3 アルベルの天使 後篇
「それでは私はこの辺りで失礼いたします」
「お見送りいたしましょう」
「いえ、この後閣下に提出したい書類がありますので」
リーゼロッテは笑って首を横に振った。
「忙しいのに引き止めてしまったかしら」
「いいえ、もとより夫人とたくさん話ができればと思っていました。楽しい時間をありがとうございます」
リリーの様子から気にする必要はないとわかりライラは安心した。
「夫人、もし許されればまた手を触れてもよいですか?」
握手を求める言葉にライラは喜んで頷いた。
今度はしっかりとリーゼロッテは両手でライラの手を包み込んだ。彼女の親指がライラの右手首に触れた。
一瞬ではあるが彼女は優しく微笑んでいた。ふと、ライラは義姉のリザを思い出した。
そういえば、彼女が贈ってくれた毛皮のコートをもうすぐ使う頃だ。
ライラへの挨拶とお茶会を終えた後、リーゼロッテはまっすぐとクロードの執務室へと向かった。
勿論、クロードの元へ訪れることは連絡済であり、部屋から出てきた秘書官のブライアンはリーゼロッテを歓迎した。
ノックの音の後に了承の返事が出る。リーゼロッテは主君の執務室へと入った。
「失礼いたします」
リーゼロッテの手には書類の入った封筒が見られた。
それをみてクロードは困った表情を浮かべる。
彼の机には大量の書類が積み重なっていた。
「閣下にはご機嫌麗しく。手紙でお伝えしていた資料と計画書です」
今すぐに確認してほしいと急き立てた。
「私は今これだけの書類を整理しているのだが」
「面倒臭い作業はブライアン秘書官が既に終わらせており、目を通し、はんこを押す作業でしょう」
リーゼロッテの言っていることはそうである。
ブライアンに比べれば自分の事務仕事はだいぶ楽なものだが、いざ言われると複雑である。
ひとつひとつチェックするのも大変なのだ。
「傷病者は待ってくれません」
内容は治療院、砦の治療部隊所属員の待遇改善である。主に人手の補充であり、一部の治療行為の許可についてである。
一定の知識と経験があること、状況条件つきで、開発された補助道具の使用が前提である。
その補助道具というのが一般人でも扱える魔法具である。
再び激戦区になったとき早急な処置が必要とされるときに発揮されるであろう。
「補助道具のテスト結果は」
「治療院・分院ですでに使用し、全部で450例にあがります。論文は10本作成され、うち1本は帝都、2本は公都の医学雑誌に受理されました」
春に発生した北の新たな侵攻の影響で、データは随分と集まったようである。
10個の論文をぽんと目の前に出されてクロードはため息をついた。
「何でこんなぽんと出すんだ。私は専門家じゃないぞ」
「閣下が言ったではないですか。補助道具の成果を出し、論文が受理されれば予算を増やすと」
言ったな。
補助道具が出た1年半前に。
クロードは春の北の侵攻ですっかりと忘れた記憶を今呼び覚ました。
まさか、こんなに早く成果を出すとは思わなかった。
「わかった。ブライアンと話しておく」
リーゼロッテの教育のおかげで少しだけ論文の内容がわかるようになった。ただ時間がかかる。
ブライアンは建築や治水、農業が専門である。
「そのうち……医療関連に詳しい秘書官を雇うことにしよう」
「そうしてくださると助かります」
医療分野に関しては法整備が不十分である。最近、公都で医者と看護の免許制度が導入されたばかりである。
その上で、どこまで治療として認められているかと未整備部分が目立つ。
公都でも医療は手探り状態であった。
それに追いかける形でアルベルもようやく医療関連の整備を開始した。
ついこの前までは土着信仰や民間医療の力の方が強かった。
一番効果があったのは治癒魔法であるが、使える者は少なく体力消耗があり、回転率が悪い。
かつてアルベルの救命は患者の財布で決まるとまで言われていた。
優先されるべき患者が優先されないという状況が発生していた。
とにかく内容も、システムも今して思えば時代遅れだった。
これを公都のレベルに近づけたのがリーゼロッテである。
彼女自身治癒魔法使いで、公都で医者・看護の免許を同時に取得している。
貴族令嬢としては非常に珍しい経歴であった。
治癒魔法を使える貴族令嬢はいるが、ここまで本格的に医療システムについて学んだ女性はいないだろう。
結婚した相手が理解の良い男性だったことと、彼女自身が意欲的で優秀であったことから起きた希少な存在といっていい。
「疑問点があればお答えします。必要な資料があればすぐに用意いたします」
「ん、ああ……」
クロード自身では何とも言えない。これで十分なのではとさえ思っている。
「ところで、レディ・カレンの容態は君がみてどう思う」
ジーヴルに戻ってすぐに診察をしてもらったはずだ。
「残念ですが、障害が残っています。両足のふらつきは杖を使ってのリハビリ中です。発語は今以上の回復は厳しいでしょう」
カレン・ヒリスは意識を改善したが、足の脱力と言語障害を残してしまった。
今までのような生活は行えない。
「彼女の療養に関してですがヒリス卿がオズワルド様の弟子に相談中です」
オズワルドの館はジーヴル郊外に存在しており、弟子たちが管理していた。
弟子の一人が魔法言語の研究をしており言語リハビリの専門も持っていた。
カレンの兄であるヒリス卿はオズワルドの弟子でもあった。
