聖女というものは
初投稿です
討伐隊は文字通り、手も足も出ないまま地に倒れ伏していた。
黒々とした煙のような、靄のようなものが彼らを押さえ付けるようにその身の上にわだかまっている。ふわり、くるりと時折揺らぐそれらは、不定形の生き物のようでもあった。
未だ陽の差さぬ早朝の森は朝霧に包まれ、這いつくばる騎士たちの磨き上げられた鎧から、じわりと結露した雫があざやかな青の軍服に落ちて色を変えた。
十歩も進めば姿を消せるような霧の中、討伐対象であるはずの少女は逃げもせず、彼らの無様な姿を静かに眺めている。逃亡を前提にしたものか、動きやすそうな簡素なワンピースドレスの背中には艶やかな黒髪が無造作におろされている。その横には、白く細長い、蛇のような生き物――彼女はそれを竜の一種だと言っていた――が彼女を守るようにゆらりと浮かび侍っていた。
常ならば、この季節にこれほど煙ることはないはずの森である。底冷えするようなひやりと冷たい空気は、あるいは眼前の少女から発せられるものだろうか。
竜が少女へ首を向け、何かを促すようにふっと背後を見遣る。少女が僅かに顔を動かすと、癖の無い絹糸のような黒髪が、さらりと肩口を滑る。首肯と見えたそれに、騎士たちの中でもひときわ濃い色の軍服を纏った男が引き絞るように声を上げた。
「イオ、さま……」
ぐっと体に力を込めて、上半身を僅かに持ち上げる。少女はまったく無感動な表情のまま、視線だけを彼へ向けていた。ぼんやりと、男ではなく彼の向こう側を透かし見ているようなその瞳には、およそ感情は見当たらず、男はひそかに息を呑む。
隊長として指名された男は、以前は少女の護衛騎士でもあった。
「なぜ……このような……」
黒々と渦巻く靄は、ふわふわと漂うような姿をしていながらも容赦なく圧力をかけてくる。歯を食いしばる男の額に、いやな汗が滲んだ。周囲の騎士たちは、青白くなった顔面をなんとか持ち上げ、少女と男を注視している。
彼らの国では、この靄を『呪い』と呼んだ。
呪いはおよそ五十年から百年ごと、流行り病のように突然に訪れ、しかし病のようにうつりはせず、靄にとりつかれた人間だけがなすすべも無く死んでゆく。喉や口にまとわりつかれて息絶えるものもあれば、今の彼らのように五体を封じる圧に骨や内臓が負けたものもいた。
常であれば魔導術師団や医術師たちが奮闘し、死者の数はそれほど多くないままゆるやかに収束していくが、このたびは最初に死者が出てから丸一年を経てもいまだ収束の気配は見えなかった。
日に日に増える死体の数に、呪いの正体も原因も分からぬまま、いずれ己も靄にとりつかれて死ぬのではという恐怖が国中に蔓延してゆく中、王家と魔導術師団がひとつの決断を下す。
王家に伝わる秘術、聖女召喚の執行である。
二百年ほど前に一度使われたとされるそれは、呪いを制御する力を持つものを、異なる世界より呼び寄せたという。その者は女性であったため、聖女と呼ばれた。彼女は国中を回って人々にまとわりつく呪いを取り払い、浄化し、生涯をその尊き救いの旅に捧げたという。
聖女を召喚できれば国は――自分たちは救われるのではないか。
それは賭けにも似た切実な願いであり、果たして召喚は成功した。
そうしてこの世界に呼ばれたのが、今はただ冷たい瞳で彼らを見下ろすばかりの少女――榎本衣緒である。
こんな顔をする方ではなかった、と男は思う。
特段朗らかな人間ではなかった。けれど穏やかで心優しく、呪いを浄化した者に礼を言われてはほんの少し困った顔をして、それからやわらかく微笑む、そんな真摯な少女だった。聖女さまと呼ばれるたびに苦笑して、そんな大層な人間ではないから名前で呼んでほしいと言う彼女に、周囲の者は皆微笑ましい顔をしてイオさまと呼ぶようになった。謙虚で控えめで、まさに聖女と呼ぶに相応しいと誰もが彼女を称える。騎士として、伝説的な存在である聖女に仕えることを、誉に思ったのは一度や二度ではない。
なのに、なぜ。
「なぜ、裏切ったのですか……!」
地についた掌を握り込む。爪の先に湿った土の詰まる感触があった。
少女の瞳が、ほんの少し揺らいだように見えた。
『裏切るも何も、衣緒はこの国の人間でもなければそもそもこの世界のものですらない。裏切るという言葉は衣緒にそぐわない』
返答は、霧の海に白くたゆたう長細い竜からだった。
呆れと侮蔑を乗せた声が頭上から降ってくる。
