第9話 猫cafe
真夏の発言を聞き、猫田はううむ、とだけ唸った。
「可愛く、か。その心境に至った理由は?」
「……嬉しかったんだ。動画の中で『マナミー』が成長した実感は」
講師に褒められることもそうだが、自身の所作が整うことは単純に気分が良かった。
この肉体に「似合う」正解が見つけられたような…新しい感覚。
「ふむ…? 『マナミー』は真夏とは違うのか?」
「ん~。違わない、けど違う」
「哲学か!」
「ちげーよ。期間限定だからこそ、この体でどこまでいけるか知りたいんだ」
「ほう。だが、人気が出た先のことは考えているのか?」
SNS上で【マナミーがTS症患者の男性であること】は伏せている。
「バレないようにはするよ」
「俺がどうこう言うことではないかもしれんが。『真夏』と乖離しすぎても心配だぞ」
「そこはまぁ、この体になった時点ですでに乗り越えた」
「そういうものか? うむ。決めたのであれば、俺は応援する」
全てを理解した訳ではないが、猫田は否定を口にしなかった。
どっしりと構えた笑みに安心感を貰う真夏。
肉体と精神の話が出たついでに、そう言えば…と猫田に訊ねる。
「なぁ、TS症には異性へのトキめきが毒らしいって知ってた?」
「む? ああ、この間の定期検診で聞いたな。それがどうかしたか?」
「どうって。大事なことだろ」
「俺は林檎以外に特別な感情を抱いたりせん」
「ね、猫田さん……!」
店を出た帰り道、ちょうど「映え」に使えそうな場所を見つけた。
次はここに行くか、と真夏はメモをする。
それまでに―― と、ふとした思いつきが浮かぶ。
(京一のやつを驚かせたいな)
抱いたのは悪戯心にも近い好奇心。
その日から真夏は、姉の彩陽に頼んで自主トレーニングを積むことに。
空いた時間にする程度の、誰にも言わない秘密の特訓。
ネットには参考動画がいくらでもあった。
***
数日後――
「お、おはよ」
普段より背筋を伸ばした立ち姿で京一と挨拶を交わす真夏。
本日のコーディネートは彩陽が真夏の足の長さを生かすためとチョイスした、ショートデニムにネックラインの深い襟付きブラウスだ。
道中、学んだ「歩行」を思い出しながら足を動かす。
彩陽からのアドバイスも念頭に――【正気に戻るな】。
仕草にまで気を回す余裕はまだないが、雑すぎないことは意識している。
しかし――
(京一のやつ、何にも言ってこねえ!)
今日の真夏についての指摘が全くない。
どころか普段にも増して口数が少ない。
時折ちらちらと視線は感じるがそれだけだ。
とはいえまだ序盤、移動の段階。
これから行く場所で撮影をすれば嫌でも目に付くのだから問題はない。
(つーか、気付かせるし?)
――雑居ビルの3F、エレベーターを降りた先。
【cafeもだんちゅーるす】の看板の向こう、ガラス張りの屋内からさっそく「目が合う」。
靴をロッカーに入れ、念入りに受けた注意事項の説明。
そうして開けた二重扉の向こうには――
天国が広がっていた。
「ふわああ…!!」
都心の中央とは思えないほど明るく広々とした空間。
カフェ、というイメージよりも空港のラウンジが近い家具の配置の中、主役たちが自由に動き回ったりくつろいだりしている。
さっそく真夏の足元を、ロシアンブルーのやんちゃな一匹が走り抜けていった。
「やっば…、かわいぃぃ~」
この猫カフェには常時10~15匹程度の猫たちが交代制で勤務しており、追加料金を払えばおやつオプションなども付けられる。
カフェと言ってもドリンクはセルフサービスで、人間のスタッフによる接客はほとんどない。
とりあえず近くのソファに座り、窓辺ですまし顔の茶トラと戯れる。
一方、京一は猫のたまり場になっているらしい部屋の奥へ吸い寄せられるように移動していった。
(ってあれ? 撮影は?)
