雪を掴む
0.
雪山で遭難者一名、遺体は見つからず。
1.
朔は神様の器なのだ。
私がそう聞かされたのは、もう彼がお社に連れて行かれた後だった。
その身に神様をお迎えするのだ。名誉なことだ。これから朔はお社で、俗世と離れて清く暮らす。だからもう二度と朔は戻ってこないし、会ってはいけない。
周りの大人たちから散々言い聞かされても、幼い私にはわからなかった。
私にとって朔は、この小さな村で数少ない、年の近い友人で、幼馴染だ。
私より一つ年上のくせに、いつまでたっても体が小さく、少し知恵の遅れた朔。彼に「いっちゃん」と舌足らずに名前を呼ばれ、私が姉さんぶってごみごみ言うのが、ずっと当たり前だと思っていた。
○
寒風のなか、村はずれの雑貨屋に向かう途中で、男衆が忙しなくお社に向かっていく姿を見た。野良着の上にそれぞれ揃いの半纏を着て、口々に野次ともつかない言葉を吐き出す様はやかましい。
そういえば間もなく冬至だ、と私は思い出す。お社もその準備で忙しいのだろう。これから神様をお迎えし、村を挙げての祭りが始まるのだ。
さびれたこの村が、わずかにでも活気づく祭りの雰囲気を、私は嫌いではなかった。戦争が終わってもう十年近くが過ぎ、都会はにわかに発展しているらしい。
それなのに、いつまでも時代に取り残されたような村の空気は、息苦しすぎるのだ。いずれ消えてなくなるという予兆を、祭りは忘れさせてくれる。
雪かきされた荒い道を、雪下駄で踏みしめながら歩く。風が私の耳を刺し、張り付くような痛みを感じた。お社から離れるほどに家はなくなり、あたりは枯れた田畑ばかりだ。遮るものは何もなく、山風が無遠慮に私を叩いた。
――こんな日に、呼び出さなくてもいいのに。
寒いし、忙しいし。今日だって家の手伝いも放り出して、こっそり抜けてきた。冬は野良仕事がない分、針仕事が山のようにある。徴兵されたまま戻ってこない兄の代わりに、力仕事も手伝わなくてはいけないだろう。帰ったら母さんあたりに散々文句を言われるだろうなあ、と私はひとり愚痴をこぼす。
だけど雪がやんだのは久しぶりだから、今日くらいしか会えないのも確かだ。だから心では文句を言うけれど、大人しく向かうしかない。
○
村はずれの雑貨屋は、よそから移り住んできた中年夫婦が営んでいた。
村人でないから、お社と聞いてもピンとは来ない。神様に対しても半信半疑で、村人が眉をひそめるほどには信仰が薄かった。彼らにとって朔はただの知恵遅れの子供で、お社で祭り上げられていること自体も同情を誘うべきものだった。
村の外へと続く山道の傍に、その雑貨屋はある。
真新しいセメント瓦の目につく、小ぢんまりとした建物で、人の通らない山道に向けて入口が開かれている。店には、村では手に入らない雑多なものが乱雑に詰め込まれていた。あまり品格のある店ではないが、ラジオが置いてあるのも、本が売っているのもこの店だけなので、私や村の若い連中は時折冷やかしに顔を出す。
店の軒下には簡素な長椅子が置かれ、そこに褞袍を羽織った女性が一人、ぼんやりと腰を丸めて座っていた。彼女の横に木製の小鋤が置いてあることから、どうやら雪かきの休憩中だとわかった。
遠目から眺めて、どうやら客はいないらしいと分かると、私はかき途中の雪に足跡をつけ、彼女の元へ向かった。
「こんにちは、吉田さん」
私が声をかけると、彼女は「あら」と顔を上げた。
「待っていたのよ、市子ちゃん。相変わらず、大変ねえ」
「いえ」と私は首を振った。それが肯定か謙遜か、どちらに見えたのかは知れない。彼女は私に同情の目を向け、一人でしゃべりだした。
「こんな村だと、いろいろと妙なしきたりがあるから大変よね。私なんて町から来たからピンと来ないけど、でもねえ。恋人と会うにもこんなこそこそしないといけないなんてねえ」
「……恋人じゃないです」
「そうだったかしらね? まあいいわ、とりあえず中に入りなさい。おばさんはねえ、やっぱり好きあう二人を離すのはどうかと思うのよ。私も旦那と駆け落ちしてきた口だからかしらね」
彼女は話を聞いてはいないらしい。そそくさと立ち上がると店と、半ば凍りついた店の戸をこじ開けた。
「おばさんはあなたたちの味方だからね。さ、入って入って、朔ちゃんももう待っているわよ」
店の中は閑散としていた。裸電球が吹き込む風に揺れる。背後でおばさんが震えながら店の戸を閉めた。
「先に上にいってらっしゃい。朔ちゃんはいつもの部屋よ。あとでお茶を出すからね」
彼女はそう言って店の奥を顎で示した。