『信頼や約束にそむくことを裏切りというのなら、先に裏切ったのはそちらだ。衣緒を非難する資格などおまえたちには無いだろう』
竜の鋭い視線に呼応するかのように、呪いの重圧が増す。息が詰まり、みしりと骨が軋む音が聞こえた気がした。なんとか持ち上げていた頬が再び土に塗れる。そこかしこで呻き声が上がり、気絶したものもいた。
男自身も一瞬気が遠退いたが、それでも彼は騎士だ。裏切り者との誹りを看過することは出来ない。
「何を……っ我らは、あなたを……大事に……ッ!」
そうだ、大事に、大切に、これ以上ないほど丁寧に扱い、守ってきたはずだ。
確かに彼女はこの世界の人間ではない。しかしだからこそ、我が国の事情に巻き込んでしまったことを申し訳なくも思ったし、その分感謝もしていた。聖女の存在こそ国の要。騎士として、彼女に救われた一人として、身命を賭して聖女を守ると誓った身だ。裏切ったなどと言われる覚えは露ほどもなかった。
だから気付かなかった。その言葉が彼女の逆鱗に触れるということに。
「……大事に、」
気のせいかと思うほど小さな声で、ぽつりと落とされたそれは、この逃走劇が始まってから初めて聞く彼女の声だった。
「大事に。そうね大事にされたわ、これ以上ないくらい。お城に住んで、きれいなドレスに見たこともないような宝石、食べきれないくらいのごちそう。おまけに王子様が婚約者。素敵な騎士さまたちに守られて、メイドや侍女に囲まれて! まるでお姫様みたい!」
徐々に強く、大きく、一息に吐き出されたそれは、今までに聞いたことのない声だった。いや、そもそも彼女がこれほど大きな声を出すのを聞いたことがない。
ざらりと土に擦れる顔を動かし、視界の端に少女を見上げる。嗤っているような声だと思ったが、やはりその面におよそ感情と呼べるものは見当たらなかった。
少女はひとつ深呼吸をして、再びそのやわらかな唇を開く。
「――それが何だっていうの?」
声はただ、閑かだった。
「お城も、ドレスも宝石もごちそうも王子様だって私には何の価値もない。そんなものいらないし欲しいと言ったこともないのに恩着せがましくこれ見よがしに並べ立てて、自分たちはこれだけ大事にしてるんだって言う。そもそも前提が間違ってるのよ騎士さま。私は、大事にされてるなんて思ったこと一度もなかった」
言って、この森に来て初めて少女は騎士と目を合わせた。彼の目に浮かぶ疑問を正確に読み取ったらしい彼女は、皮肉げに唇をゆがめて見せる。その控えめな容貌におよそ似つかわしくない凄絶な笑みに、騎士は困惑を深める。これはいったい誰だ。己の知っている聖女ではない。
いや、そもそも自分は彼女の何を知っていたというのだろうか。
感情が見えないと思っていた顔の、その瞳に揺らぐものに今更ながら気付く。
絶望と、憤怒と諦念をどろどろに煮溶かしてかためた眼球に、丁寧に殺意をまぶしたようなその目を彼はよく知っていた。
それは、戦場にあってまみえるはずのもの。敵意と呼ばれるものだ。
「なら何故おとなしく言うことを聞いて聖女なんてやっていたのか? 簡単よ。私が一番欲しいものをくれるって言ったから。私がこの国の人間についている呪いを全て抑え込めたら……」
そこで一息つくと、彼女はひときわ笑みを深めて、吐き捨てるように言った。
「元の世界に帰してくれるって、言ったのよ」
あなたたちの、王様が。
続いた言葉に、未だ意識を保っていた騎士たちが、それぞれに息を呑み目を見開いた。
まさか。聖女を帰すなんて有り得ない。
過去の記録からも、一度呪いが発現すると収まるまでにどれほどかかるか分からないということは知られている。ある程度収まったように見えても、その後数年は再発の可能性がある。聖女を喚ぶのは自分たちでも対処のしようがないほど呪いが広まったときであり、ある程度収まったからといって、せっかく召喚した聖女を帰すことなどできるはずがない。
「知らなかったんでしょ? 考えたこともなかったんでしょ? 私が帰りたがってるなんて。私は聖女だから、心優しいから自分たちを救ってくれて……救い続けて当然だとでも思ってたんでしょ? そんな都合よく頭の軽い人間がそうそういるもんですか。ちょっとでも考えれば分かるでしょう? 勝手な都合で自力じゃ絶対帰れない場所に拉致しておいて、金に飽かして贅沢させて、これだけしてやってるんだから働け、自分たちに尽くせ、仕事が終わったら帰してやるって侍女だの騎士だのびっしり張り付けて軟禁されたら、言われたことをやるしかないじゃない。だから聖女なんて呼ばれるのも嫌だった。感謝されても全然嬉しくなかった。だって私からすればこの国の人間ってだけで誘拐犯の仲間だもの。聖女として呼ばれた人間だから自分たちに尽くして当然だと思ってる人たちなんだもの。
