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中編

「たまげたな。まさか、お前が選ばれるとは」


 ぼんやりとした意識の中で最初に聞いたのは、少しくぐもったような、でも芯があってはっきりと響いてくる男性の声だった。


 まぶたを開けるが、右目に鋭い痛みが走り反射的に閉じてしまう。だが数秒後、それが眩しさからくる痛みだと理解し、今度はゆっくりと、慎重にまぶたを持ち上げた。

 視界の右端だけに、白い世界と、その中で何か動くものが見える。


「おーい」

 地面を擦るような音の後、先程より大きくはっきりとした声が聞こえた。

「うつ伏せ寝って息苦しくないか?」


 声の聞こえる方へ首を捻ると、今度は視界一杯に光が浴びせられた。目を細めながら体も捻ると、あぐらをかいて、こちらを見下ろしている男性と目が合った。ぎょっとして慌てて起き上がる。

 誰かがいることはなんとなくわかってはいたが、見られていたことを実感してしまうとやはり居心地が悪いというか、心臓に悪いというか。


「どうだ、よく眠れたか?」

 僕の心境などつゆ知らず、呑気に話し掛けてくる白髪混じりの男性。文句の一つでも言ってやりたかったが、相変わらず声は出ないままだった。


 それにしても、まさか、昨日の今日でまたここを訪れる人がいるとは驚いた。今まで誰も来たことがなかったというのに。

 昨日の女性の知り合いだろうか。


「積もる話もあるが……今はそんなことを言ってる場合じゃあなかったな」


 彼は白衣のような上着のポケットに手を突っ込むと、中から何かを取り出した。

「これをお前に渡しにきたんだ」


 差し出された手に掴まれていたのは、片手で持つには少し不安な大きさの、木の塊のようなものだった。平たい直方体の形をしている。四角いものを見ると昨日の黒い箱を連想してしまうが、それとは違い、木製で、積み木のような親しみのある外見をしており、不気味さは感じられない。

 男性は真っ直ぐに僕を見つめている。


 多少の不信感を持ちつつも、それを受け取った。


 見た目の割にはかなり軽かった。おそらく中は空洞になっているのだろう。

 指の下に少し違和感を感じ、手の中で転がしてみた。すると、丁度押さえていた部分に取っ手と思われるものがあった。どうやら引き出しのようになっているらしい。


 箱を開けてみようと指をかけた瞬間だった。


「良いのか?……中から幽霊でも出てくるかもしれないぞ」


 僕に箱を渡した人物が、茶化すようにそう言った。

 下らない。子供相手でもないのに、そんな脅しが通用するとでも思っているのか。

 感情がつい顔にでてしまったみたいで、彼は口の端を真横に引っ張られているような、なんとも不自然な笑みを浮かべて言った。

「そんな怖い顔するなよ。冗談だ、何にも入っちゃいない」


 彼の言った通り、引き出しの中は空っぽだった。内側は、外の木よりも僅かに色が薄いような気がしたが、材質などにも違いはない。本当に何の変哲もないただの木箱だった。


 こんなもの僕に渡してどうするんだ?


 そう目線で訴えかけたが、残念ながら全く通じなかったらしい。彼は一昔前の政治の話や自分の家族の話など、どうでもいいようなことを一方的に語り始めた。

 いくら僕の方が若いからといって、初対面なのにあまりにも馴れ馴れしすぎて不快だ。こういう人間とはできるだけ関わりたくない。


 それに、昨日の出来事といい、何か普通ではないことが起こっているような気がして気味が悪い。

 一人で静かに、平穏に暮らしていたい。

 だから今すぐにでもこの箱を返して帰ってもらいたい気持ちでいっぱいなのだが、僕は生憎声がでない。

 さて、どうしたものか。体当たりして部屋の外に追い出すか?


