがに気が引ける。
と、そこへ。
「東堂さん。一緒に組まない?」
「浅井さん……!」
香乃からまるで後光が差すように見える。
二つ返事で了承し、幸運を噛みしめる。
「最初はストレッチからだって」
と香乃が真夏の背面に回り込んだ。
「よ、よろしくお願いします」
「敬語……?」
「あっ、よろしく」
「うん。あ、東堂さんの体…ラインが凄く綺麗」
香乃に背中を触れられ、思わず肩が跳ねた。
「んひゃっ」
「ごめん、変なとこ触った?」
「ううん、ちょっとびっくりして」
後ろ側に腕をゆっくりと引っ張られる。
顔は見えないが吐息が聞こえるほどの距離、妙に緊張してしまう。
「んんっ」
「東堂さん? もう少し力を抜いて」
「そ、そうなんだけど」
肩甲骨や背骨に指先が当たるたび、体はほぐれるどころか強張っていく。
まるでピアノを弾くようなタッチなので、反射でぴくりと動いてしまう。
「……もしかして、くすぐったがり?」
「そう、かも?」
前はこんなにも敏感でなかったはずだが――
すると、香乃が人差し指でちょいっと真夏の脇腹を突いた。
「ひゃわ!?」
反対側にのけ反る真夏。
自分でも驚くほど〝高い声〟が出てしまい驚く。
一方の香乃はくすくすと小さく笑っている。
「あ、浅井さんこういうことするんだ…」
「ふふ。ごめんね。東堂さん、なんだか緊張してたから」
(気を遣わせてしまった。にしても、あんな声が出るなんて)
係を交代し、今度は足を伸ばした状態で座る香乃を後ろから押す真夏。
柔らかな肌の感触と、うっすら透けて見える下着の線。
思ったより動揺しない自分に喜ぶべきなのか、落ち込むべきなのか。
そんな心配をよそに「さっき……」と香乃が切り出した。
「牡鹿さんと話してたこと、少し聞こえてしまって」
「え、あ。うん」
「その…東堂さん、彼氏がいるの?」
「はひっ!? そんなのいないよ!」
「そう、なの?」
でも…と香乃が小声になる。
「『マナミー』のアカウント見ちゃったの」
さーっと血の気が引き、手の動きが止まる。
「し、知ってるの!?」
「……見る、だけ。東堂さん、春ごろ話題になったし」
「あれには一部嘘があるんだ!」
「別に、いろいろな恋愛の形があってもいいと思うけど」
「それはもちろん。でも俺の恋愛対象は女性でして」
「ならどうして?」
それは、と口ごもる真夏。
金銭目的と打ち明けるのは憚られ、「いろいろと事情が」と濁す。
香乃はそれ以上聞かず、わかったと頷く。
「大丈夫。誰にも言わないから」
「ありがとう」
香乃は「そう、付き合ってないんだ…」とひとりごちる。
「じゃあ…」
と振り向いた香乃の、柔らかな微笑。
「二人だけの秘密、だね」
真夏の心臓がとくりと温かくなる。
「秘密―― うんっっ」
ストレッチが終わりダンス練習へ。
今日は軽く流れを覚えるだけ、と言いつつ意外と本格的な振り付けに尻込みする真夏。
その複雑さのせいか、幾度も転んでしまう。
「いてて」
ダンスは得意でないが、失敗続きでさすがに気恥ずかしい。
(こんなにコケるなんて、調子悪いな)
尻もちをついた真夏のそばに香乃がしゃがみ込む。
「大丈夫?」
「うん……くそ、なんかムズいな。誰だよ選んだの」
「……私も票、入れたけど」
「あーーー、曲も振りも好きだよ!? 別に文句言うつもりじゃ」
わたわたと弁解する。
「わかる。難しいよね。特にあのほら、らったんたーん、たん…で回らなきゃいけないとこ」
「あっそこヤバい! 頭混乱する」
「ふふ。こけた所、平気?」
「ぜんっぜん。格好悪くて嫌んなるな」
「ううん。頑張ろうね。あ、これいる?」
こと、と隣におかれたミネラルウォーター。
「いいの!?」
「うん。暑いから」
「ありがとうっ」
じーん、と感動でペットボトルを握り締めた真夏。
気合を入れなおし、立ち上がろうとする。
「あれ? 痛って……」
ずきずきとした鈍痛が足首から広がっていた。
