前編
箱の中にいる。
簡素な扉と、錆びた鉄鎖を一本備えただけの、退屈な直方体。四方を囲む薄汚れた白に、ただ、噛みちぎった指先の赤を散らしていた。
期せずして、願いが叶ってしまったのだ。
この場所なら、何も生み出さず、失わず、ただ膨大な時間を消費するだけの日々を送ることができる。僕の下らない好奇心に応えてくれる。
気まぐれに漂う甘い香りも、鮮やかに濡れた天井も、無駄な想像力を掻き立てる程ではなく、それでいて、退屈な空間に程良い変化を与えてくれている。
誰も来ることのない、僕だけの秘密の隠れ家。その中で一人、ゆっくりと、心身を腐らせていく。命を少しずつ溶かし、朽ちていく様を体感する。なんて贅沢な時間だろう。
壁に手の甲を押し当てた。重力に従い滑らせると、まだ乾いていない血が歪な縦線を描いた。
これから死ぬまでの間、ずっとこの部屋に一人でいるものだと思っていた。なぜだろう。そう思いこんでいた。扉が開かれる可能性があることを、今まで全く考えていなかったのだ。
しかし、僕が何を思うのかなんてことは当然ながら関係なく、そういった瞬間は、いつも唐突に訪れてしまう。
部屋全体が薄橙に染まった。暖かい光に照らされるのと同時に、冷たい空気が流れ込んでくる。先程までまだらに浮遊していた香りは、目眩がするほど濃く、甘ったるく凝縮され、一瞬にして僕を包み込んだ。金木犀の香りだろうか。
久しぶりに感じる空気の流れに、思わず身震いしてしまう。
それでも僕は、扉が開いたことに気が付かない振りをしていた。
認めたくなかった訳でも、信じられなかった訳でもない。ただ、自分から何か行動を起こすのが面倒臭かった。人間らしいことをするのが嫌だった。
だから、声をかけられて初めて、失礼な来訪者の方へと目をやった。
「ここにいたのですね。皆、あなたを探していますよ」
茜空を背に微笑む女性がいた。
ただそれだけのことなのに、僕は、なぜか涙を流していた。
誰かも分からないその女性を見ると、なぜだか懐かしくて、苦しくて、心地良くて、涙が止まらなかった。
彼女は、しばらくの間黙って佇んでいた。だが、いつまでも泣きやまない僕に痺れを切らしたのだろうか。夕空に溶けてしまいそうな橙のスカートの裾を片手で束ね、扉を閉じることもせず、その場で腰を屈めた。そして、空いている方の手を伸ばした。それはすぐに僕の頬に触れてしまう。この箱は、思っていたよりもずっと狭いらしいことを実感した。
外からの僅かな冷気が、火照った頬を縦断するように鋭く貼り付く。
彼女は濡れた指先をハンドバッグの中に入れ、こう言った。
「……手、出して頂けますか?怪我をしていない方の」
言われるがままに右手を差し出すと、その上に、白く美しい手が重ねられた。柔らかく、少し冷たい感触が伝わってくるのと同時に、何か硬いものが触れるのを感じた。
黒く、小さな箱だった。
彼女の手が離れるのと同時に現れたそれは、なぜだかひどく不気味で、僕は思わずそれを落としてしまう。
だが、彼女は微動だにしなかった。「大丈夫ですよ」と一言だけ囁き、じっとこちらを見つめていた。相変わらず穏やかな笑みを浮かべている。
どうやら、その視線に負けてしまったようだ。無意識に黒い塊を拾い上げていた。
よく見ると、半透明になっているようだった。夕陽に照らされ、内側からオレンジ色に輝いているように見える。しかし、中心に近づくほど黒く、箱の中は完全には見えない。
そっと表面をなぞった。
すべすべとした触り心地が指先に伝わってくる。
開け口のような部分は見当たらず、六面とも、見た目に違う部分はなかった。おそらく完全な直方体だろう。
これは、何だ?
そう聞こうとして、初めて気がついた。
声がでない。
「私は、あなたの味方です」
それが、彼女からの最後の言葉となった。
開け放たれた引き戸を丁寧に閉める仕草が、やけに鮮明に思い出される。
この部屋も、僕の手の中にある箱も、橙色の面影はすっかりなくなってしまった。今はただ、不気味に影を保っているだけだ。
一体君は誰なのか。この黒い箱は何なのか。
聞きたいことを何一つ口に出せないうちに、美しい来訪者は去ってしまった。
残された小さな箱に目を落とす。しかし、飲み込まれそうな黒の奥に何かが見えてしまうような気がして、直視できなかった。
まるで、透き通った闇の中から、何かがこちらを覗き込んでいるような。今にも殻を破り、僕を、世界を飲み込んでしまうのではないか。そんな気がした。
今、再び言葉を放とうと試みるが、ただ唇が動くだけに終わった。
なぜ、声が出せないのだろうか。最後に言葉を交わしたのはいつだ。
いや、きっとこれ以上考えない方が良い。考えるだけ無駄だろうし、そんなのは僕らしくない。
今日の出来事は全て忘れ、また明日から平穏で退屈な日々を繰り返せば良い。
その日は、箱を見えないよう上着で隠してから眠った。




