バレンタインにくちづけを
裕美には繰り返し見る夢があった。悪夢と言えるのかもしれない。それは、自分が教室でセーラー服を着て受験勉強をしているというものだった。ただし年齢は三十歳のままだ、違和感を感じるがそこは夢だからか許容していた。大学受験をしたいと親に伝えると、資金がなく進学させる余裕がないとはっきり言われた。どうしても勉強を続けたいと伝えたが、どうにもならない。
夢から覚めると、三十歳の自分がいて、午後からは電話オペレーターの仕事が待っている。毎日たくさんのお客様対応をし、仕事を終え、スーパーに寄ってワンルームアパートに帰る。それから趣味の小説を書く。彼女の日常。大切な人もいる。不満はないはずだと思ってきた。
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裕美は不思議な夢を見た。森の中で動物たちの宴があり、彼女は参加者だった。森の動物たちが口々に話しており、なぜか内容が心に直接伝わってくるのだ。
帰り際動物たちの長らしき、きつねから『たぬきのぬいぐるみ』をプレゼントされた。ぬいぐるみは、午前二時になると、しゃべる生身のたぬきになった。どうやらまだ幼いようだった。
「これもご縁ですから、一つ願いを叶えて差し上げましょう。それから私は真紀と言います」
幼いたぬきは言う。
「そうだなぁ、高校時代をやり直したい」
と彼女は頼む。真紀は、不思議な妖力を使い、裕美を高校生にした。
高校時代に戻った裕美。勉強に励み、学資保険が下り志望大学に進学することが出来た。大学の地球惑星学科で幼い頃からの夢、天文学者になるために本格的に努力していた。思い通りの人生に戻れたと裕美は有頂天になった。
だが、挫折が訪れる。経験したことのない痛みだった。学科には地学の好きな優秀な学生が集まってくる、その中で彼女には突出した才はなかった。
『苦しい・くるしい・クルシイ』好きなことで他人に負けることは、つらい。それが、自分の生きがい、かつ存在価値になってしまっているせいだと彼女は考えた。裕美は、自宅から大学へ通っていたが部屋には相変わらず『たぬきのぬいぐるみ』があった。
裕美は逃げたくなった。午前二時を待った。ぬいぐるみは真紀に変化した。
「願いごとは叶えましたよ。どうしたんですか?」
「やっぱり元の世界に戻して」
「だって願いごとは一つだったはずでしょう。ルール違反ですよ、あなたはこの世界で生きるんです」
きっぱり断られた。
裕美は猛烈に後悔した。この世界には自分を必要としてくれる人がいない。三十歳の現実は、自分の夢とは遠い場所にある。だが十年続けている仕事に苦労はあるが毎日お客様に喜んでもらえている。仕事をしているときには、社会との繋がりを感じることが出来る。それに、彼女を想っている人がいる。
何を血迷い学生時代に戻りたいなんて望んでしまったんだろうと思う。裕美が家族と別れたあと、一番近しい存在は恋人だった。
酷く酔っ払ったときは介抱してくれ、心療内科の先生にも会ってくれた。薬を飲み過ぎないように注意してくれる。彼女にはもったいない彼氏だといえる。
『どうして、いつも高校にワープする夢を見て戻りたくなってしまうのか?』 それはまだ卒業出来なかった自分を責めているからだよ。裕美の質問に真紀は答えた。なぜ彼女にそんなことまでわかるのかと思った。でもそんなことより、戻りたい気持ちが強い。
「ねえ、どうしても戻りたいかい?」
彼女は悪い顔をした。
「大切なもの一つちょうだい」
「大切なものってなんだろう? わからないよ」
「わからなくていいんだよ。もらっちゃうから」
「えーーー」
それから目の前が真っ暗になった。
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裕美が目を覚ますと、恋人の圭一がベッドの傍らで心配そうに見つめている。
「私なにかしたの?」
「昔のことを思い出してオーバードーズしたんだ、処置が終わって眠っていたんだよ」
彼はホッとしたようすで穏やかな笑顔を裕美にみせた。
「ごめんなさい」
彼女は心から反省し、圭一の顔を愛おしく思った。
たぬきのぬいぐるみがついてきていないか病室を探したがどこにもなかった。(やっぱり夢だったのかな、過去に戻るなんて無理なことだよね)そう思いはしたけれど、生々しいたぬきの肉球の感触が忘れられなかった。
真紀は小走りにこの世界のどこかにあるという、不思議な動物が住む森を目指し帰路を急ぐ。今回も任務完了! 彼女は傷付いた人の心の傷を引き受けるという仕事を森の精から授かっていた。裕美の夢に入りわかったことは、過去に受けた傷で心が摩耗していたこと。彼女が、過去に拘ってしまうのは長年の経験で何となく理解は出来た。裕美からは、哀しみの色を湛えた美しい涙の結晶をいただいた。
さてさて次の対象者はどこにいるのかな?
「圭一に話していないことがまだあってね。たくさん心配かけてごめんなさい」
裕美が言う。
「お願いだから、やる前に相談してくれよ。自分が傷付くより、君が苦しむ方が、自分にナイフが刺さったように痛む」
「ごめんなさい」
彼女は新しい涙を流す。それは悲しみではなく嬉しい涙。
(ずっと泣きたかったけれど、心で泣くだけで涙を流して泣けなかった。これから私、圭一と一緒なら少しずつ前に進んで行ける)と裕美は思った。
「私、どうやって貴方に返したらいいのかな。いつももらってばかりだもの」
彼女の問いに対し彼は笑って言った。
「チョコレート一つ」
カレンダーを見ると今日は二月十四日だった。
「退院してからになるよ」
「なんなら、一生待っているから」
また涙が彼女の目から零れる。
「こんな大切なものがあったのに、失うところだった。圭一」
そう言って裕美は彼の唇を盗んだ。
初めて三人称視点で書いてみました。まだ修業中ですが、読んでくださった方ありがとうございます。
バレンタイン物のヒューマンドラマになりました。