第8話 猫田と真夏のエレガント・レッスン
「背筋伸ばすよー! 腰から足を動かしてー! はい歩くー!」
「ぎっ…足つる!」
「真夏さんまたゴリラになっちゃってるよー! 美しくないねー!」
鏡張りの部屋で筋肉を強張らせながら「ウォーキング」する真夏。
隣には猫田もいて、汗をかきながら黙って指導に従っている。
こんなレッスンをしている理由は数日前にさかのぼる――――
8月に入り猛暑日が続いていた。
最高気温を更新したこの日、真夏は高校の校庭隅で草むしりをしていた。
部活動に所属していない者は奉仕活動を奨められているためだ。
「熱~~~」
「東堂さん、水分はちゃんと取ってね」
隣に香乃がいる、その事実だけで今日を乗り切ろうとする真夏。
自由参加であるにも関わらず登校したのはそのためだった。
「除草剤撒けばよくない?」
「近くに花壇があるエリアは駄目なんだって」
それはそうか、と真夏は合点した。
ちらりと香乃の方に目をやると、軍手を外し髪を耳にかけている。
目が合うと、ちょっと香乃は微笑んだ。
「そろそろ休憩する?」
日陰にある、作りかけのレンガの花壇に移動する。
無造作に座ろうとする真夏へ香乃が「待って」と制止し、ごつごつした石の上にハンカチを敷いた。
「汚れちゃうから」
自分では思いつきもしない気遣いに真夏は目を丸くした。
改めて香乃の動作に注目してみると、己とはまるで違う生き物のようだ。
座り方や、喋り方、汗の拭き方ひとつとっても。
今まで考えもしなかったが、ふと、自分と彼女は何がこうも違うのかと気になった。
「浅井さんって、すごく―― 綺麗だよね」
「え?」
「あっいやその! 動き? あ、仕草が!?」
「ああ――」
香乃はそれだけで全てわかったらしく、さして嬉しそうもなく頷いた。
「小さい頃、お稽古の教室にいくつか通ってたから。三道(茶道・華道・香道)とか、マナーレッスンとか……いろいろ」
「へえ…すごい」
「すごくないよ。ママに無理やり―― ……もう、今はやってないの」
顔を伏せた香乃。
一瞬の沈黙の後、ぱっと顔を上げて言った。
「私は自然体の東堂さんの方がいいな」
「俺? でもこの前、夢瑠にダメ出し食らったし」
「今のままじゃいけないの?」
「うん。俺―― 浅井さんみたいになりたい」
言って、真夏は自分でも「あれ?」と思う。
それはおかしい、とはいえ自然と口から出てきてしまった。
「私に……?」
「あっ? いや、変な言い方しちゃった。うーん?」
「女の子らしくなりたい、ってこと?」
「女の子―― そうじゃないんだけど」
それは困る。この状態は期間限定で、自分はどこまで行っても男なのだ。
頭を捻っても言語化できず困っていると、香乃がぽつりと言った。
「TS症患者のための講座は受けた?」
「そんなのあるの?」
「……最初にパンフレット貰わなかった?」
「貰ったけど、母さんに渡してそれきり」
ぼんやりと、入院先の医師もそんなことを言っていたような記憶が蘇る。
てっきりグループカウンセリングの類だと思っていたが。
「その中に、いろいろ教えてくれるクラスがあるって聞いたことがあるの。興味があるなら、行ってみてもいいかもね」
帰宅後、母の早穂からパンフレットを引っ張り出してもらった。
くたびれたカラー用紙の4P目には「所作・立ち振る舞い講座」の文字が。
初回は無料らしいが正直行く気は起きない。だが香乃の厚意を無下にするのはもったいない。
(一人で行くのはなぁ。誰か…猫田? 興味なさそう)
と思いつつ猫田を誘ってみることに。
100%断られるはず、後々香乃に釈明する理由にしてしまおう――
ぴぽ、と通知音が鳴る。
【興味がある。同行を希望する】
「嘘ォ……」
2日後――――
「猫田、良かったのか? 部活があるだろ」
「うむ。インターハイは終わったしな。大丈夫だ」
そういう猫田の立ち姿は普段より覇気が薄いようだった。
「珍しく浮かない顔してどうした?」
「む。そうか? ……そうか」
「林檎と何かあったのかよ?」
「ああ、それがだな――」
とある日のデート中のこと。
「――もう我慢できない。ねこの隣にいたくない」
「なんと…!?」
「電車で足広げて座らないでって言ってるでしょ」
「おお、すまん」
「あと声も大きいし」
「すまん…」
「改札にあんな強く定期ぶつける必要もないし」
「む」
「それに歩くの早すぎ! 後ろも見ないし!」
「お…」
「それから――」
