第1話② TS症になった東堂 真夏の日常
放課後――
めいめいが部活動へ向かう中、帰宅部である真夏は真っすぐ昇降口へ。
昨年度まではテニス部だったが、TS症とスポーツの相性は悪く進級を境に退部していた。
一方、京一はカメラ部だ。今日は撮影に付き合うことになっている。
下駄箱まで来ると、体操着姿の林檎と隣で話す背の高い同性の友人を見つけ声をかけた。
「おーい。二人とも部活はどうした?」
振り向いた人物のロングストレートヘアが揺れ、豪放ともいえる声量が返る。
「俺は今日定期検診でな! 部活は休んだぞ、真夏!」
この170㎝の美少女は猫田 阿十武。
――真夏と同じTS症罹患者である。
「んなデケー声出さなくても聞こえるって」
「すまない。柔道部では腹からの発声が基本でな」
真夏よりも半年早く病に侵された猫田。
彼は裏表のない性格、スポーツに対しての真摯な態度から「男子柔道部」から「女子柔道部」への転属が上手くいった稀有な例として有名である。
通常、TS患者がそうやって「異性の世界に入る」ことは強い拒否感情が起こる場合が多い。
真夏は猫田からTS症の具体的な対処・流れを知れたおかげで立ち直りは早く済んだ。
初期のメンタルケアが肝心と言われる病、真夏は恩人とも呼べる彼の精神性を密かに尊敬していた。
「ねこ。私そろそろ行くから」
と、林檎が猫田のシャツの裾を引っ張った。
「ああ、引き留めて悪かったな」
「べつに。じゃ」
そっけなくその場を離れ林檎はバレー部へ向かった。
一見合わなそうで、実は交際関係にある二人。
猫田がTSする前からの縁で、真夏は偶然それを知り―― というか二人の「そういう現場」を目撃したきっかけで両名と親しくなったのだった。
「真夏も帰るのか?」
「いや、京一の課題に付き合う」
「ほう写真か。ああ噂をすれば……京!」
京一と合流し校舎を後にした三人。
駅までの道、美少女と美男子(全員男)が歩く様はよく目立った。
猫田が周囲を気にしない通りの良い声で喋る。
「京、撮影場所は有名なカフェなのか?」
「雑誌掲載。味が良かったら後で送るよ」
「頼む。林檎の好きそうな店を探していてな」
真夏が悪気なく「調べるの苦手そうだもんな」と言う。
「その通り!」
がはは、と美少女らしくなく笑う猫田。
「代わりに京のセンスは信頼している。お前の写真も好きだしな」
静かに、ありがとうと口にした京一。
どうやら照れているらしい、と真夏は感知する。
やがて駅前まで辿り着き、
「ではな! また来週」
と猫田に豪快に手を振りながら見送られ、二人はホームへと向かった。
駅を降りて10分。
細い裏路地に構えた小さな店の前で二人は立ち止まった。
レンガ造りの白い外壁にヨーロピアンテイストの青い木製ドア。
広い窓から見える、レトロな緑色のソファ席。
幸いにも、さほど待つことなく奥の窓際の席に案内された。
真夏はきょろきょろと内部を見渡す。
「しゃれてんなー。俺この雰囲気好きだ」
「うん。日当たりの良い席でよかった」
「なんにしよっかなー」
15分後。
運ばれてきたのは、鮮やかで艶やかなベリーたちが盛り付けられたフルーツタルト。
目を輝かせる真夏。
だが、すぐには食べない。まず京一が写真を撮るからだ。
カメラは自前の愛機でミドルクラスのミラーレス一眼、それなりに良い物を使用している。バイト代を貯めてフィルムカメラに路線変更するのが目標、らしい。
「…うん。いいよ」
「よっしゃ。いっただっきまーす!」
真夏は銀色のデザートフォークをクッキー生地に刺し込んだ。
間のカスタードソースが少し押し出され、バニラの粒が覗く。宝石のような赤い果実がこぼれないよう、ゆっくりと口へ運ぶ。
「…………! んん~~~~~~っ!」
声にならない歓声を上げ、とろけそうな表情を見せる真夏。
夢中になって食べ進める様子を京一はファインダー越しに熱意を持って見つめ、シャッターを切っていく。
「はーっ、ごちそうさまでした」
満足した顔で口元を拭く真夏。
「京一、コーヒーだけでいいの?」
「俺は…うん、もうお腹いっぱいと言うか、眺めて満ち足りたと言うか…」
「でも課題が『食べ物』ならここじゃなくても良かったろ?」
「そうだけど、でも……真夏と来たかったから。好きだろ、ケーキ」
「お、おう。ありがとな!?」
ふ、と京一が微笑を漏らした。
夕日の差し込む店内で、オレンジ色の光が二人を照らす。
でも―― と真夏は思案する。
(被写体が俺でいいのか?)