二月遅れの雑誌が並ぶ棚の横に、店の奥へと通じる戸口がある。今は開け放たれ、短い廊下と奥の間が見えた。湯を沸かしている音と、ラジオから流れる声が聞こえる。
私は彼女にうなずいてみせると、示されるままに廊下に出た。すでに勝手知る家、廊下に出て右を向けば階段があるということも知っている。
背後でおばさんが奥の間へ向かう音を聞きながら、私は無心に階段を上った。ぎしぎしときしむ足元を感じながら、狭い階段を、洞穴を抜けるような心地で駆け上がる。
二階に上がると、廊下を挟んで部屋が二つ。片方はふすまが閉まっていて、もう一方は開け放たれていた。冷たい風が私の髪を巻き上げる。
――また窓を開けっぱなしにして。
寒さに上着の襟を合わせつつ思った。体が弱いくせに、そのことを自分で知らないのだ。
――相変わらず、朔は私がいないとだめなんだから。
部屋を覗くと、身を縮めて火鉢にすり寄る少年の姿があった。六畳の部屋の隅で、褞袍の袖をぎゅっと握りしめている。思った通り窓は開いたままだった。
部屋に足を踏み入れるより先に、彼は私の姿に気が付いた。ぱっと顔を上げたその様子は、まるで犬のようだ。瞳を輝かせ、寒さを忘れたように駆け寄ってくる。
「いっちゃん!」
そう言って私の体にしがみつくと、彼は鼻垂れた顔を押し付けた。私は一度だけ顔をしかめてから、彼の頭をなでた。
「朔」
私が名前を呼ぶと、朔は心地よさそうに頭を振った。
○
朔は今年で十八になる。
しかしその姿は、まるで十四、五の少年にしか見えない。発育が悪く、知恵が遅れて表情が幼いせいだ。朔の背は女である私と同じくらいしかないし、腕や足は私よりもずっと細い。
そのくせ、顔だけは驚くほどに美しかった。艶めいた瞳に、触れるのもためらわれるような肌。眉を剃ったわけでも、白粉を塗ったわけでもないのに、彼の美貌は完璧だ。
あまりにも整いすぎた美貌は、彼の年に不釣り合いな幼さと相まって、浮世離れして見えた。
だから、朔が神様の器になるのは当然だった。神様は美しいものを好むのだ。
朔の知恵という器が空なのは、神様がそこへ入るためだ。未成熟なまま育たないのは、神様が少年の姿を愛しているからだ。体が弱いのは、本来生まれるべき存在ではなかったから。知覚が鈍いのも、記憶が曖昧であるのも、すべては神様の邪魔にならないため。朔が母親の腹に捨ててきたものだ。
朔は神様のために生まれてきた。器となるための肉体だ。
そうと知ったのは、すでに朔がお社に連れて行かれた後だった。私が十も半ばを過ぎたころだっただろうか。
○
窓を閉めるとき、朔は少しいやな顔をした。寒がりで病弱なくせに、朔は外の空気を絶たれるのを嫌う。吹雪の日でさえそうなのだ。冷たい雪を浴びて、震えながら喜ぶ朔を部屋に連れ戻し、叱りつけるのが私の役目だった。
それでも締め切ってしまうと、朔は観念したようだ。私の手を引いて火鉢の横に座ると、体を押し付けてきた。
「いっちゃん」
弟が姉に甘えるように、朔は言った。
「いっちゃん、会いたかった」
うん、と私は曖昧に返事をした。くっついた体を寄せるべきか離すべきか悩み、無意識に肩が強張る。
「もうすぐ冬至祭だね。男衆を見たよ。お社に向かっていた」
緊張をごまかすように私が言うと、朔は小首をかしげた。
「忙しい時期に、よくお社を抜けてこれたね」
「いっちゃんに会いたかった」
「でも、みんな許してくれなかったでしょう?」
「会いたかったから」
朔の言葉は要領を得ない。言いたいことしか言わないからだ。十四、五の見た目よりも、彼の心の年齢はもっと幼い。私と別れたときから成長していないのかもしれない。
お社は、朔の逃亡には目を光らせていた。
器は神様のものだ。傷つけるわけにもいかないし、他に渡すわけにもいかない。その体は幼く清いままでなくてはならない。誰かを想い、心を満たさせてはいけない。器に別のものが満ちてしまえば、神様の入る場所がなくなってしまうのだ。
だから朔は、お社にいって以来、人前に出ることはめったになくなった。出てくるのは祭事の時。その身に神様を宿した時のみだ。
神様を宿した朔は、私にはまるで別人に思えた。神託を下す朔。鋭く村人を見据える朔。巫女たちと難しい会話を取り交わす朔。遠目から見つめる私には、距離以上の隔たりを感じずにはいられなかった。
お社を抜け出すのは簡単なことではない。
それがどうして、こうして時折、雑貨屋で逢瀬を重ねられることになったのだろうか。いつの間に私は夫妻と顔なじみになり、彼らは私たちをかくまってくれるようになっただろう。私はそれほど人と親しくなれる性質ではなく、朔はそもそもの知恵が足りないというのに。
