懐古の夏
振り返ればほら、鬼やらい。
鄙びた街角を、足音もなく歩いてゆく。
心に沸いた、恐ろしい真っ黒な鬼のお化けを退治して歩いてゆく男たち。
彼らのうちには、本物の鬼の血を受け継いでいる人間もいるだとかなんとか…
古い世界の中に、閉じ込められた人たち。風車は廻る。
鬼に憑かれた人苦しみ、人の心も…
懐かしの夏。
入道雲、夕立の後の帰り道。
その街角で、こちらを伺う黒い影鬼。
彼らは、人の足元の影に隠れて、ひっそりと心に取り憑くことを狙っている。
夕闇。夜の闇。夕闇こそが、僕らの生きる場所。
どくどくと、鼓動が鳴ってあの入道雲に消えてゆく…小さな通り道で、母の唄声が聞こえた気がした。
恩師の家で読んだ本に、黒い虫食い穴が開いていた。
其処から部屋の隅を覗くと、赤い眼を爛爛と輝かせた真っ黒い鬼が、確かにいたんだ。
想い出は、かすかな心の傷みたいに心のバケツの底に、こびりついている。
腕にできた緑色の苔のような錆びは、もう、取れないだろう。
海から届いた潮騒の調べだから。
祭りの夜、口づけを交わした相手が、内緒だよ、僕は鬼なんだ、と言って、にいっと嗤った。
誰かに似ていると思ったら、お雛様の内裏様にそっくりなのだ。
神様と、恋をしたんだ。庭の鈴虫は、黙って鳴くばかり。
そんなことを考えて居たら、ゴロゴロと、遠雷。神様は、気まぐれだったり、恐ろしかったり。
涙の雫は、一つの海です。
そんなようなことを言っていた詩人が亡くなって何年も経ちます。
今年も、蝉の鳴く夏が来ました。
ぽとぽとと、蝉の死骸が降り、ふと、窓を見ると、あめふらしが巨体を引きずり、通りを這って向こうに消えました。
粗方、人の魂を吸いすぎたのでしょう。夏は人の死ぬ季節です。
京都の山奥に、密かに暮らす、鬼やらいの一族。
不思議だな、妙な事が起こるな、と思ったら、彼らに電話を掛けよう。
いつの間にか壁に貼ってある謎の電話番号に。
押し入れの奥に貼ってあった謎めいた番号に。彼らは風の様にやってきて風の様に去ってゆく…貰った風車はよく廻るかい?
夢の中で、毒蛇と毒蠅に追い詰められることがありました。
よく雨の降った晩夏のころです。
嫌な夢だな…と思ったら、玄関のポストに恩師が亡くなった知らせが届きました。
こち、こち、と、柱時計だけが鳴り響く部屋の中で、カレンダーには友引の文字。
外では、飼い猫がぎゃあぎゃあ鳴いています。
懐かしき街角で、風に揺られてあなたを待ちます。
戯れに燐寸に火をつけて見て、煙草をふかしてみました。苦いですね。
初恋の味の様です。想い人、亡くなった人よう。
彼らはけして現れませんが、よく見知った影法師が此方を笑って見ていたら、また私を思い出してください。
此処は風の通り過ぎる古都。
まるで夢物語。彼らの跫、風の音。
煌めく水面。泡沫の寝枕に見る、木漏れ日の幻。
消えてゆく人の魂、鬼の魂。
つかめない、救われる魂。救われない人の、鬼のような心。
秋の枯野で、泣いている子供。
鬼の子の魂、百まで。踊れや踊れ。
鬼の子は、いつまでも、永遠。
此の世の事のようで、まるで、夢の泡沫のような…追憶の、物語。
過去の中で、人は苦しみ、病に倒れ、老いては、櫻の木の下の鬼の美しさに涙する。
果てしない、人と鬼の呼吸に、人は何を想う。
人の苦しみ、鬼の哀れさ。鬼やらいの吐く吐息の荒々しさに、宿命の炎。今はただ、眠れ——――。