ずっと生きた心地がしなかった。息をするのも緊張した。言うことを聞かせるために、食事に何か混ぜられてるかもしれない。眠っている間にまた知らない場所へ連れていかれるかもしれない。少しでも変なことを言ったらその場で切り捨てられるかもしれない――ずっと全てに怯えて、磨り減って、それでも帰る時のために最低限の睡眠と食事だけは摂るようにしてた。帰る、時の、ために」
ことさらはっきりと聞こえるように区切って言う。
騎士たちには、いま自分たちの上に乗っているそれよりも、よほど呪いのように思われた。早朝の冷えとは違う寒気に一層血の気が引いてゆき、呪いに抵抗する最後のちからまで抜けていくようだった。
「食べられなくて眠れなくてやつれる私を、誰も彼もが心配していたけどそれすら腹立たしかった。それなら家に帰してって思ったけど、そんなこと言えるはずもない。聖女はずっとここにいて、自分たちのために呪いを抑え続けるものだと信じて疑わない人たちに帰りたいなんて言ったら、軟禁から監禁になるかもしれない。あるいはもっとひどいことになるかも。気が狂いそうだった。でも家族や友達に会いたかったから堪えたの。お母さんと妹のこと思い出してる間だけははっきりと正気でいられた」
おかあさん。いもうと。
そうだ、聖女は異世界から喚ばれるだけのただの人間だ。家族も、友人も、あるいは恋人だっていたかもしれない。そんなことを考えたことも無かったと初めて気付く。そして、彼女が自分の話をしたことが無かったということも。
「婚約者のことだってそう。王子様と婚約なんて、私が喜んでると思ってた? 会ったばかりのよく知らない、好きでも何でもない誘拐犯の主犯格と結婚しろって言われて嬉しいわけないでしょ? 婚約の話をされたとき、わけがわからなくてただ拒否したら、聖女を取り込もうとする貴族もいるから牽制のために王子の婚約者ということにしておくんだって言われたわ。私はいずれ帰るのだから関係ない。本当に結婚するわけじゃないんだからって。右も左も分からない小娘を、それはもう上手に丸め込んでくれたものよね。……でも帰れないって言われた時にね、それも嘘だってわざわざ教えてくれたのよ。王家が聖女の血を取り込んで、その力を受け継がせるために結婚させるんだって。つまりね、」
嫌な予感が騎士たちの背中を濡らす。
この話の流れからして、彼女に「帰れない」ことを教えたのもその「王子様」なのだろう。彼――王太子殿下は、女性なら誰もが目を奪われるような美貌の持ち主であったが、やや尊大すぎるきらいがあった。国王夫妻が遅くにできた長男を甘やかしていたせいと思われているが、それがそのまま長じたのは周囲が彼の穏やかな物腰にごまかされ、矯正できなかったせいでもある。決して非道なたちではないが、いわゆる「心優しい理想の王子様」でないことは城の人間には周知の事実だった。
そんな王太子が、その流れで何を言ったのか。彼らには最悪の想像しかできず、しかし、えてして現実とは人の想像を軽く上回るものである。
「私のことを、地味で色気もかわいげもない、その力しか取り柄のないつまらない女と罵っておきながら、だからおとなしく脚を開けって、その子供を産めって言うのよ? ――あまりにもふざけてると思わない?」
拉致監禁、甘言をちらつかせての強制労働、挙句の果てに体を売れ、胎を貸せと。
「あなたたち、さすがにそこまでとは思わなかったって顔をしているけど、そこまでじゃなくてもあれと結婚すると思っていたんでしょう? でもあれがどんな人間かなんて誰も教えてくれなかったし、心配も反対もしてくれなかったわ。顔がきれいならそれでいいって女性もそれなりにいるみたいで、侍女たちの中にはあからさまに嫉妬の目を向けてくる人もいたから、いつ刺されるかと気が気じゃなかった。でもそういう人が私の傍からはずされることはなかった。寝るときも、着替えるときもお風呂のときもずっと彼女たちはいるのに。
ねぇ、これで、大事にしてる、守ってるなんて、まさか本気で言ってたわけじゃないわよね?」