きっと女になった自分に未だ慣れないはずだ。
だが京一は真夏と距離を置くことを選ばなかった。
それが幼馴染という繋がりからの義務感からでは―― と真夏は気にしていた。
親同士が親しく幼少からの仲な手前、言い出しにくいこともあるだろう、と。
(俺が病気になりたてで苦しんだ時もそばにいてくれたもんなー)
TS症患者が必ず乗り越えなければならない、最初の関門。
それが「逆成長痛」だ。
肉体の変化が三日三晩かけて行われる際、筋肉と骨が縮小もしくは肥大化する。
その痛みは想像を絶し患者の心を削っていく。
京一はその間、見舞いを欠かさなかった。
(撮ったデータを見る度「ウッ」とか漏らしてるし、無理してないのか? でも、それでも……)
「ありがとな、けーいち」
「? どうしたの」
「んーん。なんでもねーよ」
京一の心中はわからないが、真夏は「撮られること」が嫌いではなかった。
自分をファインダー越しにのぞく真剣な目が――
(なんか、あの目に見つめられると体が熱くなるんだよな)
真夏には味の良さがわからない黒い液体をすする京一を見て思う。
(絵になるなー。顔が綺麗だからかな)
見つめていると目が合った。
何を語るわけでもない静寂が一瞬訪れる。
二人は知らない。お互いに同じことを考えている、と。
*
カフェを出た後は自宅に近い駅で降りロータリーへ。
バスを待ちながら、次はどこに行こうかと他愛のない会話で時間をつぶす。
まるで仲睦まじい間柄かのように、スマホを挟んで互いに顔を近づけて話していると。
「マナミー……」
ぼそ、と名前を呼ばれたような気がして真夏は声の方へ視線を向ける。
男―― フードを被った、姿勢の悪い人物がいた。
「あ、会いに、来たよ、マナミー」
不明瞭な声。
「え? 誰」
「僕だよ。『@92_anonymity』だよ。コメントに返事が無いんだもん。もう会った方が早いと思って」
「きゅーにー…? わかんないんですけど……」
「真夏。夜中にコメントした奴だ。俺の後ろにいて。警察呼べるよう、準備して」
小声で伝えられ、真夏は掠れた声で「わか、った」と返事をした。
ごくり、と喉を鳴らして唾液を飲み込む。
男はその様子に反感を抱いたようだ。
「どうしたの。僕に会えて嬉しくないの」
「……あんたの事は、知らない。なんで俺がここにいるって――」
「あんた、だって? ファンに向かって? わざわざ8時間かけて会いに来たのに!」
駄目だ。話が通じそうにない。
「この男、誰? なんで一緒にいるの? 浮気? 許さない、許さないよッ」
意思とは関係なくスマホを持つ手が震える。
男がポケットに手を突っ込んだ。微かに覗いたのは銀色の鈍い光。
(え? ナイフ? 包丁? 刃物――?)
ソレを握った状態で男が近づいてくる。
「あのっ、男がなんか持ってて、ヤバい感じでっっ、場所、場所は駅の、〇〇駅です!」
「真夏、いざとなったら走って。俺が囮になる」
「バッカ、一緒に逃げればいいだろ! つーか――」
――守られる側になってんじゃねえよ、俺。
咄嗟に、真夏は地面に置いてあった通学カバンを男に向かってぶん投げた。
どすんとそこそこの重量の物体が直撃し、男は怯んだ。
「ひ、酷いよマナミー…………」
男はそう言い捨てると猛ダッシュで逃げ去っていった。
思わずその場にへたり込む真夏。
「っ、焦ったあ~~~」
「真夏! 大丈夫……?」
「へーきへーき。カバンの中の物は大したものじゃな……あれ?」
ふと目をやると真夏の通学カバンはすぐ隣にあった。
つまり、先ほど投げたのは。
「ウソあれ京一のっ!? カメラがっ――!!」