 そんなことを考えていると。

 びちゃり、と、辺りに響いた。

 それは決して大きな音ではなかったが、彼の舌を止めるには十分だった。


 目の前の白衣に、先程まではなかったはずの、不揃いな赤い斑点が描かれている。

 それは僕達のちょうど間に降ってきたらしく、床に赤黒い液体が溜まっていた。僕の腕にもところどころ飛び散っているのが見える。


 こういうことが起きるのは、初めてではなかった。

 特に意識していた訳ではなかったが、時々、天井から吊るされた鉄鎖を伝い、何かが流れてきていることには気づいていた。


 上を見上げると、床に溜まる液体と同じ色に濡れていた。


「悪い。そろそろ時間みたいだ」


 不気味な現象に気分を害したのか、男性は脱いだ上着を片手に持ち、そそくさと出て行った。

 かなり感情表現が大げさな人物、というイメージだったが、恐怖や不快感を感じているような素振りは見せなかったので、本当に時間がなかっただけなのかもしれないが。


 先程の木箱を昨日の黒い箱と並べて床に置いてみる。

 ぼんやりと眺めていると、木箱が僅かに震えたような気がして、目を逸らした。




 三番目の来訪者が来たのは、白衣の男性が帰ってからわずか数分後のことだった。

 いつも通り親指の傷口に歯を立てていると、何の前触れもなく扉が開いた。


 またか。

 これ以上訳のわからないことに巻き込まれてたまるか。どこの誰だか知らないが、追い返してやる。


 そう思って、いつでも攻撃できるよう身構えていたのだが、それは全くの無意味に終わってしまった。


 扉の向こうから現れたのは、まだ十歳にも満たないであろう子供達だったのだ。

 二人の子供は、全く同じといっても差し支えないほどそっくりな顔をしている。双子なのだろう。顔だけでなく、髪型も服装も何もかも同じだった。

 流石に、こんな小さな子らを力技で追い出すのには抵抗があった。

 彼らは部屋に入ってきた瞬間、明らかに恐怖している表情に変わった。今、僕はそんなに恐ろしい顔をしていたのか、と、少し冷静になる。


 子供達は怯えた顔をしたまま、しばしの間、じっと固まっていた。

 そんな顔で見られ続けたせいか、こちらまで不安になってきた。鼓動が速くなるのを感じる。なんだか息苦しいような気さえしてくる。


 しかし、妙な違和感を感じる。

 今、彼らに凝視されているはずなのに、上手く目線が合わないような気がした。まるで僕のことなど視界に入っていないような。僕には見えない別の何かに怯えているのではないか。

 それがただの思い過ごしではないということは、すぐにわかった。

 向かって右側に立っていた子供が、僕の方を指差し「うしろ……」と、小さく呟いた。

 振り返り、その子供が指していたものを見て、僕はひどく後悔した。


 黒猫が一匹、吊るされていた。

 天井の赤黒く染まっていたところから伸びた鎖が、首に巻き付いている。猫の首から下はだらんと力なく垂れていて、首吊り自殺を思わせる。


 先程の男性が帰るときにはこんなものなかったはずだ。一体誰が、いつの間に?




 双子は例のごとく、箱のようなものを僕に渡して出ていった。

 くすんだ青色をしている。つるつるとした厚紙のような素材でできていて、すぐに潰せてしまえそうだ。上部に被さっている蓋を開けてみたが、中身は入っていなかった。ただ、ほのかに甘酸っぱい香りがした。


 彼らは去り際に「頑張ってね」と、僕の手を片方ずつ握りながら呟いた。

 言っている意味が全くわからなかったが、子供というのはそもそも何を考えているのかわからない生き物なので、あまり深く考えないことにしておく。


 それよりも。

 ここに訪れた者達は、どう考えても無関係とは思えなかった。形状や色は様々だが、全員から箱のようなものを受け取っている。それに彼らは、僕が一言も話さないことに対して何も言わなかった。そのことに関しても何か知っているのではないか。

 敵意を向けられている感じはしなかったが、僕を陥れようとしている可能性も十分にある。

 しかし、あんな子供まで関わっているとは、一体何が起きているんだ。


 ため息を吐きながら寝転がる。


 目が合ってしまった。


 黒猫は、その目に光を取り戻し、僕を見つめて嗤っていた。

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