森の中は、もはや少女の声の他には呻き声ひとつ聞こえなかった。
聖女と持ち上げておきながら、その実態はもはや奴隷だ。騎士たちも、侍女たちも、国民の一人だって、誰も考えたことはなかった。聖女だから人々を救うのは当たり前で、これから国民全員を守ってくれるのも当たり前で、婚約しているのだから王太子と結婚するのも当たり前だと、一片の疑問すら抱かなかった。聖女が王家に入れば、いずれこの国は呪いに怯えることすらなくなるかもしれないとさえ期待していた。聖女だから。聖女とはそういうものだから。
誰もが当たり前に、ひとりの少女を嬲りものにしていた。
そのくせそれを拒否されれば、裏切り者だ、聖女ではなく魔女だったのだと言い、呪いも全て魔女のせいに違いないと討伐隊を差し向ける。その結果がこれだ。
隊長に任ぜられた男はもちろん彼女を魔女だなどとは思っていなかった。それは周囲に倒れる騎士たちも同様だろう。もしも何か王家と誤解やすれ違いがあったのなら説得して連れ戻すつもりでいた。彼女に救われて以来、ずっと何くれとなく便宜をはかってくれていた宰相閣下に話を通せば王家にとりなすこともできると考えていた。何が護衛だ。何が騎士だ。彼女が城を逃げ出すのは当たり前だ。それをこんなところまで追いかけてきて、こうして這いつくばっている。あまりにも滑稽で、惨めだった。
何か彼女に償いたいと一瞬よぎって、それさえも加害者の傲慢だと一蹴する。懇願も、謝罪も、もはや彼女にかけられる言葉など、一片たりともありはしなかった。
『……衣緒、そろそろ』
黙して少女を見守っていた竜が、何事か囁く。彼女は「うん」と短く答えると、騎士たちへ向かって軽く右手を振った。地に埋められそうな重圧がほんの少し軽くなり、騎士たちは目を瞬く。
彼女は、本当に呪いを制御しているのだ。
ではやはり魔女なのか――あるいはそれこそが聖女なのか。
「……最後にひとつだけ教えてあげる」
そして発せられた声は、元通り感情を消した顔と同じく、凪いでいた。
もう何も聞きたくないという顔をする者もいれば、これ以上の悪夢はもはやないだろうと無気力な顔を見せる者もいる。
ただ一様に、土に塗れた顔を持ち上げて彼女の言葉を待った。
「あなたたちは呪いの正体も原因もわからないと言っていたけど、王家はそれを知っている。知っていて、隠してるのよ」
この短時間に一体どれだけの絶望を味わえばいいのだろう。
もし生きて帰れたとしても、彼らはもう騎士ではいられないだろう。彼らは皆、騎士として国と王家に忠誠を誓っていた。ひどい裏切りだと思う。けれど目の前の少女を思えば、これまでの人生を否定される程度の絶望など生温いとさえ感じる。己を責めるべきか、王家を責めるべきか、国を責めるべきなのか。正解など存在しない問いがぐるぐるとめぐって吐き気がした。
「もうすぐ、陽が昇って霧が晴れる。そうしたらその呪いが少しは軽くなるから、運がよければ王都まで戻れるかもね。あなたたちが呪いで死ぬことには変わりないけど、その理由を知る時間くらいはあるかもしれない。……あなたたちが、それを知りたいかどうかは別にして」
呪われるには、呪われるだけの理由があるのよ。当然だろうとばかりに放られた言葉を、拾い上げられる者は一人もいなかった。
少女は竜に声をかけ、もはやそこには誰も居ないかのように無関心に背を向けた。竜は油断なく彼らを睥睨すると、彼女と共に霧の向こうへゆらゆらとうねりながら姿を消した。
「さよなら、騎士さま」
霧の向こうから最後に投げられた言葉に、彼女から名前で呼ばれたことがないと気付き歯噛みする。騎士として信頼されている証拠だと思っていたその呼び名には何の意味も感情もなく、ただ男を示す記号に過ぎなかった。そのことに気付くには、あまりにも遅すぎた。
周囲の明るさが増してゆく。彼女の言葉を信じるならば、じきに彼らは自由を取り戻すだろう。否応無く死へと繋がる、時間制限つきのわずかな自由だ。その時間をどう使うべきなのか、彼ら自身にももはやわからない。このまま夜明けが訪れなければいいと幾人かが祈ったが、朝陽は霧煙る森にも平等に差し込んだ。木漏れ日に揺れるやわらかな霧のカーテンの向こうには、青々とした木々が立ち並ぶばかり。
聖女など、最初からどこにもいなかったのだ。
誤字修正しました
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