京一を追いかけ、後ろ姿に声をかける。
「な~京一。いつ撮んの?」
「まだ、猫たちとも打ち解けてない。真夏は相性の良さそうな子を探して」
「あぁ、わかった…」
それなら仕方がない、と室内を回ってキャストたちを確認する。
短毛種・長毛種、様々な猫たちはみな毛艶が良く健康そうだ。
真夏は頬を緩ませっぱなしで、ひたすら癒される作業に徹する。
――――2時間が経過した。
「って今何時だよ!?」
今日はただ遊びにきた訳ではないのだ、と相棒の姿を探すと――
「けいいち……、!?」
京一は猫に囲まれ身動きができない状態に陥っていた。
目を細め、菩薩の如き安らかな笑みで床にあぐらをかいている。
珍しく真夏が近寄っても微動だにしない。
「け、京一?」
「俺、ずっとここにいたいかも……」
「その気持ちはわかるけど」
京一の近くに腰を下ろす。
猫たちは「なんだおまえは」と言わんばかりに新入りに鼻を近付けてくる。
日当たりの良い室内のおかげで、まどろみを覚えるほど穏やかな時間が過ぎる。
やがて手持ち無沙汰にきょろきょろと周囲を観察すると、棚に置かれたカゴに目が行った。
――【ご自由にお使いください】
真夏はそれを手に取って観察する。
京一はカメラすら構えることなく両手は猫に占有されている。
だんだんと、腹が立つのかなんなのか、生まれる形容しがたい焦り。
そのせいで、真夏は「それ」を頭に乗せざるを得なかった。
手を伸ばし、ちょい、と京一を指先でつつく。
だが猫だと思われたらしく、完全にスルーされる。
もう少し強くつつく。やはり反応は鈍い。
ここまで来ると、まあまあそれなりにムカついてくる。
なので真夏はずいっと距離を詰めて――
京一の袖をぐい、と引っ張った。
「こ、こっちも構ってほしいにゃーん……、とか」
「――――ッッ!!!?!?」
瞬間、京一の目がカッ!と見開き硬直した。
持っていた猫じゃらしがぽて、と床に落ち、お互い微動だにしない沈黙が下りる。
「……」
「……」
「…………、」
「い―― いまのなし!!!」
「…………!?」
「かんっぜんにスベった、忘れて」
猫カチューシャを捨て去るように外し、真っ赤になった顔を反対側に向ける。
京一はまだ何も言わない。
真夏はぐしゃりと前髪をかき乱して溜息をついた。
「何やってんだろマジで。最悪」
「――、最悪、なんかじゃ」
「いーから! 余計恥ずいから」
ごくんと唾を飲み込み、ようやく処理の終わった京一が言葉を発する。
「――真夏、どうして?」
「あ?」
「なんで今日は―――― そんなに可愛いの」
「はっ? っ、なんだよ急に!」
「今日はいつもと違うって朝から思ってた」
「気付いてたのかよ! どうせ、変なことしてるなって思ったんだろ」
「そんなことない! 俺は嬉しい」
「うれ…?」
「勘違いだったらどうしようって。真夏が、その、いつも以上に可愛くて、直視できなかった……」
「は……」
再び訪れる沈黙。
けれど今回の時間はもっとくすぐったくて――
「真夏、俺の知らない所で何かした?」
「それは、あの、つまりだな……」
ここ数日の出来事を説明され、ウォーキング動画を見たけいいちは悔しさを隠さずに拳を震わせた。
「そんな貴重な真夏を見逃したなんて……っ! なんで誘ってくれなかったんだ」
「TS症患者しか参加できないんだから、しょうがねえだろ」
「くそ、生で見たかった……!」
「バカなの? つーか、今日いっぱい見せてるっつの」
「!! そうだね、そうだ」
「目を輝かせるな、ばーか」
仲良くなったラグドールを膝に乗せながら、真夏はもごもごと言った。
京一は柔和な笑みを浮かべて真夏の乱れた髪を直し、さらに頭に優しく触れる。
「なっなっ、なに撫でてんだ」
「猫を撫でるのは常識」
「さっきのは忘れろって!」
払いのけたいが、ちょうど猫が指にじゃれついて身動きができない。
なんとか腕を伸ばし、ぽすぽすと京一の脇腹を殴る。
「恥ずかしいだろが!」
「語尾はにゃーじゃないの?」
「調子のってんじゃねえっっ」
ぐい、と当たった手が京一の腹を押し、真夏は怪訝な顔になった。
「……? お前、結構腹筋ある?」
「鍛えてる。最近」
「マジ!? どうしたどうした」
「あんな事があったから。真夏を守りたいと思って」
(な――― コイツ、恥ずかしげもなく言いやがって)
「ばっ、バカ。俺のことよりもまず自分を大事にしろよ!」
「うん。でも真夏のこと、大事だから」
「はぇ……」
続けざまにブローを食らったみたいに何も言えなくなる真夏。
頭から出そうになる湯気を振り払うかのように、声を荒げた。
「おおおお前は! 言葉の選び方をもうちょっと考えろ!」
「? どういう意味?」
「うるせー知らねー」
そっぽを向いて、猫に顔を埋める。
そうでもしないと笑ってしまいそうだった。
「真夏?」
「んんっ」
咄嗟に、猫で口元を隠して振り返る。
シャッター音がして、レンズから目を離した京一と目が合った。
ふっと笑いかけられて、真夏はもう一度、猫に顔を沈めた。