昔の記憶を掘り返していると、朔が退屈そうに私の腕を揺らした。
「いっちゃあん……」
不満をあらわに、朔は私をにらんでいた。年に不相応な外見。それに輪をかけて不相応な幼い表情。まるで幼児のようなその態度に、私はもやりとした心を握りつぶした。
どうして、とか、どうやって、なんていうのは、朔を前には二の次だ。私が会いたいと思って、朔もまた同じ気持ちでいた。
なに、と返事を返すと、朔は目を細めた。寒さのせいか、いつも以上に私にべったりと抱き着いて、何気なしに言う。
「いっちゃん、だいすき」
舌足らずのくせに、声変わりも済ませた大人の声で。
――同じ気持ち、か。
私は苦々しさを隠すように首を振った。先ほどとは別の、もやもやとした複雑な感情が、私の心の中に顔をのぞかせる。
○
朔を意識し出したのはいつからだろう。
昔から朔は私の弟分で、子分だった。私が偉ぶっても素直に慕ってくるのが朔。いつも私の後をついてくるのを半ばうっとうしく、半ばうれしく思っていた。あのころは、まだ私と朔の間に男も女もなかった。
朔と別れ別れになって、いつの間にか隠れて会うようになった。あのときもまだ、朔は私の弟だった。
変わったのはたぶん、朔がまぎれもなく「子供」から「少年」になってからだ。大人の男とは言えなくとも、その姿は少女とは間違えない。声は低くなり、体に丸みはなく、少し骨ばっていた。私とは違う方向へ成長しているのだ。
朔が男になる。私は女になる。朔は昔と何も変わらずに、私を慕っている。どこか浮世離れした瞳には、純粋な好意にあふれていた。
だけど私の気持ちはきっと、変わりはじめている。
朔に「好き」と言われ、同じ言葉を求められるたびに、ためらう気持ちが強くなっていく。
○
いつの間にか寝ていたらしい。
目を覚ますと朔が隣にいて、ちょうどおばさんがお茶を渡しているところだった。朔は両手でかけた湯呑を受け取り、呼気で湯気を吹いて冷ましていた。
「あらあ、おはよう。市子ちゃんも、お茶どうぞ」
おばさんは私にも湯呑を差し出した。私は軽く会釈をして受け取る。
「でも、そろそろ戻ったほうがいいかもね。外、雪が降り出したわ」
彼女が窓の外を視線で示す。追って見れば、白い淡雪が舞っていた。まだ降り始めらしく、雪かきされた土色の地面がむき出しのままだった。
「本降りになったら出られないからね。泊まっていくわけにもいかないでしょう、特に朔ちゃんは」
自分の名前を呼ばれ、朔は不思議そうに小首をかしげた。彼の代わりに、私がうなずく。朔はお社の大事な器だ。奪ったり、傷つけたりすることがどれほど大変なことか、村に住んでいてわからないはずがない。神の財産を傷つけ、村八分になった人間も幾人か、私は見たことがあった。こうして隠れて会うことも、それを手引きすることも、村八分には十分な罪なのだ。
そのことをわからないのは朔だけだ。彼は何度も吹き冷ました茶を飲もうと、恐る恐る湯呑に口をつけていた。
「お茶をいただいたら帰ります。すみません、いつも」
「いいのよお」とおばさんは笑った。
「こんな村だもの。私たちくらいは味方しないとね」
私は黙って頭を垂れた。朔が隣で舌を出す。どうやら火傷をしたらしい。
○
雪は間もなく、本降りになろうとしていた。店を辞すとき、ちょうど店の品を手入れしていた吉田のおじさんにも出くわした。彼は私と朔を認めると、あまりいい顔をしなかった。
「ここは逢引宿じゃねえんだぞ」
「いいじゃないですか、あなた」
一緒に二階から降りてきたおばさんがなだめる。
穏やかで品のある妻と、見た目からして厳めしいその夫は、夫婦であることが奇妙に思えるほど不釣り合いだった。もしかしたら生まれや育ちも違うのかもしれない。だからこそ、駆け落ちをせざるを得なかったのだと考えると、妙に納得できた。
「だけどなあ」
おじさんは渋い顔で私たちを睨みつけた。
「あんま違う立場で入れ込みすぎるとなあ。いずれは心中でもする他になくなるぞ」
「あなたったら」
おばさんがおじさんの肩を叩いた。叱るような、たしなめるような、夫婦のしぐさだ。
「大丈夫よ。好き合っていれば、案外どこでもやっていけるものだから」
○
店を出て、私は雪道を歩いていた。肩に雪が降り積もり、軽く手で払う。次第に雪は強くなり、足元を冷たくした。百姓袴の裾が水気を帯び、重たくなる。私は体を縮めた。
