好きになれない
あたしは犬がキライだ。
何故って、特別な理由なんてない。
ただダメなのだ。
ワンワン煩く吠えるかと思えば、近寄ってきて意味も無く足元をうろつき回る。我慢して触ってみればペロペロ手を舐めてくるし、つぶらな瞳でこちらに何かを訴えかけてくる。
そんなに見つめられても、あたしは犬じゃないから分かんないよ。
視線でそう合図するも、相手に伝わる訳は無く。
「それってさ、お前犬に気に入られてんだよ」
そう言って、彼はいつも通りあたしの文句を一笑した。
あたしの彼は大の犬好きである。
デートではペットショップに行ったりするし、犬の散歩をしている人に平気で話しかけたりもする。そして何より、彼の実家は犬を飼っている。彼が高校生の時にやって来た、柴犬のオス。彼はこの犬を溺愛していて、社会人になり一人暮らしを始めた今でも、度々実家まで犬の様子を見に帰っている。
勝手にしてくれ。
実家が近いものだから、デートの合間に犬を見に寄ったりもする。今日だってそうだ。今日の目的は、あたしが前々から行きたいと言っていたお店にご飯を食べに行くこと…だがその前にコレである。
最初はあたしも可愛い子ぶって、犬など平気なフリをしていた。けれどそれも一月でギブアップ。今では正直に犬が苦手だと宣言している。それでも彼は、犬を可愛がるのを止めない。
「結婚したらさぁ、絶対犬飼いたいんだよなぁ。そんで一緒に庭で遊ぶんだ」
「あっそ」
愛犬のエルモ(丸い目とニッコリ顔がキャラクターのエルモに似ているからそう名付けたらしい。似てるかなぁ?)の体をわしゃわしゃと弄りながら、彼はそんな理想を語った。
あたし以外の女の子なら受け入れてくれるかもね。
嬉しそうにエルモを眺める彼。その横顔を見ながら、彼もまたやはり、犬にそっくりだなぁと思った。
巷で言うところの、ワンコ系?
顔が可愛らしいタイプだから、というだけでなく、どことなく中身もそんな気がする。
優しくて、心が広くて。あたしが我儘言っても笑って受け止めてくれるし、怒ったところなんか見たことが無い。
まるで犬がご主人様に忠誠を誓う、ような。
「さぁ、そろそろ行こっか」
「うん」
彼はエルモにちゅっ、とお別れの挨拶をして、小屋に戻した。あたしなら絶対出来ないようなことを、彼は簡単にやってのける。
実家を後にし、彼の運転する車に乗り込んだ。助手席に座り、シートベルトを締める。
「エルモ、今日は大人しかったな」
「ん」
「だいぶお前にも慣れてきたんだよ」
「かもね」
彼はそう呟きながら、目の前に見える家の門扉を眺めていた。
その向こう側では、先程バイバイしたばかりのエルモが小屋から出て来て、あたしたちが帰るのを見守っていた。
エルモが見ているのは彼だけだ。今日エルモが大人しかったのは、ご主人様である彼があたしの存在を特別視していることにようやく気付いたからだろう。エルモは決して、あたしに気を許していない。
「なぁ」
「なに?」
「これ、なに?」
彼がふいに、あたしの首元に手をやった。シャツの襟で隠されたその場所を、彼の手が露わにする。
赤い跡。
「さあ、知らない」
「こないだは、こんなん無かったよ」
「そう?」
「そうだよ。…また?」
また?
その言葉の意味を、改めて聞き直す必要など無い。
また誰か別の男と?
「ごめん」
「本気でそう思ってる?」
「思ってるよ」
「そう」
彼はあたしから手を離して、ハンドルを握りしめた。
その手にキュッと力が入って、血管を浮き出させる。青い管、真っ直ぐに伸びる。
彼の視線の先には、エルモがいる。
彼とエルモは視線を通じ合わせて、何か話しているような気がした。
あたしなんか見ていない。
彼とエルモは、二人だけの世界にいた。
「ごはん、食べに行こうか」
「うん」
そう言って、彼は車を発進させた。
エルモがじっとこちらを眺めているのが、最後に目に入る。
寂しいんだろうか。
だけど寂しいかどうかなんて、ただの推測で実際はどうか知れない。本当は清々したと思っているのかもしれないし、餌が欲しいんだけどと思っているのかもしれない。
彼はもう何も言わずに、運転だけをしていた。あたしには、エルモの気持ちが分からないと同様、彼が何を考えているのかも分からない。彼はあたしに対して、何の文句も言わないのだから。
今は、あたしが行きたいと言っていた中華料理店に向かっている。
彼は黙っている。
あたしに対する悲しみや苛立ちを、きっと沢山抱えている。それでもあたしを迎え入れる彼。
彼はご主人様に捨てられることを恐れる犬のよう。ご主人様はもちろんあたし。あたしはそれが心地良い。可笑しな話だ、あたしは犬が嫌いなのに。
本当のところ、彼はあたしを憎んでいるのかもしれないけれど。
馬鹿なあたしはきっと、何も変わらない。
犬だって好きになれない。
きっと、そうだ。