表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
  作者:
1/3

前編

 箱の中にいる。


 簡素な扉と、錆びた鉄鎖を一本備えただけの、退屈な直方体。四方を囲む薄汚れた白に、ただ、噛みちぎった指先の赤を散らしていた。


 期せずして、願いが叶ってしまったのだ。

 この場所なら、何も生み出さず、失わず、ただ膨大な時間を消費するだけの日々を送ることができる。僕の下らない好奇心に応えてくれる。

 気まぐれに漂う甘い香りも、鮮やかに濡れた天井も、無駄な想像力を掻き立てる程ではなく、それでいて、退屈な空間に程良い変化を与えてくれている。

 誰も来ることのない、僕だけの秘密の隠れ家。その中で一人、ゆっくりと、心身を腐らせていく。命を少しずつ溶かし、朽ちていく様を体感する。なんて贅沢な時間だろう。


 壁に手の甲を押し当てた。重力に従い滑らせると、まだ乾いていない血が歪な縦線を描いた。




 これから死ぬまでの間、ずっとこの部屋に一人でいるものだと思っていた。なぜだろう。そう思いこんでいた。扉が開かれる可能性があることを、今まで全く考えていなかったのだ。

 しかし、僕が何を思うのかなんてことは当然ながら関係なく、そういった瞬間は、いつも唐突に訪れてしまう。


 部屋全体が薄橙に染まった。暖かい光に照らされるのと同時に、冷たい空気が流れ込んでくる。先程までまだらに浮遊していた香りは、目眩がするほど濃く、甘ったるく凝縮され、一瞬にして僕を包み込んだ。金木犀の香りだろうか。

 久しぶりに感じる空気の流れに、思わず身震いしてしまう。


 それでも僕は、扉が開いたことに気が付かない振りをしていた。

 認めたくなかった訳でも、信じられなかった訳でもない。ただ、自分から何か行動を起こすのが面倒臭かった。人間らしいことをするのが嫌だった。


 だから、声をかけられて初めて、失礼な来訪者の方へと目をやった。


「ここにいたのですね。皆、あなたを探していますよ」


 茜空を背に微笑む女性がいた。

 ただそれだけのことなのに、僕は、なぜか涙を流していた。

 誰かも分からないその女性を見ると、なぜだか懐かしくて、苦しくて、心地良くて、涙が止まらなかった。




 彼女は、しばらくの間黙って佇んでいた。だが、いつまでも泣きやまない僕に痺れを切らしたのだろうか。夕空に溶けてしまいそうな橙のスカートの裾を片手で束ね、扉を閉じることもせず、その場で腰を屈めた。そして、空いている方の手を伸ばした。それはすぐに僕の頬に触れてしまう。この箱は、思っていたよりもずっと狭いらしいことを実感した。


 外からの僅かな冷気が、火照った頬を縦断するように鋭く貼り付く。

 彼女は濡れた指先をハンドバッグの中に入れ、こう言った。


「……手、出して頂けますか?怪我をしていない方の」


 言われるがままに右手を差し出すと、その上に、白く美しい手が重ねられた。柔らかく、少し冷たい感触が伝わってくるのと同時に、何か硬いものが触れるのを感じた。


 黒く、小さな箱だった。

 彼女の手が離れるのと同時に現れたそれは、なぜだかひどく不気味で、僕は思わずそれを落としてしまう。


 だが、彼女は微動だにしなかった。「大丈夫ですよ」と一言だけ囁き、じっとこちらを見つめていた。相変わらず穏やかな笑みを浮かべている。


 どうやら、その視線に負けてしまったようだ。無意識に黒い塊を拾い上げていた。


 よく見ると、半透明になっているようだった。夕陽に照らされ、内側からオレンジ色に輝いているように見える。しかし、中心に近づくほど黒く、箱の中は完全には見えない。

 そっと表面をなぞった。

 すべすべとした触り心地が指先に伝わってくる。

 開け口のような部分は見当たらず、六面とも、見た目に違う部分はなかった。おそらく完全な直方体だろう。


 これは、何だ?


 そう聞こうとして、初めて気がついた。


 声がでない。




「私は、あなたの味方です」


 それが、彼女からの最後の言葉となった。


 開け放たれた引き戸を丁寧に閉める仕草が、やけに鮮明に思い出される。


 この部屋も、僕の手の中にある箱も、橙色の面影はすっかりなくなってしまった。今はただ、不気味に影を保っているだけだ。


 一体君は誰なのか。この黒い箱は何なのか。

 聞きたいことを何一つ口に出せないうちに、美しい来訪者は去ってしまった。


 残された小さな箱に目を落とす。しかし、飲み込まれそうな黒の奥に何かが見えてしまうような気がして、直視できなかった。

 まるで、透き通った闇の中から、何かがこちらを覗き込んでいるような。今にも殻を破り、僕を、世界を飲み込んでしまうのではないか。そんな気がした。


 今、再び言葉を放とうと試みるが、ただ唇が動くだけに終わった。

 なぜ、声が出せないのだろうか。最後に言葉を交わしたのはいつだ。


 いや、きっとこれ以上考えない方が良い。考えるだけ無駄だろうし、そんなのは僕らしくない。

 今日の出来事は全て忘れ、また明日から平穏で退屈な日々を繰り返せば良い。




 その日は、箱を見えないよう上着で隠してから眠った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