ふと顔を上げると、山の傾斜を切り落とし、大きく構えられたお社の姿が映った。茅葺の屋根は重く、大鳥居の姿が視認できる。遠目から見ても、思わず畏怖を感じる存在だ。山の枯れた田畑や、貧相な家々とは比べるべくもない。
いつもはあそこに朔がいる。巫女と神官に囲まれて、遠く別世界で暮らしているのだ。
私と朔の立場は違う。もしかしたら、吉田の夫妻よりもずっと、身分違いなのかもしれない。
――こんな暮らし、長く続くはずがない。朔と隠れて会い続けるなんて。
どこかで変化をつけなくてはいけない。わかっているのだ。心中する他にない、と言った吉田のおじさんの言葉に、私は唇を噛んだ。
――それは好き合っているからできることだ。
私の好きと、朔の好きとは違う。
私は朔を連れて行くことはできない。死んでも一緒にいたいと思うには、朔と私の想い差がありすぎた。
息を吐くと白い。吐いた先から雪に紛れ、消えていく。
白い空を見上げて、私は何度も息を吐いた。ともに店を出た朔が、いなくなっていることには気が付かなかった。
○
冬至祭で見た朔は、いつもに増して白かった。
遠目から、巫女たちに囲まれた姿を見ることしかできなかったが、それでもわかった。
雪が舞い、刺すような冷たい風が降る中、朔は白い装束一枚を身に着けただけの姿で、震える様子もなく村人たちを見回していた。
中に神様が入っているのだ。神様には寒さなどは無縁だ。器が冷えようと、熱されようと、それが伝わることはない。
祭りの時だけ開け放たれたお社の境内には、村中の人々が集まっていた。神託を聞こうと集まってきたのかもしれない。供物をささげに来たのかもしれない。単純に、私のように朔を見に来ただけの者もいるかもしれない。
境内は慌ただしくも活気づいて、大声の会話があちらこちらで交わされていた。
冬の厳しさや、昨晩つぶした鶏のことや、戦争から帰ってこない幾人かの男たちのこと。村の男衆の大半は、戦争が終わる前に戻ってきたくらいなのに、思えばそのあとは誰も帰ってこないなあ。戦死しちまったんだろうか。それとも今年の雪が深いせいで、帰ってこれないのかもしれねえなあ。
祭りのたびに交わす言葉だった。雪は深く、春は遠い。冬至祭が終わって、正月が来て、それでも春はいつまでも来ない。
朔はいつまでも、凍りついた冬空の下で、神様のために体を差し出し続けなければならない。
寒さにくしゃみを一つし、帰ろうかと思った頃、ふとした会話が聞こえてきた。
「あの器の具合が、最近はよくないらしい」
低い男たちの声だった。特にはばかることなく吐き出す言葉に、私は耳を澄ませた。
「元から弱い体に、神様なんて入れるからだそうだ」
「もう長くはないんだと」
人の波と雑音に押されながらも、聞き逃すまいと私は声の方向を見た。人影に見え隠れするのは、お社の神官たちだ。黒い袍の男たちが、ささやき合っている。
「しかし神もあれを気に入っておられる。離れたがらない」
「どうせ元より生のない器だ。壊れてもよいだろう」
「腐らぬようにしてやらねばならぬなあ」
目を凝らして神官たちを見た。袍をまとっている。白い袴を着ている。雪の下、彼らも寒さを感じていないかのように涼しい表情だった。
そこまで認識できるのに、どうしてか、神官たちの顔がわからない。目も耳も鼻もあるというのに、まるでのっぺらぼうのように漠然として見えた。
○
会いたい、と朔から言伝を受けた。
雑貨屋で一人、古い雑誌に目を通していた時のことだ。吉田のおばさんが私を手招きし、店の陰でそっと伝えてくれた。
「あのね……朔ちゃん、もしかしたら最後になるかもしれないって言ってたのよ」
声をひそめて彼女は言った。理由がわからず、私は瞬いた。なぜ、と疑問の言葉も出ない。
「なんて言えばいいのか知らねえ。私たちは外から来たからわかるけど、市子ちゃんにはよくわからないわよねえ、ずっとこの村にいたんだものねえ」
「おばさん?」
私は眉をしかめた。彼女は口を結び、どこか憐れむような視線を寄こした。
「たぶん朔ちゃんは、もう本当にお社の人になっちゃうのよ」
あそこは別世界だからねえ、と言って彼女は首を振った。
私には彼女の言うことが理解できなかった。ただ、ひどい違和感と不快感だけが胸に残った。
○
雪が強くなり始めていた。
雑貨屋の二階から、朔が目を輝かせて外を眺めている。両手を窓に押し付け、頬も押し付け、幼い子供のようなしぐさで雪の動きを追っていた。
「朔」
呼びかけても返事がない。
「朔、寒いでしょう。戻りなさい」