兄が館を出入りをしていることもあるし、誰が来るかわからない治療院より落ち着いた環境であろう。
「それがいいかもな。私からもオズワルドと弟子らに頼んでおこう」
クロードは治療院で目を覚ましたばかりのカレンを思い出した。
彼女はヒリス卿の介助のもと当時の状況を報告した。
ジーヴル城での礼儀作法の為に向かう途中宿屋で休んでいると、声をかけてきた少女がいた。
自分と同い年で仕事を求めてジーヴルへ向かうと聞き、話が弾み一緒にお酒を飲んで過ごした。
それからの記憶がほとんどないという。
詳しいことを思い出そうとすると頭痛を訴え、ひどく怯えた様子であった。
それ以上の情報を得るのは難しそうである。
彼女の報告を受けた後にクロードは、ヒリス卿とカレンに偽カレンの話を公開することを提案した。
彼女が今受けている評価はとてもじゃないが正当なものではない。
しかし、カレンは拒否した。
自分の身に起きた出来事がショックだったカレンは、これ以上煩わしいことに巻き込まれたくなかった。
ジーヴル城に侵入した偽カレンの情報を細かく収集する必要があると訴える者も出るであろう。
色んな人に偽物と入れ替わる際、どのような目に遭わされたかと奇異の視線に晒されるかもしれない。
今のカレンはそれに耐えられないと頭を下げて世間への公開はやめてほしいと願った。
クロードは一部の者だけに情報を伝え、スパイの存在へ警戒させた。
オズワルドにはしばらくジーヴル城に滞在してもらい、くまなく呪いの痕跡がないか調べてもらった。
一応いくつかは確認できたが、すぐに取り外し可能だった。
今のところは問題ないだろうということだった。
「そういえば、ライラとのお茶会はどうだった?」
「はい。とても有意義な時間を過ごさせていただきました。よく勉強されています」
リーゼロッテの目からみてライラの評価は良好なようである。
アルベルの天使に認められたのであれば、今日のところは安心だ。
「アルベル夫人はアルベルの冬は初めてですよね」
「そうだな。なるべく暖をとらせるようにエドワードたちには伝えてある」
「少し暖かい場所で過ごさせてみてはどうでしょう」
外をみるとちらちらと小さな雪が降っている。
積もる程ではないが、夏から一気に寒くなったため体調を崩さないか心配である。
一番寒い時期がもうすぐ到来する。
「アルベルで、暖かい場所……シャフラか」
北の辺境で温泉が湧き出る地区である。雪ムカデの親分がのさばっていた長い冬の時代でも暖かく過ごしやすい。
傷や病もちの療養の場であり、傷病兵らの療養場であった。
「はい。そこのお湯につかれば、少しずつアルベルの冬に馴染んでいく。最近、他地方から訪れた者たちの流行です」
人が集まってきており、旅館街として形を作りつつある。
以前より視察の依頼が来ていたのを思い出す。
同時に、シャフラ近辺に生息する魔物や獣についても調べてみる。
魔物はいるにはいるが、北天狐と呼ばれる人に害を加えない為討伐対象外になる。
美しい白い毛皮が有名で、かくべつに暖かく帝都貴族に高く売れる為乱獲され問題となっていた。
その調査の為に人員を送って欲しいという要請が前日届けられていたのを目に通したばかりであった。
ついでにライラをシャフラに連れていってもらう良い口実になるだろう。
「一緒に行かれたらいいでしょう」
「それは……」
冬になった為北の異民族らも動きはないと思いたいが、休暇を取るのは気が滅入る。
「まだ新婚旅行もされていないのですし、数日程休みをとっても文句は言われないと思いますよ」
リーゼロッテにしては随分と詰めかかってくる。ここまで人の新婚生活に口を挟む性格ではないと思っていたが。
「初夜の噂は私も耳にしていますので」
さすがにリーゼロッテも不憫だと感じたようだ。
その話を持ち込まれるとクロードは何も言えなかった。
「ブライアンたちに聞いてみる」
予定調整が難しいようであれば諦めようと思っていたが、思いのほかブライアンは辺境伯夫婦のシャフラ行に好意的であった。
「まだ新婚旅行もまだでしょうし」
「一応一緒に旅はしたが」
「まさか、公都からジーヴルまでの道のりを言っているのでしょうか?」
さすがにそれはないだろうとブライアンは呆れた。
「予定日までは、閣下に早急に目を通してもらう書類を選別して持ってきておきますね」
腕をまくしあげ妙にやる気満々であった。
不安な面持ちでクロードはライラの部屋を訪れた。
シャフラ旅行について提案すると彼女は嬉しそうにしていた。
ふと気になり彼女の頬に触れると少し冷たい。
「外に出ていたのか?」
「はい、ブランシュのお世話で」
心なしか唇が薄い色のように感じられた。
話を聞くとそれほど長く外に出ていたとは思えないが、これでは先が思いやられる。
リーゼロッテの言う通り、シャフラへ行った方がいいだろう。
温泉につかれば、その年の冬に耐えられるという話もある。
「ブランシュも連れて行っていいですか?」
「ああ。どうせ置いて行ってもついてきそうだしな」
クロードの諦めたような言葉にライラはふふっと笑った。
「楽しみです」
「ブランシュと一緒に行けるからか?」
「それもですが、クロード様と温泉に行けるのが嬉しいです」
その言葉を聞き、クロードはリーゼロッテの提案に感謝した。
「向こうで、フルートも聞かせてほしい」
「はい。忘れずに持っていきますね」