*
「と、林檎は日頃から不満があったようでな。俺は俺の粗野な態度を改めたいのだ」
「むしろ紳士的な方だと思うけどなー」
「とはいえこの体、力加減が難しくないか?」
「わかる」
「部活でも成果が出せなくてな……」
夏の大会で活躍できなかったことを不甲斐なく感じていた猫田。
真夏は今日が気分転換になればいいのだがと気の毒に思う。
TS症専門クリニックの4Fで受付を済ませ会場に入る。
長テーブルの簡易教室に集まったのは20人ほど。予想外に賑わっている。
「テーブルマナーはわかるけど、ウォーキングレッスンってなんだ」
カリキュラムに目を通しながら独りごちると、ぬっと頭上に影が降って来た。
「歩き方ひとつで品が変わるんですよ」
「ひえ」
ニッコリ、という言葉がぴったりな顔で立つ女性。
「TS症の方の日常動作って、そうでない方から見ると違和感でいっぱいなんです。元々の性別と同じ動かし方をしているから。本日はそういう違いについて学んで頂けたらと」
「はあ」
「わたくし、東堂さんにはとっても光るものを感じますよ」
真夏の頭に(帰った方がいいかもしれない)とよぎるものの――
鏡張りの教室に連れていかれ始まってしまったレッスン。
最初に「普段の歩き方」を動画に撮り分析したところ、真夏の歩き方は大股で雑、猫田は威圧感を与えるとのことだった。
「お腹に力を入れるんですよ。インナーマッスル。ね?」
やたらと、明らかに他の受講者より熱心に指導される真夏。
「先生! 俺だけ特別扱いは良くないと思います」
「いーえ、していませんよ。はいすぐ楽しようとする。姿勢!」
「ぴえっ」
「腰を意識してくださいね。腰から歩く。でも姿勢は保って~」
「しんどいです先生」
「あら、文句は美しくないですよ。黙っておやりなさい?」
「ハイ…」
猫田の方を見ると、険しい顔で背中を引きつらせ歩いている。
むしろ真夏よりも辛そうな表情だ。
(珍しいな。猫田があんな顔するなんて)
みっちり45分。真夏はぐったりとしていた。
「東堂さん、本番。今度は一人で歩いてみてください」
(背中を伸ばして…かかとから…ラインから外れないように…)
5mを歩き終えたが、これで合っているのかは実感がない。
だが撮った動画を見てみると――
「あれ?」
「真夏。俺は良いと思うぞ」
「だよな!? なんか良いよな!」
動画の中、表情はガチガチだが真夏の歩き方は美しく見えた。
講師陣もうんうんと頷いている。
「始めに撮った、普段の歩き方を見てみましょうか」
するとそこには…だらだらと粗暴に歩く、顔の可愛さとアンバランスな少女の姿があった。
「俺、今までこんなだったの……?」
「学んで初めてわかること、ありますよね。生まれ変わった気分はいかが?」
「先生――!!」
がしっと握手し感動を分かち合う二人。
真夏は確かな手応えに、自分でも意外なほど高揚していた。
「猫田! 歩く動作ってすげーな!」
「うむ…。俺は付いていくので精いっぱいだ」
「次はテーブルマナーだってさ。行こうぜ」
「いや、すまないが俺は遠慮しておく」
ふう、と息を吐いた猫田。
体調でも悪いのかと心配したが、どうやらそうではないらしい。
「なんと言ったらよいのか…これ以上は俺のアイデンティティが崩れてしまいそうだ」
「そう? 俺が変なのかな……」
「いや、価値観の問題だろう。俺は来年度には男に戻っている予定だしな」
猫田がTS症になってすでに一年以上経過している。
このまま何事もなければ、冬頃には体が元に戻ると言われていた。
であるならば無理して今の状態を変える意義を感じられない…そういう理由だ。
結局テーブルマナーには一人で参加した真夏。
ウォーキングと同じくらい苦戦したが、やはり動画で見比べると明らかにレッスン後の方がより「良い」と思えた。
「また来てくださいね!」
ニッコリ笑顔で送り出され、猫田の待つカフェへ。
椅子に座る猫田は腕を組んでやはり堂々とした出で立ちで、真夏としてはそれも猫田の魅力の一つだと感じる。
「待たせたな猫田」
「いいや、途中で放り投げてしまってすまない。講師の方にも悪いことをした」
「いーよ。合わないのはしょうがない」
「その間に林檎から連絡があってな。先は言い過ぎたと謝罪されてしまった」
「お、仲直りか」
「うむ。そちらは何か得られる物があったか?」
うん、と真夏は頷いた。
「俺―― もっと可愛くなりたいかも」