仕方なく立ち上がって、私は窓に張り付いた朔の手を取った。自分では体の弱さも、寒ささえもあまり自覚していない朔のことだ。放っておけば体を壊すだろう。今も咳とくしゃみを繰り返し、腕で顔を拭っているくらいだ。熱が出ていてもおかしくない。
そう思って掴んだ朔の手は、驚くほどに冷たかった。雪を固めたようなその手の温度に思わず手を離す。朔が不思議そうに私を見上げた。
「いっちゃん?」
私はまじまじと朔を見つめながら、もう一度その手を取った。指で朔の手の甲を撫で、私の体温を押し付けるように強く握る。
「いっちゃん、いたい」
そう言われても、私は手を離さない。朔を窓から引きはがし、火鉢の傍へ座らせても、まだ手を掴んだままだった。朔の手はどれほど握っていても熱を取り戻さず、むしろ私の方が冷やされていた。冷たさに赤くなった私の指先と、朔の白く滑らかな指は対照的に見えた。
朔は火鉢の傍で足を崩し、不満に頬を膨らませていた。私はその顔をしばらく眺めてから、「あの」とためらいながら口を開いた。
「体の調子は悪くない?」
瞬きする朔の額に、私は空いている方の手を伸ばして触れた。手と同じくらい、ぞっとするほど冷たかった。
「朔……寒くない?」
黒い瞳に大きく私を映したまま、朔は首を傾げた。それからすぐ、首を横に振る。
「へいき」
私の視線にくすぐったそうに、朔は目をそらした。
私は息詰まるような心地で朔を見つめ続けた。指の先が、凍傷を起こしたようにじんじんと痛み出した。
朔、と私はつぶやいた。
「朔、逃げよう」
朔が顔を上げた。無垢な顔つきで首を傾げる。
「これ以上、神様を入れたらだめだ。逃げよう」
冬至が過ぎれば、また別の祭りがある。そのときに朔は寒空の下、神様を降ろすことになるだろう。
神官たちの言葉がよみがえる。体の弱い朔に、神様を入れるのは無茶なことだ。もう、これ以上長くはないのだ、と。
朔の失われた体温が、彼らの言葉を裏付ける気がした。次が無事でも、またその次がある。冬の祭りは永遠にめぐる。いつまで朔が耐えられるだろうか。
朔の手は死人よりもなお冷たい。こうして動いているのが、不思議なくらい。
朔は目を瞬いて私を見つめた。
「にげる?」
「村を出るの。山を下りて、神様のいないところに」
「なんで?」
思わず言葉に詰まる。
なぜだろう、と私が思った。吉田のおばさんが言ったことが気になっているのかもしれない。会えなくなるのが嫌だというのも、本心ではあった。
だけどそれ以上に、朔の手の冷たさに震えたのだ。漠然とした不安と予兆が体の中に渦を巻いていた。
曖昧な思いは、明確な言葉の形にはできなかった。黙る私を朔が見つめる。なにか思案するような、私の心を覗くような目つきだ。知性の宿る瞳に違和感を覚えるが、それもまた、言葉にはできなかった。
「いっちゃん、外に出たいの?」
私はうなずいた。朔を外に連れ出したいのだ。繰り返す冬の寒さから、朔を逃がしてやりたい。
「いっちゃんがしたいなら、そうする」
朔は私の手を握り返して言った。
窓の外、雪はなおも強く降り続いている。窓の外は白く染まり、風が雪を巻き上げた。
○
一階に降りると、吉田夫妻が待ち構えていた。
何もかも見透かしたような顔で、私と朔を見比べる。
「こんな雪の中に出ていくなんて、心中しに行くようなもんだぞ」
おじさんがぶっきらぼうに言った。苦々しい表情で私たちを睨みつける。
「それよりは、この村の方がいくらかましかもしれねえ」
あなた、とおばさんが咎めるようにおじさんを小突いた。彼女は私と朔を見比べて、どことなくさみしい目をした。
「私たちは、来たくてこの村に来たけど、市子ちゃんは違うのよ」
「ふん」とおじさんは鼻を鳴らし、私を睨みつけると奥の間へと去って行った。おばさんがその後ろ姿を見やり、「ごめんなさいねえ」と苦笑する。
「気を悪くさせてしまいましたか?」
私が首をすくめて尋ねると、おばさんは首を横に振った。
「すぐに戻ってくるわよ。ほら」
彼女の視線を追うと、おじさんが大股で戻ってきた。不機嫌そうな渋い顔で廊下に立ち尽くす私を一瞥し、ぐいっと小さな袋を押し付けた。
財布だった。小銭が詰まっているのだろう、ざらりとした手触りと重みが、布越しに伝わってきた。配給切符ばかり目にしてきた私には、久しい感触だ。
「俺たちにはもう、いらねえもんだ。でも、お前が外に出るなら必要だろう」
私は瞬いた。おじさんは目をそらし、おばさんが優しく微笑んだ。
「好きあっているなら、きっと大丈夫。外はもうとっくに冬が終わっているはずよ」
3.