転んだ時か、と考えたがしかしこんな場所をひねった覚えはない。
「いて。いててて」
痛みはますます強くなり、顔に苦悶が広がる。
「えっ真夏!? ちょっと」
林檎が駆け寄ってきた。
「どうしたの? 立てる?」
「あ~、いや、キツいかも」
騒ぎに音楽が止まり、反対側にいた男子グループたちも異変に気が付いた。
「真夏ッ」
京一が走ってくる。
大げさだ、と止めようとするも今や脂汗の出るほど痛みは強くなっている。
京一は真夏の青ざめた顔を見て――
「あッ、おい!?」
あっという間に、体を抱え上げていた。
「保健室に連れて行く。林檎」
「うん。先生には私が言っとくから」
頼むと頷いた京一はそのまま体育館を出て行った。
一部の女子が「すっごー! 王子様みたい!」とはしゃぐ。
「おい京一! ばか恥ずいだろッ」
「この方が早いから」
しかたなく京一の体にしがみつく。
恥ずかしい、みっともない、そんな感情がぐるぐると渦巻く。
否応なく相手の胸板に顔が当たり、意外と鍛えているのかと変に気が付いた。
一方こちらは子リスのように丸まり、体重なんて無いみたいに軽々運ばれている。
(俺、なんで――)
そわそわと落ち着かないのは痛みのせいだろうか。
顔が赤くなるのは他人に見られることが嫌だからなのか。
保健室。
「いってぇ…」
「大丈夫か? 折れたりしてるんじゃ――」
「いや、違う。転んだ痛みじゃない」
「じゃあ……?」
熱中症を疑った京一が真夏の頬に手を伸ばす。
ひんやりした手が触れた瞬間、真夏は妙な感覚を抱いた。
咄嗟にその手を払いのける。
「これ―― TS症の方だ」
TS症の肉体の「完成」は2年かけてじわじわ行われる。
その元の性別と反対に作用する小さな「逆成長痛」が起こっているのだ。
「薬は?」
「教室。鞄ん中」
「取ってくる」
京一、と真夏は呼び止めた。
「体育館に水、忘れて来たんだ。それも取って来てくれるか」
「水? 戻るより新しく買った方が……」
「ううん。浅井さんから貰ったんだ」
一瞬、京一の目が揺れる。真夏は気付かない。
「……わかった」
5分後。
痛み止めを飲んだ真夏がベッドにぼふりと倒れ込む。
「京一、ありがとな。すっげー恥ずかしかったけど」
「ごめん」
「いいけどさぁ…お前ってさぁ……」
格好いいよな――
その一言が喉まで出かかって、けれど言えなかった。
「ああいうこと、咄嗟にできちゃうんだな」
「……彼氏だから」
「ふはっ。そーだった」
零した笑みで京一を見る。
その笑顔がいつも真夏と違う気がして、京一は掴まれたように動けなくなった。
「真夏――?」
呼吸のリズム、頬の赤み、吸い込まれそうな瞳のきらめき、
その全てに――
艶がある、ような。
そのことに京一がはっきりと気が付く前に、真夏はふいっと体ごと顔を逸らす。
「――――練習、戻れよ」
「あ……いや、薬が効くまでは」
「平気だっつの」
「もう少しだけ」
「いいってば」
「なんで顔隠してるの」
「うるせぇ」
「でも、」
「しつこい。戻れっつってんだろ」
棘のある言い方だった。
「……わかった」
「ごめん。悪い。でもほんと、大丈夫だから」
扉が閉まり、遠ざかる足音を聞きながら真夏は自己嫌悪する。
(やべ~~~しくった~~~)
顔を見られたくなかった理由。
言えなかった理由。
胸を押さえ、真夏は赤くなった顔で天井を見つめた。
(なんだこれ。なんだ?)
抱えられた時、
頬に手を添えられた時、
見つめられた時、
(浅井さんと話す時の感じとも違ってた――)
その全てで――
(京一が2割増しでキラキラして見えたなんて、おかしいだろ)
貰ったペットボトルをぎゅうと握り締める。
その冷たさを頬に当て、正常な体温に戻そうと試みる。
TS症の「逆成長痛」と同時に起こる、もう一つの症状。
体の性別に引っ張られる、思考の揺らぎ――
何者にも止められない、変化の兆し。