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後編

 扉から漏れる微かな光で琥珀色の目が輝く。甘い香りと薄暗い白に包まれたその猫の佇まいは凛々しく、苦しみなど一切感じていないように思えた。

 しかし、首に巻かれた鉄鎖を見ると、やはりこちらの方が辛くなってきてしまう。


 鎖を解き、おろしてやろうと思った。

 正直かなり気味が悪いし、元来、動物は苦手な方なので、見てみぬふりをできればそれが一番良い。だが、まだ生きているのなら話は別だ。ただの自己満足だろうが構わない。


 近くで見ると、全体的に濡れているようだった。首元にそっと触れてみる。


「触るな」


 突如聞こえた声に驚き、慌てて手を引っ込める。


「私はもう生きていない」


 今、部屋の中には僕と猫しかいない。

 喋っているのは当然ながらこの猫だった。


 しかし、そんなことよりも僕は、自分の手の方に釘付けになってしまっていた。

 黒猫に触れた指先は、その毛並みと同じ黒に染まっていたのだ。


 なんだこれは。墨か?


「今はただ、黒に塗れた首吊り猫、という一つの現象として存在しているだけだ」

 僕の思考を遮るように、透き通るような、でもどこか機械的に思える、抑揚のない声を聞かされる。その前足で鎖に触れると、再び語りだした。

「要するに。これを解いたら私は消えてしまう。いや、消えることは全くもって構わないのだが。生きている訳でもないのに窮愁を覚え、存在し続けるよりよっぽど良い。だが、今こうして存在していることにはそれだけの理由と使命があるのだ。それを果たすまで消える訳にはいかない、ということだ。これは君のためでもある」


 今のところ何が言いたいのかよくわからないが、どうやら僕にも関係があるらしい。

 さっさとその使命とやらを果たして消えてくれないかと思っていると、両の目に、今までよりずっと強い光が宿るのが見えた。


「君は昨日からこの部屋を訪れた者達のことを覚えているか?」


 当然だ。流石に前日の出来事くらいは覚えている。

 僕が頷くと、一呼吸置いて黒猫もゆっくりと頷いた。


「本来、人間とは貪欲で醜い生き物だが、三番目だけは信用してやってもいいだろう。彼らは君の味方だ」


 三番目というと、あの子供達だろう。

 逆に言えば、他の二人は味方ではないということか。なぜだかそのことにショックを受けている自分がいる。

 いや、そもそもこの猫の言葉を鵜呑みにしてて良いのだろうか。不可解な点が多すぎる。とは言っても、それはこいつに限った話ではない。

 もう何を信じれば良いのかわからない。


「あの時のことをよく思い出せ。彼らは限られた時間とルールの中で、自分の身を危険に晒してまで君のために協力し、君が正しい選択をできるよう全力を尽くした」

 思い出せと言われても、特に何か言っていたわけでもないし、青い箱を渡されたくらいか。その箱の中にも何も入っていなかった。

 もし再び彼らが来ることがあれば、その時にもう一度考えるか。


「まあ、最善だったとは言い難いが……。私のせいで予定が狂ってしまった部分もあったのだろう」


 言い終えると、垂れ下がっていた体を持ち上げて丸め、前足で顔をかくような仕草をした。初めて猫らしい動きを見たような気がする。


「さて、これで私のやるべきことは一通り終わった。あとは君次第だ。というわけで、この鎖を解いてくれないだろうか」


 もう終わったとはどういうことだろう。あの子供達は味方だと、そう僕に伝えることが使命とやらだったというのか?


 それにしても、状況が全くわからない。彼らは何者なのか。渡された箱は何なのか。それを知っているのなら、なんとか聞き出さなくては。それまで鎖は解けない。


「ふむ、君が解いてくれないのなら、少々面倒だが自分でやろう。ああ、そうだ。最後に一言」

 そう言うと猫は、鎖に巻き付くように足を動かし、目を細めた。その仕草がなぜだか懐かしかった。

「触った時にわかっただろうが、私は本当は黒猫ではない。……白猫だった」


 その言葉を最後に、白猫だった猫は、音も無く一瞬にして消えてしまった。

 そういえば子供の頃、白猫を飼っていたことを思い出した。


 黒くなった指先を見つめた。


 結局、何もわからなかったではないか。

 何だ。

 何だろう、この感覚は。

 心の中の空洞が煮えたぎっているような。不安と絶望が入り混じって、でも温かくて、柔らかくて、薄暗くて苦くて。頭がおかしくなりそうだ。


 木箱がまた、ひとりでに体を震わせた。


 吐き気がする。


 一体どうなっているんだ、この部屋は。せっかく理想的な場所を手に入れたと思ったのに、意味のわからないことに巻き込まれてばかり。

 こんな箱が何だと言うのだ。僕には関係ない。誰も彼も説明すらせずに押し付けやがって。


 どうしようもない感情を振り切るように、勢いに任せて、床に転がる三つの箱を踏みつけた。

 箱は全て驚くほど呆気無く潰れ、砕けちった。

 だが次の瞬間部屋の中は、箱の破片などではなく、もっと大きな塊で満たされていた。


 それらは間違いなく人間だった。

 狭い空間の中に無理やり詰め込まれて、手や足や首が変な方向に曲がっている。どれも白目をむいていて、ぴくりとも動かない。

 だが、彼らのことはよく覚えている。見間違えるはずもない。


 オレンジ色のスカートの女性に、白衣の男性。そしてお揃いの服を着た双子の子供。


 倒れているのだ、この部屋を訪れた者達が。


 僕の妻が。

 父が。

 息子達が。


 死んでいる?

 なぜ?


 部屋の中に溢れかえる肉塊に掌で触れる。

 小さな子供の頭を撫でようとすると、さらさらとした髪が絡みつき、その逆さまになっていた身体が、がくん、と、ずり落ちた。直後、他の塊もバランスを崩し、雪崩のように僕を壁へと押し付けた。


 そこには心も意志も何もない。今目の前にある人の形をしているものはどう考えても人ではなかった。


 そうだろう。当然じゃないか。死体なのだから。


 彼らが息をしていたことが信じられなかった。だが、息をしていないことも信じられるはずがない。


 さっきまで普通にしていたではないか。なぜだ。

 どうして、気づかなかった?

 僕は、家族のことをたった今まで忘れていたのか……?

 なぜ僕はここにいるのだろう。

 誰か、助けを呼ばなくては。

 外に出ないと。

 外はどうなっている?

 どのくらいの時間ここにいた?


 ここはどこだ?


 ようやく抱くことのできた疑問をかき消すように、背後から何かが鈍く響いた。


 振り向くとそこには、









 透明な世界に、たくさんの箱がありました。

 ある日そこに、新しい箱がやってきました。

 薄汚れた白い直方体でした。

 それと同時に、他の箱は全て弾け飛んでしまいました。


 ひとりぼっちの箱は、何度も何度も同じ夢を見ました。




 ぎ、











 箱の中にいる。



    、




初投稿でした。最後まで読んでくださりありがとうございます。

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