空からは絶えず重い雪が降り、視界を白く染め上げる。慣れたはずの山道は雪に埋もれ、まるで別の世界のように思えた。絶え間ない雪が足跡を掻き消し、戻り方もわからない。枯れた木々はすべて同じに見える。どこを歩いているのか、次第に検討さえもつけられなくなっていく。
本当は、こんな雪の中に朔を連れ出すべきではなかったかもしれない。朔の手を握りながら、私は思った。足は休まずに、深い雪を踏み分ける。目深にかぶった笠は重く、溶けだした雪が衣を伝って肌を濡らした。寒い。いっそ心中する方が、楽になれる気がした。
――心中は好きあう男女がするものだ。
それでも、私は内心で首を振る。朔と村を出たのは愚かな行為だとしても、それは死ぬためではない。私と朔は好き「あう」男女ではないのだ。私は朔のために死ねたとしても、朔を死なせるだけの理由はない。
朔は口数少なく、私についてきていた。たまに振り返ると、青い顔のまま私を見据えている。辛い道程に連れ出したことを、恨んでいるのだろうか。朔の視線は痛みを伴うが、それでも私にはあそこで朔をお社に返す選択はできなかったと思う。
○
同じ場所を何度も歩いているような気がした。足跡が消え、そりの跡もないせいだろう。戦争が始まる前までは、冬でもまれに冬ぞりが出ていた。それももう途絶えて久しい。
思えばここ数年、村の外に出た覚えがないのが不思議だった。村の外の情報は、雑貨屋のラジオから聞いた。戦争が終わったということは、あの夫婦が来て初めて知った。
私と朔の間には言葉なく、ただ思考だけが渦巻いていた。なにか歪な感覚がある。どこまで行ってもたどり着かないような予兆がある。
踏みしめる雪でさえ、どこかおぼろげに思えた。
山道を下る。間違いなく坂を下りている感覚はあった。しばらく行けば沢が見えてくる。そうしたら、村の隣の集落まで出られるはずだった。
――沢まで降りたのは、いつ以来だろう。
たしか、春には山菜を摘みに来たはずだ。川で朔を遊ばせた覚えもある。しかし、記憶がやけに遠い。
さくさくと雪を踏む。私の足跡が真新しい雪の上に残る。そういえば、獣の足跡はないのだと、私はあたりを見回して思った。そりの跡も、マタギの足跡もない。誰もこの道を通ったことがないように見える。
つないだ手が冷たい。何も言わない朔の視線を感じる。
○
あたりの景色は変わらない。
ただ白い処女雪に、私の足跡をつけていくだけだ。どこにも辿りつかない。雪は止まず、沢は見えず、どこを歩いているのかさえわからない。
体は震え、足が重くなっていく。意識はうすぼんやりとして、ただ前に進むだけの人形になった心地がした。足元がふわりと曖昧になる。私はどこを歩いているのだろう。どれほど進めば、この山を出られるのだろう。
気持ちが虚ろになり始めたころ、不意に手を引かれた。振り向けば、朔が立ち止まったまま動かない。
「朔?」
私の呼びかけに、朔はうつむいたまま応えなかった。視線は私に向いているのに、目を合わそうとはしなかった。
「朔、どうしたの。寒い? 疲れた?」
寒いのであれば、私の外套を着せてやれるが、疲れたとしても休む場所はない。戻る道も曖昧で、慣れた山の面影さえ窺えなかった。
「いっちゃん、ごめん」
私は眉をひそめた。朔はつないでいた手をゆっくりと離すと、逃げるように一歩足を引いた。氷を掴むようだった私の手に、にわかに熱が戻ってくる。指の先はろくに感覚がなく、小刻みに震えていた。
「僕のせいだ。僕が道をわからなくしている」
「……なに?」
朔はようやく顔を上げた。瞳はまっすぐに私を捉えている。深い苦悩をかみしめた、どこか痛々しい表情を浮かべていた。
「僕はきっと、いっちゃんを逃がしたくないと思っているんだ」
私は訝しげに朔を見やり、彼がそうしたように、一歩足を引いた。全身を眺め、彼の白い顔で目を止めた。朔と視線を合わせると、私はゆっくりと口を開いた。
今までの奇妙な違和感を、言葉にして吐き出す。
「――――あんたは、誰?」
○
どこから違和感を覚えていたのかは、もう思い出せない。
雪山を下りるうちに、次第に感じていたような気もするし、村で暮らしているうちからずっと感じていた気もする。
いつからあのお社ができたのか。
いつから村は冬なのか。
いつから村から外に出なくなったのか。
どうして兵隊に行った男衆が終戦よりも先に帰ってきたのか。
奇妙であることを奇妙と思わなくなったのはいつからだっただろうか。
私と朔は向き合ったまま、しばらく見つめあっていた。互いに雪が降り積もる。来た道に残る足跡は、一つしかなかった。
「朔はどこ」
「いっちゃん」
「いつから朔はいなくなったの? 朔はどこ!」
私が詰め寄ると、彼は朔の表情で、おびえたように肩を強張らせた。ほとんど背丈は変わらないくせに、見上げるような視線は朔のままだ。
「……ごめんなさい、いっちゃん」
私は顔をしかめた。目の前にいるのが、朔の皮を被った化け物のように思えた。
「朔のふりをするのはやめて。朔はどこにいるの、いつから朔は」
「ごめんなさい」
彼は私から目を離さずに言った。すがるように両手を伸ばしてくる。思わず身をかわしそうになった私を逃さず、彼は私にしがみついた。
冷たい体が押し付けられる。彼は私の首筋に顔をうずめ、肩を震わせた。
「最初から……お社に行った時からずっと、もう朔はいない。いっちゃんに会っていたのは、全部、僕だ」
氷の塊にとらわれた気分だった。私はこのまま、凍えて死ぬのだと思った。
○
たとえば空だと思っていた器に、ほんの少し中身が残っていた。
それに気が付かずに水を注いで、元の中身と混じり合い、分けることができなくなってしまった。
そもそもがおかしかったのだ。
朔はお社を抜けることはできない。隠れて会うための知恵もない。
雑貨屋の夫婦と親しくなることも、こっそりと逢瀬の伝言を交わすことも、誰にも会わずにお社を行き来することも、白痴の朔にできるはずがなかった。
なぜ疑問を抱かなかったのだろう、と思う。
疑問を抱いたとしても、きっと会い続けただろう、とも思う。
○
自らの中に、朔の拙い感情が残っていた。それは不純物であった。幼児のような朔の記憶は乗っ取ることができても、それだけは消せなかった。
そんなことを、朔の中に入りこんだ存在は語った。
朔の感情を、彼は恋心であると補足した。幼い想いに名前が付き、彼の知性によって補強されると、あとは増すばかりであった。
「会わずにはいられなかった」
朔は私を抱きしめた。雪よりも冷たい。
「この感情は朔のものだけど、僕はもう朔じゃない。朔のふりをして、ずっといっちゃんを騙していたんだ。だから、ごめんなさい」
私は呆然と彼を見下ろした。
「……もとの朔は」
「もう消えた。ずっと前に。この体も、きっと長くはない。いっちゃんの大事な朔の体を壊してごめんなさい。でも、この姿で会いたかったんだ」
目の前の彼は、遠くから眺め続けていた「神様」だ。私が隠れて会い続けてきた、すべての「朔」だ。昔なじみの朔と入れ替わった化け物で、いつからか私が恋し続けている相手だ。
私は彼を振り払うことはできなかった。顔に落ちた雪が解け、冷たいしずくとなって頬を伝い落ちる。白い息を吐き出すと、雪の中に溶けて消えた。
「私のこと、好き?」
私がつぶやくと、朔が抱きしめる腕に力を込めた。
「好き。ごめんなさい、好き」
「私のこと、殺すの?」
兵隊から戻ってきた――おそらく死んだであろう男衆を思い浮かべながら、私は言った。
たぶん、村にとらわれるには、それが一番良い方法なのだ。
「いっちゃん」
「私も好き。朔がずっと好きだった」
少し迷ってから、私は彼を抱きしめ返した。張り付くような冷たい痛みも、今はあまり感じなかった。頭の奥でかつての朔を思い返し、胸がつんと痛んだが、その感情も、寒さが次第に鈍らせてくれた。
「殺していいよ。きっとこれも、心中みたいなものだね」
死んでも同じ場所にいたいと思えるのなら、心中と言えるかもしれない。私はここで倒れても、きっと気が付けば、また村で暮らしている。そして少しも疑問を覚えずに、彼との逢瀬を、明けない冬の間ずっと続けるのだろう。
ぞっとするほど空恐ろしく、幸福であるとも思えた。
「……いっちゃん」
朔が私に頭を押し付けた。頬を朔の髪の毛がくすぐるが、感覚はなかった。
「いっちゃん、ごめん。ごめんなさい」
○
「いっちゃんを連れて行けない。僕はいっちゃんが思うよりも、ずっと、君のことが好きなんだ」
○
目を覚ますと、私は沢に転がっていた。水が朝日を浴びながら穏やかに流れる。新緑から漏れる日差しがまぶしくて、私は目を細めた。
体を起こし、私はうめいた。上天気に綿入りの半纏は暑すぎて、私はしらずに汗をかいていた。
「朔……?」
誰もいなかった。カッコウの鳴き声だけが耳に返ってきた。
「朔…………」
私は両手で顔を覆い、返事がないと知っていて、かすれた声で名を呼んだ。指が凍傷を起こして、赤く膨れていた。
半纏の袖から、吉田夫妻から渡された財布が転がり落ちた。
初夏の風が、季節外れの私に吹き付けた。
00.
沢から集落に向かうと、出征していた兄が戻ってきていた。
小さな家々の外れに小屋を作り、そこで一人暮らしていたらしい。村まで帰りたかったのだが、その村はもうないのだ。そう言って、私との再会にひどく驚いていた。
「お前、今までどこで暮らしていたんだ。村が焼かれてから、もう十年以上も」
「村が、焼かれた?」
兄は随分と気苦労を負った顔で、私をまじまじと眺めた。
「空襲を受けたんだろ? 死体も残らん有様だったと聞いた」
私は瞬いた。兄に嘘をついているような様子はない。だいたい、そんな嘘をつく必要だってないのだ。
「山の裏に軍需工場があったからなあ。巻き込まれたんだろうなあ……」
床板の上で足を組み直し、兄はぼんやりと虚空を眺めた。彼にとってあの村は、十年も前になくなっていたのだ。
「戦争に行った村の連中もみんな死んじまったし、もう誰もいないと思ってた。だからお前が生きていてくれてうれしいよ」
兄は大きな手で私の頭を撫でた。幼い子供にするような態度だが、きっと兄にとって私はまだまだ十年以上も前のまま。出征した時と変わらない、小さな妹なのだろう。
私は居心地悪く頭を振ると、兄の顔を見上げた。無意識に、焼けた赤い指を撫でる。
「……兄さん、村のお社を覚えている?」
「お社? 家の裏の稲荷さんか?」
それ以外に考えられないというように、兄は小首を傾げて言った。私はそれ以上、何か尋ねるのをやめた。尋ねても無意味だった。
○
寒さで死んだ指を何本か落とすのに、吉田夫妻からもらった財布を開いた。
集落を下り町の病院に通ううちに、いつの間にか私は町で暮らすようになっていた。ぼろの借家に兄と二人で暮らしを始めるには、吉田夫妻からもらった金額は十分だった。兄は町で機械工の仕事を見つけ、私は足りない指で、不器用に内職をした。
二人、暮らしていけないわけではない。
000.
墓参りだとか、雪山で心中したらしい恋人の供養だとか、適当な言い訳をつけて私が村へ行くことを、兄はあまりよく思っていなかった。
冬にばかり、山へ登るせいかもしれない。私の指が凍傷で失われたことも、兄をことさら心配性にさせていた。
それでも、私は冬になると山へ行く。記憶にない空襲で焼けた村を歩き、お社があったはずの山を眺める。それから雑貨屋のあった場所に向かい、以前のように、雪が深く、暗くなるまでそこにいた。
風が吹くと、窓を開け放したままの朔がいるように思えた。いつの間にか傍にいて、「いっちゃん」と名前を呼ばれる気がする。
だけどそれはただの妄想で、ここに雑貨屋はなく、村もすでにない。冬はいつか明けるし、いずれは雪も解けるのだ。
――――朔。
空を見上げる。私の立つ場所には屋根もなく、壁もなく、雑貨屋があったという名残さえない。
――朔、今でも好きだ。ずっと好き。前よりも、もっと好き。
それでも好き「あう」男女として、同じ世界にいることを許してくれないのなら、私はもっと好きになる。明けない冬でも、閉ざされた世界でも構わない。もう一度顔をのぞかせて、「心中」することを許してくれるまで、何度でもまたここに来る。
私は朔が思っているよりもずっと、朔のことが好きなのだ。
薄暗い空から絶え間なく雪が降っていた。手を伸ばして雪を掴むと、朔と同じ温度を感じた。
おわり